66「かくれんぼ」
[5月9日 12時14分 異相世界 東京 NAAC]
こわかった出会いもあり。結局クリアおねえちゃんもミズハせんせいも、おかあさんもいなくて。
不安いっぱいで所在なさげに俯いていたユウのもとに、ようやく見知った人の気配が現れた。
彼は心であらゆる事物を視ることができたから、世界を誤魔化すほど強く存在を消していても気付くことができたのだ。
昔母ユナのお腹の中にいた頃、彼だけは消える彼女に気付くことができたように。
「あ、クリアおねえちゃん」
(しーっ!)
【神隠し】のレベル3を発動しているが、クリアは警戒感を剥き出しにしていた。
敵方もユウのレベルで、自分を察知できないとも限らない。まったく楽観はできない。
ユウの手にも触れて、彼にもしっかりとレベル3をかけてやる。これで少々、状態は改善したが。
「よかった。ようじがおわったら、またあえるってきいてたの。ほんとだったんだね」
「違う。わたし、捕まってた。自分で抜け出してきた」
「え?」
まさか捕まっているとは思わなかったユウは、目を白黒させている。
「どうして? だって、おにいさんは……」
「NAACか。ここ」
「うん。そうなの。けんきゅういんのおにいさんがね」
「なぜ、そいつが。出てくる……?」
「そういや、なんでだろ」
人を疑うことを知らないユウは、「やなかんじ」はしても、そこからもう一歩踏み込めてはいなかった。
でもクリアは、小さなこの子がケイジ研究員に対しては異様な警戒心を見せていたことを覚えている。
その直感は重要である。何しろ外れたことがないのだから。
「用事って、何。ユウ、何を見せられた」
「うんとね。こわいおばけさんなの。かわいそうなの」
「なるほど……?」
要領を得ないが、まず素敵なものではないだろう。
大人たちのように十分情報を得ているわけではないが。クリアは眉間にしわを寄せ、限られた材料から判断する。
ACWは、危ない。「誤射」を引き起こす。
大人たちは、ここを調べようとしていた。
そもそもだ。海に沈んでいたはずなのに、なぜかこんなところにいる。
あえて回収された? 何のために。
船を沈めた化け物。この子が言う、おばけさんとは。
――まさか。いや、そうだとしか思えない。
この場所が、敵の本拠地だ。
「ここは危ない。すぐ逃げよ。ユウ」
「うん。おれもね、ここやなんだ。だからおねえちゃんまってたの」
「よしよし。いい子」
「えへへ」
小さな手を引き、即時脱出を図る。
状況はひどいが、海に沈むかと思われたときに比べれば。逆に考えれば、希望はある。
外へ出て、みんなと合流しよう。ユナさんはまだ眠っているかもしれないけど、きっとみんなが助けてくれる。
だが彼女は不幸にも知らなかった。既にQWERTYは壊滅しており。
未だ目覚めぬ星海 ユナと二人の女ガンナーを除いては、彼女が最後の戦士であるということを。
***
[5月9日 12時18分 異相世界 東京 NAAC]
最深部において、ケイジは腕汲みしながら顔をしかめている。
邂逅の成果は上々だった。しかし、I-3318の暴れぶりと来たら。
すぐにでも割れかけたカプセルの修理をしなければ、せっかく育てた命も危ない。
まったく面倒な手間を増やしてくれたものだ。
ノーネーム。ナンバーオンリー――本能と欲望のままに動くだけの怪物め。
「ん?」
彼は目敏く異変をキャッチした。
上の方で何やら動きがある。ユウを連れて逃げようとしているのか。
クリアハートは捕まえておいたはずだが。さすがに拘束が適当過ぎたか。
彼の数少ない欠点であるが。
等身大の人間としての活動経験に乏しく、何でも万能の能力で配してきた関係上、地球では加減がわからないことも多かった。
適当に拘束しておけばと考えていたことが、どうも足りなかったらしい。
前を見やれば、相も変わらずシャイナは名無しの妹とバチバチやっている。
船のときもそうだが。まったく気付くこともできんとは。肝心なときに使えん愚図め。
今から追うように指示を出しても、存在を察知できなければ遂行も不可能だ。
やはりプロトタイプでは。急造の【不完全なる女神】では、所詮こんなものか。
I-3318の方は……一応、どうやら気付いてはいるらしいな。
こいつはこいつで、まだ動けぬ身。何もできない体たらくだが。
ケイジは、盛大に溜息を吐く。
仕方あるまい。あまり直接手を下すのは、僕の流儀ではないが。
彼は懐から一丁の銃を取り出し、その場で構えた。
YS-Ⅰ。
かつてシャイナが回収し、カーラス=センティメンタルを始末するのにも使用した、星海 ユナ御用達のハンドガンだ。
敬愛する母の銃で死ぬというのは、どんな気分なのだろうな。
ケイジは一瞬ほくそ笑むが、あとは無感動に粛々と刑を執行する。
【神の手】が、【神の器】を除くほとんどあらゆるフェバルの能力の上位互換であるように。
劣化した依り代の【神の手】でも、ほとんどあらゆるTSP能力の上位互換となる。
【運命の弾丸(バレット=オブ=フェイト)】、だったか。
まあ――こんなものか。
彼は念じ、必中の効果を弾丸に込め。
そして、撃ち放つ。
***
[5月9日 12時21分 異相世界 東京 NAAC]
脱出は邪魔もなく、順調だった。
クリアにリードされつつ、小さなユウも全力で一緒に走ってくれた。
いよいよ建物の出口が目前に迫ってきた、そのとき。
彼女の背中を、致命的な何かが。貫く衝撃が走った――。
「……! うぅっ」
その場に膝を付き、呻くクリア。
「どうしたの。いたいの? クリアおねえちゃん……?」
「っ……だいじょぶ。へーき、だから」
そんなはずはない。
どっと玉汗が噴き出し、唇をぎゅっと締めて誤魔化しても、急速に弱まる命の鼓動は誤魔化しようがなかった。
ただならぬ様子に、ユウもおろおろして、『姉』を見つめている。
「でも」
「いいから。今は、逃げる!」
彼女は鬼気迫る顔で、決して有無を言わせなかった。
絶対に大切な人を守る。その一念だけでもって。
なお力強く手を引っ張り、まずは建物を一歩抜け出す。
どんなに足がふらついても。決して進む歩みは止めないと。
とにかく前を、次の電柱一つ一つを目標にして。
腹部の急所を撃ち抜かれてしまった。即死こそ免れたものの、内出血がひどい。
少し歩くたび、身体の内側で血溜まりが深まっていくのを感じる。
悪寒はますます強くなり、ガチガチと小刻みに歯の擦れる音が止まらなくなってきた。
そして状況は、無情にも一向に二人の味方をしない。
どうして……。
大東京の外へ抜け出したというのに。変わらぬ街の風景を除いては、あまりにもそこには音がなかった。
誰もいない。東京によく似たここは、一体どこなんだ。
いくら助けを呼ぼうにも、これでは。
みるみる絶望感が心を満たしていく。
隣ではユウがずっと心配している。もう泣きそうになっている。
せめて弱さは見せまいと、努めて平気さを貫く。どんなにぎこちなくても、笑顔を絶やさないように。
ポーカーフェイスだけは、得意なつもりなんだ。
そうして。十数分と、歯を食いしばって歩いていたけれど。
いよいよ足が震えて、動かなくなってしまった。
もう一歩も進めない。
だめだ。わたしはもう、助からない。
「クリアおねえちゃん……! ねえ。しっかりしてよ、クリアおねえちゃん!」
ついに蹲ってしまった『姉』に。
『弟』は、ぽろぽろ涙を流して縋りついていた。
その心に深く、哀しみの陰りが差そうとしている。
ああ。いけない。まだ早い。
この子に目の前でこんな形で家族を失わせるわけには、いかない。
ユウはまだ幼く、とても繊細だ。
その透明で綺麗な心に、わたしの死は陰りを生んでしまう。
そのことが何か。大切な何かを、奇跡的な何かを失わせてしまうような気がして。
そうか。ようやく、わかった気がする。
すぐ目の前でわたしを死なせることこそが、恐るべき敵の狙いだったのだと。
彼女は、この土壇場で直感してしまった。それは間違いなく正しかった。
だから。彼女は……決断した。
「ユウ。かくれんぼ、しよう」
「いやだ。こんなときになにいってるの、クリアおねえちゃん!」
さすがに今が遊ぶときではないことくらい、小さなユウでもわかる。
彼は泣いていた。泣いて縋りついて、必死に別れを引き止めようとしていた。
心の動きだけで、否応なしに気付いてしまうのだろう。
なんて鋭く、真っ直ぐで。優しくて。
でも、譲れない。今はその宝石のような心を、守りたい。
無理にでも、クリアは笑顔を作る。
「まっすぐ、行って。振り返らないで。ずっと、行ったら。そしたら、探していいから」
「いやだ。やだよ。ずっといっしょじゃなきゃ、やだよ。どこにもいかないでよ……! クリアおねえちゃん!」
「違う。ユウが、連れてくるの。わたしを、助けてくれるよね?」
「そうか。そうだよね。おれが、しっかりしなくちゃ。うん、そういうことなら……わかったよ!」
クリアは、優しい嘘をついた。
どんなに小さくても、ユウに希望を持たせなくてはいけなかった。
そう信じさせることが。きっと彼を覆う運命の闇から救うのだと。
「まってて。ひとみつけて、すぐもどってくるから! まっててね! ぜったいだよ!」
「ん。頼んだよ、ユウ」
いい子だ。本当に……いい子。
言いつけ通り、振り返らずに全力で走っていってくれた。
ありがとう。
彼女は今一度歯を食いしばり、最期の仕事をする。
レベル3の発動を維持する。何があっても。死んでも決して解かない。
世界から、確かに彼女は忘れ去られてしまうだろう。誰の思い出からも消え去る。
それでも構わない。今、大切なユウの心が守られるのならば。
ああ、でも。許されるなら。
ユウが大きくなったところ。
いつかユウがお嫁さんを連れてきてくれるところ……見たかったな。
今は、今だけはどうか。見つけないで。
お前がいつか、十分に大きくなって。
わたしの死をちゃんと受け止められる。心の強さを得たときには。
そのときには。
きっと、探して。見つけ出してね。
わたし……ずっと。待ってる、から……。
***
現実世界と時を同じくして。「異相世界」でも、ぽつりぽつりと雨粒が落ち始める。
彼女が世界にいた痕跡を、消えゆく心の声を。空の涙で覆い隠すように。
最期に少女は、ようやく一欠片のか弱い少女らしさを見せた。
意地と、執念と。母にもらった戦士としての強さで。小さな彼を懸命に送り出して。
孤独で死にゆく心寂しさに、ほんの一筋の涙を零し。それで仕舞となった。
彼女の心の声が、喪われていく。
死してなお、その愛は消えることなく。能力は効果を発揮し続け、彼女を世界から隠し通した。
世界は最初から、彼女をいなかったものとして扱った。
たとえユウであってももう、彼女を思い出すことはできない。
なぜなら。もう心の声を聞くことができないのだから。
死体を食べる小虫や、死体を分解する細菌からでさえも見つけられないまま。
彼女は誰もいない、静寂の満たす「異相世界」で。
永遠に時の止まった、そのままの少女の姿で。
今も忘れられた世界で、眠っている。




