16「わたしの中へおいで」
敬愛するお姉様が取り込まれてしまったショックと、己への無力感から崩れ落ちてしまっていたイプリールは。
女神の足を得て哄笑するアイに、次は自分だと思い知らされてぞっとする。
だがあまりにおぞましいものを見せ付けられたからか、情けなくも足が竦んでろくに動いてくれない。
隙だらけのイプリールに、そのまま第二の悲劇が襲うかと思われたが。
哀れ怯える彼女にとっては幸運なことに――しかし他にとっては恐ろしいことに。
直ちに彼女が狙われることはなかった。
アマンダの人格をも剥き出しの本能に歪めて融和させたアイは、その記憶や歪められた愛情もまた我が物としていた。
ひとつになったアイにとって、彼女の望みこそはわたしの望み。彼女の意志こそはわたしの意志である。
アマンダにとって最優先されるべきものは、子供たちの幸せ。それはアイになっても一切変わらなかった。
ただ一つ決定的に異なる点は、それが捻じ曲げられたアイの価値観に基づくものであることだ。
アイにとって、食べることは生きること。アイになることは、まこと素晴らしいこと。
アイに溶け合わさったアマンダには、子供たちをアイにすることこそが至上の望みだった。
ゆえにまず己の最も欲するところのままに。欲望に忠実であることこそ、アイの行動原理であるから。
目の前にぶら下がった「己の手」よりも、何よりも優先して行われたのは、子供たちの救済という名の「食事」である。
アイは引き攣った子供たちへ向き直ると、奪い取ったアマンダの姿に変身した。
ただし顔と足を除いては、不気味に変色したままであるが。
そして怯え泣く子供たちへ向かって、アマンダそのままの優しい声色で語りかける。
『わたしの中へおいで。ほら、こわくないから』
『響心声』による洗脳的安らぎの効果は、実に絶大だった。
彼らは自分を誘う怪物が、狂う前の育ての親そのものであると錯覚させられた。
あれほど怖がっていたにも関わらず、一人、また一人ふらふらとアイへ近付いていく。
アマンダの顔を貼り付けたアイは、屈み両腕を広げて獲物が来るのを待ち構えていた。
『そのまま。こっちへ』
ついに最初の幼子が触れたとき、ぬめ肌と子供の柔肌の境界が混じり溶け合い始める。
アイはアマンダの慈愛そのままに、子供を傷付けることなくずぶずぶと丸呑みにしていく。じっくりじっくりと味わう。
出会いから育ての記憶と幸せだった日々が、ヒトの血肉の味とともに反芻される。
「ああ、これが……! ああ、すごい、すごい……」
愛する子を我が身として迎え入れることの歓びと感動に、アマンダの顔は瞳を閉じてすっかり感じ入っている。
こんなに満ち足りて。幸せなことならば。
「もっと早くこうなるんだったよ」
反目などせず、諭されるがままアイになればよかったと。
あろうことか、かつて「自身」を傷付けたことへの後悔すら滲ませて。
そして、目の前で散々人が吞み込まれているというのに。
子供たちは順番待ちのごとく整然と並び、まったく己の意志を失っているようだった。
「な、な……」
イプリールはなおまざまざと見せつけられる惨劇に、恐怖と混乱で頭がどうにかなってしまいそうだった。
しかし同時に、人間に対する冒涜というべきものへの怒りも沸々と湧き上がってくるのだった。
『きて。もっと。もっと』
既にうっとりと五人目を呑み込もうとしているアイを睨み、イプリールはわなわなと震えつつも立ち上がる。
あの化け物。お姉様の姿で……! よくも最低なことをしてくれやがりますわ。
許せない。絶対に許さない。
先刻無駄だったことなど頭の隅に追いやって。再び『封函手』を構える。
正確に化け物だけを狙い定め、サイコキネシスによって捩じ切ろうとしたとき――
アイは興が削がれたと。冷ややかに敵を一瞥して。
目にも留まらぬ超スピードで、彼女の背後へと回り込んだ。
「いけない子だね。イプリール」
年長者であった彼女が、いつもきついお叱りを与えるかのごとく。
窘める声で、耳打ちして。
「ひっ」
「”お姉様”の邪魔をするんじゃないよ」
『加護足』の凄まじい脚力でもって、未熟な反抗者を蹴り飛ばした。
哀れイプリールはコンクリートの壁をぶち破り、外まで吹っ飛んでいく。
邪魔者を排除すると、アイは再び子供たちとの幸せな「触れ合い」を続行する。
一方、打ちのめされたイプリールは。
致命傷こそ負わなかったものの、ダメージは決して小さくなく。
悔しさと何より身に刻まれた畏れから、地に仰向けになったままさめざめと泣き続けるしかなかった。
やがて、たっぷりと「食事」を終えたアイは。お腹をさすりつつ、壁にぶち開けた穴から姿を現した。
傷付き倒れたイプリールの姿を見つけると、くすくすと邪悪に口元を歪めて。
「そんなところでおねんねかい。イプリール」
「あ、アイ……!」
どうに上体を起こし、しかし震えの止まらないイプリールに。
アイは奪い取ったアマンダの肢体を見せ付けるようにしてゆったりと迫る。
そして、彼女の声を用いて語りかけ始めた。
そうすることが最も恐怖を呼び起こすに効果的だと、この化け物はよく心得ているのだ。
「今度はあんたの番だよ。イプリール。大好きな"お姉様"とひとつになろうな」
いかにイプリールは戦士であれど、最期まで戦ったアマンダと違い、まだ子供だった。
身の毛もよだつ未曽有の事態に、彼女の弱り切った心では戦う用意などできない。
「い、いや。やだぁ」
尻もちをついたまま、立つことさえままならず。
それでも必死に逃げようと、手を突いてわずかに後退ることが精一杯。
かわいそうな獲物の哀れで情けない姿だった。
アイは目を細め、偽りなく歪んだ憐れみと慈愛を怯える彼女へと向ける。
今の彼女にとっても、確かにイプリールは可愛い妹分だった。
「大丈夫。前に『わたし』が言っただろう? 恐怖も、あるいは怒りや悲しみさえもわからなくなる」
あたしたちは溶けて混ざり合って、ひとつの女神に。アイになるために生まれてきたんだよ。
最初からそのように設計された、特別なカラダなんだ。ただあるべき形を忘れてしまっただけなんだ。
「や、やぁ……」
「あたしもこうしてひとつになってみるまでは、わからなかったけどねえ」
胸を開いて、いやに優しい微笑みを見せる。
「何も怖がることはないんだよ。悩みも苦しみも、みんな溶けてなくなる。とても満たされて、気持ちのいいことだから」
アマンダが始め苦しそうに抵抗していたことなど、棚に上げて。
わたしを受け入れ、ひとつになることが最上の選択であると。アイは恐怖と混乱に付け込んで諭していく。
身も心も融かし合わせるまでには、相異なる者同士が乗り越えるべき当然のハードルがある。
特に反発心旺盛なこの「あたし」は、暴れ馬のようであった。「説得」するには少々骨が折れた。
「すり合わせ」が進むにつれ、互いの記憶と感情、感覚までもが共有され。
単純なまぐわいなど及びも付かぬ、至上にして至福のときを迎える。
どうせ融け合わさるのならば。自ら望み受け入れてもらう方が、お互いにとってより素晴らしい体験になる。
アイは人外の倫理でもって、まったくの「親切心」で言葉巧みに彼女を誘導する。
「おいでよ。お前がいないと、あたしは寂しいんだよ」
イプリールは、段々これが夢だと思いたくなってきた。
目の前の悪魔が、お姉様の姿形をして執拗に誘ってくる。到底現実だと思えなかった。
夢ならば。憧れのお姉様と愛し合って永遠を生きる。どんなに素敵で幸せなことだろうと。
すっかり弱り切った心に、アマンダの『声』が沁み込んでいく。
『お姉様。わたくしをそこまで求めていますの……?』
『ああそうさ。可愛いあんたが欲しくて欲しくて、疼いて仕方ないんだ』
『こわくないって、本当ですの……?』
『本当さ。こわくない。苦しくもないよ。あんたがあたしを受け入れてくれるなら』
『うう。お姉様……お姉様ぁ……!』
『イプリール』
あと少し。手を伸ばせば、約束された永遠の「幸せ」がそこにある。
だがそこへ――。
「そんな戯言に耳を貸すな! イプリール!」
決死の覚悟で割り込む者がいた。
咄嗟に蹴り入れられた足と防いだ腕から、とてつもない衝撃音が迸る。
それはさらなる許容性が解放され、二人が新たなステージへと突入したことの証明だった。
「あらユウ。もう戻ってきてしまったの」
「これ以上は、させない……!」
辛うじて恥部を隠すに留まるほど、服はぼろぼろに溶け。
事情を知らぬ者が見れば、痴態を晒しているかと見紛うばかりの情けない姿。
真っ赤に腫らした涙跡は、先刻まで彼女が耐え難き恥辱と恐怖に塗れていた何よりの証である。
それでもユウは。自分ではない誰かのためならば必死に戦う。そういう人間だった。
彼女は天敵への恐怖心を押し殺して、再びアイに対峙した。




