凍てついた世界に終焉を 前編
雪景色が果てなく続いている。
一寸先も見通せないほどの猛吹雪が、いつまでも止むことなく続いている。
およそ生命の色が見えない雪原を、一つの人影が黙々と進み続けている。
少年、いや青年だろうか。冒険者を名乗るには一見あまりに似つかわしくないあどけなさの残る相貌。
しかし深雪をものともしない歩みから、彼が旅慣れしていることは明らかだった。
彼の行く道に痕跡を残すことは叶わない。踏みしめた足跡をすぐ後から雪のベールが綺麗に覆い隠してゆくからだ。
目印の欠片もない銀世界、摂氏マイナス100℃を優に下回る極寒の中、しかし確信を秘めた彼の足取りに一つの迷いもなかった。
そんな彼には見るからに奇妙なところが二つあった。
一つは、寒冷地仕様の旅服であるものの、恐るべき寒さを耐えるには遥かに心許ない軽装備であることだ。
通常の人間であれば直ちに凍死すべきところ、どうやらもう一つの奇妙によって、彼の生存は平然と成り立っているようだった。
彼の身を薄く包むオーラが――目の覚めるような青き輝きの衣が、小さな灯火のごとく昏い雪原の一点をゆらゆらと照らしている。
常人には到底生存不可能な領域にあっても、あらゆる不利を退けて己の進む意思を貫くことができる。それはきっとそういう性質のものであった。
さて。静寂なる世界では、彼の吐く息に混じり気の白は生じない。それが結実するに必要な塵やごみがないからだ。
文明の気配のない土地で、空気は完璧に澄み切っている。
深刻な問題は、この星にとってこの場所が特別な領域ではないという残酷な事実である。
その星をもし外から眺めることができたならば、穢れのない白一色を示すだろう。
すべての海と大地が凍り付いた死の世界。全球凍結――俗にスノーボールと呼ばれるものだ。
つまりは、とうに手遅れになってしまった世界を旅人は行くのだ。
何のために。可能性の失せた氷の世界に引導を渡すのか、あるいは。
やがて少年は目的の存在に辿り着く。
彼の前には、ただ一人の少女が深刻な憂いを秘めて目を瞑り、じっと佇んでいる。
肌は雪女のように白く、髪も透き通るような銀色で風に靡いていた。
彼女もまたそこに在るには不自然なほど軽装で、そこに在り続けるには不合理なほど儚く映った。
もし本当に見た目通りのいたいけな少女であるならば、数刻と生きられないだろう。
真実は彼女こそが異常気象の源であり、世界を終わらない冬に閉じ込めた元凶である。
まこと力ある存在であると、彼は一目にして確信した。
同時、辿り来た少年の存在に気付いた少女は、胡乱げに瞼を開ける。
凄まじい吹雪が耐えず叩き付け、このままではまともに互いの顔を見ることもできない。
そこで彼が指をパチンと鳴らすと、ちょうど二人の周りだけを切り取ったようにぴたりと雪が止んだ。
わずかに驚き目を見開く彼女に、旅人は目深に被っていたフードをゆっくりと外す。
露わになった双眸はまるで彼女の奥底までを見透かすように、穏やかな海色の光を湛えている。
そして少年は口を開いた。深刻な状況に関わらず、世間話でも切り出すかのように。
「こんにちは」
「こんなところへ。とんだ物好きもいたものだ」
「すごい雪だね。おかげで大変だったよ」
「何者だ。少年」
「通りすがりの旅人さ」
見かけ通りの年齢や生き様でないことは雰囲気から推察できたが、彼の容姿から少女はあえてそのまま少年と呼んだ。
酔狂にも旅人を名乗るこの男は、自分の名や正体など重要ではないとさらりと返す。
少女は訝しみ、奇妙な来訪者をさらに値踏みしつつ見定めた。
ともすれば疑う気も抜けそうなほど人当たりの良い空気を醸しているのに、不思議と底が見えない。
彼の身に纏う深青のベールは一体何だ。気力にせよ魔力にせよ、オーラというものは通常色を持たないはずなのに。
ただ一つはっきりしているのは、わざわざ外から訪ねてきた物好きだということ。
なぜなら。この星にもう生きた人間は誰一人としていないのだから。
そして己を旅人などと自嘲めいて宣う人種は限られている。
「昔話に聞いたことはある。星渡りの旅人――フェバルか」
「一応そうなるね」
彼がどこか含みのあるほんのりと笑みを浮かべたのに彼女は眉をひそめるが、真意のほどはわからない。
「大概ろくでもない連中らしいが」
「あはは……。否定はできないかも」
「キミはどうだ。私を誑かしにでも来たか」
どこまでも伸びる暗黒の空を見上げて、少女は嘆息した。
再び彼を見つめて、続ける。
「あいにく気分じゃないんだ。ずっとな」
突き放すような言葉を紡ぎながら、彼女は不思議な少年の意思を何とか探ろうとする。
わからない。なぜ今さら自分などに興味を持ったのか。
畏れられたのも恨まれたのも随分昔の話。もう自分を直接知る者はいないのだから。
永遠にこのまま、いつか忘れ去られることがせめてもの望みだったのに。
ただ……これだけはわかる。
この男。まったく力の迸りは感じられないのに。下手をすれば本当の子供と変わらぬほどのか弱さでしかないのに。
尋常ではない。とても呑気に話をしに来ただけの少年の目つきではない。
今にも何かに挑もうとする者の――戦士の目だと。
かつてそんな目をした愚か者どもがいた。
無謀にも己に挑み、命を散らした名も知らない無数の兵士たち。
彼らのことが脳裏に蘇り、彼女は顔をしかめた。
「それとも私を殺しに来たか」
「必要ならば」
それもありふれた日常会話のように、彼はあっさりとそう言った。
「ほう。大きく出たな」
彼女は生まれながらの超越者である。言葉通り人を遥かに隔絶した個としての力を持つ。
まだ人類がこの地にあった頃、結局いかなる刃も魔法も彼女を貫き通すことはしなかった。
持て余した力のほどはどうか。その気になれば、この手は生命からすべての活力を奪い取ってしまう。絶対零度にも等しい冷たさで。
触れざる存在だという自負はある。彼女自身にとっても、誠に残念ながら。
しかし、大極寒に平然と立つ目の前の男も同類かもしれない。雪の女王に嘲りはなかった。
「気は進まないが、黙って死んでやるわけにもいかない」
私にも事情があるのだと、少女は凄んでみせる。
次第に高まる魔力が地鳴りを引き起こす。向こう側で大きな雪崩の音がした。
この猛りを前にすればどんな人も動物も死を確信し、震え竦み上がるほどの力だ。
だが男は眉の一つも動かすことはしなかった。
「まあ待ってよ。まだ戦うと決めたわけじゃない」
彼としても為すすべなく始めるのは本意でないようだった。
「まずは話を聞きたいんだ。そう――君自身の口から聞きたいんだよ」
強大な魔力を前にしても彼は臆面なく、つらつらと述べる。
この地を訪れるにあたり、近隣の星から雪女の伝承を聞いて回ったという。
しかし既に時代は下り、人々の記憶からも薄れつつある。正確なことは何もわからなかったと。
それを聞いて、少女はわずかながらに愉快だった。
「そうか。私はいよいよ歴史の彼方になりつつあるわけだ」
それでいい。一方でどこか寂しいような複雑な気分も覚えたが。
「この上は直接会って確かめるしかないと思ってさ」
「キミ、変な奴って言われないか?」
「よく言われるね」
事と次第によっては殺し合いを演じようという相手に、まったくの平常心で堂々と対話を持ちかける精神はよほどいかれている。
物怖じをどこかに置き去りにしてきた少年に、少女は目を瞬かせるしかなかった。
「こんな枯れた年寄りと話しても楽しくはないと思うが」
「無駄に長生きなのはお互い様かな。話してごらんよ。少しは気が紛れるかもしれない」
「……まあいいさ。ずっと退屈していたところだ」
一つ、下らない昔話をしようじゃないか。まったく面白くもない話をね。
そう言って、彼女は語り始めた。
***
在りし日の惑星キューベルサは、豊かな自然に囲まれた美しい星だった。
原始の時代、ラルファとハルファ。双子の姉妹が生まれた。
姉は雪のような銀髪と白い肌を持ち、妹は温かな陽のような桃髪と健康的な茶肌を持つ。
同じ両親から同時に生まれ出でたと思えないほど、実に対照的な二人だった。
彼女たちは、生まれつき不思議な力を持っていた。
姉のラルファは、その心の動きに伴って天候を変えてしまう。
妹のハルファは、その心の動きに伴って大地を変えてしまう。
二人の性質は極めて自動的であり、その力を完全に制御すること能わず。
それでも幼いうちはよかったのだ。
姉の涙が小雨を降らせ、妹の笑顔がささやかな花畑を作り出すだけのうちは。
『見てお姉ちゃん。この花、お姉ちゃんみたいで素敵だね』
一面に広がるファーレの白花をひけらかして、幼き妹はよく笑っていたことを今でも思い出す。
だが平穏は続かなかった。
長じるにつれて、姉の怒りが激しい雷雨を呼び起こし、妹の嘆きが地震を引き起こす。
その頃には、姉妹の巨大な力はついに大衆の知る所となった。二人の周りには明らかな畏敬が広がっていた。
そして二人は崇め立てられ、瞬く間に国は興った。
二人だけの秘密だったものは、公然と国の、人類そのものの営みになってしまった。
晴れの下で農業をしようとするならば、姉は努めて喜ばなければならず、妹も笑顔を振りまくことが義務だった。
雨の恵みに預かろうとするならば、姉は心から泣くことを求められ、また実際にそうさせられた。
妹はそんな姉を助けることはできず、同情に嘆き悲しむことも強く自制しなければならなかった。
なぜなら彼女の嘆きは、底なしの沼地や喚び水を起こしかねないから。
『ごめんね、お姉ちゃん。代わってあげられなくて……ごめんね』
だから……だから、いつも寂しそうに姉を見守っていたな。
コントロールの難しい感情を無理に制御し、いつでも求められるままに形作ることが、二人にとっての永遠の課題になった。
そうすることが人々のためになると、無垢な乙女たちはまだ信じていた。皆喜んでくれたから。
そうすれば、人は天候を我が物とし、永遠の豊穣は約束された。
この力で芽生えた新たな命が育ち、国が大きくなっていくことにせめてもの幸福や達成感を覚えないでもなかった。
そうして姉妹は人類に恵みをもたらし続け、姉妹は見返りとして『最も豊かで満ち足りた生活』を約束された。
……そんなものは、一つも要らなかったのにな。
どうやら自然な人としての寿命が、この神話の終わりをもたらすことはなかった。
姉妹は不思議と少女の姿のまま、それより一切長じることはなかったからだ。
一度始めてしまった物語から降りることはできそうになかった。彼女たちの双肩には、既にあまりにも多くの命がかかっていた。
そして二人は……だから自ら死ぬのが怖かった。
ただ自分たちだけが亡くなってしまうのであれば、きっといつでもよかったんだ。
自ら命を絶とうとするとき、その痛みが、嘆き苦しみが。破局的事象を引き起こすのではないかと恐れていたからだ。
牧歌的な時代はいつしか過ぎ去り、先進科学工業の時代がやってきた。
そして……よくある話だ。
文明が発達するにつれて、自然豊かな星は人類の繁栄と引き換えに少しずつ薄汚れていく。
幾度も世界を揺るがす悲惨な大戦と痛みと伴いながら、人は果てぬ欲望のまま未来へと突き進んだ。
やがて農業が昼夜問わず人工の天候ドームで行われるようになり、人類がその英知によって土壌すら自在に造り変える手段を得たとき。
はっきり潮目が変わったと姉妹が感じたのは、その頃だったな。
彼女たちの力は、安定した世界の運営とやらには邪魔になったらしい。
すると愚か者どもは、巨大な力をもうただ恐れるだけになってしまった。
気付けば、人類と姉妹の対立は決定的になっていた。
表面上は平伏しながら、奴らはあらゆる手段を用いて姉妹を排除しようと動き始めた。
まったくひどい裏切りもあったものさ。
思い上がった人類にとっては誤算だったが、残念ながらこの姉妹はそう簡単には死んでやれなかった。
神に造られし肉体は極めて強靭で、優れた奴らの文明力をもってしても、いかなる毒や病気も寄せ付けなかった。
どんなに強力な銃弾もミサイルも、どんな魔法でも彼女たちを傷付けることはできなかった。
『いいんだよ。お姉ちゃん。私のことはいいから……』
心優しい妹は姉を宥め続けたが、怒れる姉はついに我慢ならなくなった。
自分のことは我慢できても、妹が執拗に攻撃を受け続けることには耐えられなかったのだな。
人類は……大自然の力を思い知ることになった。
原子爆弾も、巨大なハリケーンや津波などの前には小指ほどのものでしかない。
『女神戦争』と呼ばれたそれは、わずか一月のうちに人類の二割を死滅させ……彼らの全面降伏で終結した。
連中にとっては屈辱的な不戦条約が誓われ、姉妹は改めて惑星統合の象徴とされた。
こうして仮初の平穏が戻ったが、一度入ってしまったひずみはもう決して元に戻ることはなかった。
ああ……その頃からだ。雨が一つも止まなくなってしまったのは。
姉は心から笑えなくなってしまった。
心の底から湧いて止まない負の感情だけは、どうしようもなかったんだ。
日の光が差さなくなってしまった世界は、少しずつ壊れ始めた。
愚かな人類と、己の気分一つさえままならないダメな姉のせいでな。
ここでも健気な妹は、いつも隣に寄り添って励まし続けたのさ。
『ほら、ファーレのお花だよ。お姉ちゃん。ちょっぴり元気ないけど、綺麗だよ』
『……すまない。気分じゃないんだ』
『お姉ちゃん……』
本当に馬鹿で救いようもない姉だ。一人で勝手に塞ぎ込んで。
だから、本当の危機に気付いてやれなかった。
――ずっと溜め込んでいたのは、妹の方だった。
そのとき、初めて知ったんだ。
この感情の力は、姉妹だけで完結するものではなかったのだ。
だからまだ豊穣が望まれていたとき、彼女たちは取り繕うことができていたのだ。
しかし、時代の流れとともに感謝の心が失われ、憎しみとわだかまりが募ったことでバランスは崩れた。
雨がまず大地に沁み込むように。すべての感情の最初に向かう先は妹の方だった。
彼女が受け止めて。世界を巡るように循環して。最後に空より流し出すのが姉。
二人は二人で一つ。そういう役回りだったのだな。
だから……姉が先に澱んではいけなかったんだ。
誰よりも先に立って、人々に満ちる澱みを宥めようとしていた健気な妹。
もっと彼女のことを見なければならなかったのに。自分だけでも味方になってやらなくてはならなかったのに。
『お姉ちゃん。ごめんね』
その言葉を最後に、妹は壊れてしまった。
歴史とともに積み重ねられた人類の罪と悪が噴き出したとき、それはもう妹ではなかった。
何重もの悪感情の殻に覆われた――真に世界を滅ぼす災厄となった。
怪物は大地という大地を腐り落とさせ、瘴気を撒き散らして触れた者を皆殺した。
姉は心底自分が許せなかった。せめて変わり果てた妹を止めるしかないと思った。
姉は死力を尽くし、三日三晩その怪物に挑み続けた。
そう――キミが聞いた『終末の戦い』に伝承だけが残る、凄惨な戦いさ。
だが、敵わなかった。最初から勝敗は見えていた。
世界人口の……今度は99%が消滅した。
姉妹の力は、抱えた感情の強さに応じて増大する。
それほどに絶望という感情は昏く、そして深い。
妹はどんなに変わってしまっても、姉だけは殺すことはしなかった。
そんなになってしまっても、無意識に覚えていたのだな……。
でなければ、私はもう生きてはいないだろう。
ついに矢折れ力尽き。姉もまた絶望の淵に沈んだとき。
――雪が、降り始めたんだ。
世界に零れ落ちた涙のように、冷たい雪は止むことなく降り続ける。
皮肉にも無力感と哀しみから生じたそれが、妹への対処療法となった。
白に覆われた大地は活力を失い、妹はやがて活動を止めた。深い眠りに就いたのだ。
間もなく地表はすべて氷に閉ざされた。呪われた大地と妹をそこへ残して。
そして……。
***
「おめおめと片割れだけが生き残ったのさ。雪はいつまでも降り続け……やがて誰も住めなくなってしまった」
全滅だけは避けられたが、時間の問題だった。
生き残ったわずかな人々は、凍てついた世界に見切りを付けて逃げ出した。
かつて花の星と呼ばれたキューベルサは、呪われし凍結世界として伝承にのみ名を残す。
天候を司る少女ラルファは、瞑目とともに話を締め切った。
「これがとっくに滅びてしまった世界と、もう終わってしまった物語だ。ご満足頂けたかな」
「ありがとう。つらい話をさせてしまったね」
「構わない。確かにほんの少し、気が解れた」
悲劇の長話を受け止めた彼は、沈痛な面持ちで彼方へ視線を向けた。
「そうか……。だからだったのか。ずっと聞こえていたのは、彼女の声だったんだ」
「キミにもあの子の声が聞こえるのか?」
彼は頷く。不思議と嘘を吐いているようには見えなかった。
その方角には、確かに妹が眠っている。誰にも言わなかったはずなのに、彼は知っている。
「どうしても放っておけなくてね。せめてできることはしたくて」
「気持ちだけ受け取っておこう。でもこのままにして、放っておいてくれないか」
少年はそれでも諦観の奥底に潜む姉の心に気付いていた。
「君はそれでいいのか。ずっとこのままで朽ちていくつもり?」
「いいさ。私くらいは側にいてやらないと、妹が寂しがるからな」
少女は寂しげに、だが迷いなくそう答えた。
少年は目を細め、もう一度怪物の呼び声に耳を傾ける。
ずっと何が原因なのかと彼は思っていた。何があの子の真の望みなのかと測りかねていた。
地の底から届いてくる。高く積み重なった絶望に潜む、淡く切なる望みが。
今ならわかる気がした。
「あの子、ずっと君に呼びかけているよ」
「言うな。わかるよ……。お姉ちゃんだもの」
「本当はもう終わりにしたいと、してあげたいと思っているんじゃないか」
核心を突かれて、彼女は己の気持ちを誤魔化すことができなかった。
「それができれば苦労はしない」
彼女の静かな、しかし重みの伴った言葉に滲む激情に従って、空はますます荒れ狂う。
二人の対峙する空間だけが、ぴんと静かに張り詰めていた。
「わかるだろう? 少年。永遠に氷の下に閉ざしておかなければ、あの子は必ずまた誰かを傷付けてしまう」
永い眠りの中でさらに編み込まれた呪いの力は、当時をも遥かに凌ぐ。
再び目を覚ませば、自分に封じることはもうできない。
今度はきっとこの星だけでは済まない。魔の手は星空の向こうへも伸びていく。
逃げ延びて散り散りになった奴らの末裔までも。怪物はそこに人がいる限り、破壊を尽くすだろう。
「させないよ。もう誰も傷付けさせはしない」
「どうしてそう言い切れる?」
「今度は俺が戦う」
「なぜだ。なぜそこまでする義理がキミなんかにあるんだ!」
「俺は……」
悲痛に問いかける彼女に向かって、彼は噛み締めるように述べた。
「俺は……痛いほど知っているんだよ。生まれ持った性質によって、絶えず何かを呪わずには、誰かを傷付けずにはいられないことの不幸を」
彼はほぼ無自覚ながら、いたく自分の胸元を握り締めていた。
まるで我が事かのような真に迫る顔つきに、彼女は思わず唾を呑んだ。
ただ一人妹を除けば無敵であった天候の女神は、たった一人の少年に気圧されていた。
噂によれば、フェバルとは運命に呪われた存在であるという。
わからない。何がこの男をそこまでさせるのか。
わからないが……。彼もまた私たちと同類なのだろう。
苦難に満ちた人生を、壮絶な旅路を歩んできたに違いなかった。
それが察せられたからこそ、彼女はつい尋ねてみたくなってしまった。縋りたくもなった。
「ならば聞こう。キミはこの凍てついた世界に何をもたらす」
「終焉を」
旅人は揺れる姉の瞳を真っ直ぐ見据え、しかと言い切った。それが自分の当然果たすべき仕事であるかのように。
永く生きていれば、嫌でも思い知ることがある。
終わりのあることも苦しいが、終わりのないこともまた苦しみなのだと。
人は人であるうちに死ななければならない。
そうでないときが来たならば。人らしく、尊厳をもって送ってあげることがせめてもの手向けだと。
それは確かに彼女の心からの望みであり、同時に最もやり切れないことだった。
最愛の妹にこの手で別れを告げるなど。だからキミがやると。
馬鹿なのか。いったいキミはどこまで……。
しばし見つめ合った彼女は、とうとう根負けして怒気を崩した。
「はは……まいったな。下手に希望を持たせないでくれよ」
少女は久しく、本当に久しくぎこちない笑みを浮かべた。とても切なげに。
「キミがそんなことを言うから。ほら――雪が止んでしまった」
昏く閉ざされた世界に、今一筋の光が差し込もうとしていた。
それは彼女の封印が解けてしまうことを意味する。
姉は、だから一切の希望を持たないように独りで生きていたのだ。
ずっと、そうしていたのに。
そして――遥か彼方で、天高くまで氷塊が巻き上げられた。
悠久の眠りから、憎悪の怪物は目を覚ます。
妹が呼んでいる。
「少年、キミなら勝てるのか。キミにあの子が殺せるか」
「あなたが望むならば」
揺るがぬ瞳に、少女は今に悟った。
間違いない。これこそが世界に、いやもっと困難なものに挑もうとする戦士が宿す目の正体だった。
簡潔な言葉の内に、凄まじいまでの覚悟が秘められていた。
もしかしたらこの者は、最初からそのために来たのではないかと。
――あとは、私の心一つか。
怪物はもう止まらない。いずれにせよ、これが今生の別れとなるだろう。
一抹の寂しさと、とても言い尽くせない感情とともに。彼女は頷いた。
「私は望むよ。せめて共に終わりまで見届けよう」
「わかった。行ってくる」
「妹は強いぞ。武運を祈る」
少年は後ろ姿で頷き返すと、もう振り返ることなく空へ飛び立っていった。




