ファンドの娘
タクシーのフロントガラスからは雨水が滝のように流れ下り、空には、時折、稲光が光って辺りを白く照らしている。
伊達は、タクシーを待っている間も、タクシーに乗ってからも、まったく口を開かず、ずっとスマホをいじっている。私は何度も「あの……」と声を掛けたが、その都度、伊達は意味ありげに微笑んで視線を外してしまい、私は会話のきっかけを失っていた。
車は甲州街道を初台の交差点まで来ると、左折して山手通りに入ったので、私は取り敢えず安堵して、そろそろ本題に入ってもよさそうだと思い始めた。私が口を開きかけた時、あちこちに赤錆が吹き出ている朽ちかけた歩道橋が見えてきた。歩道橋の上り口には、「通行止め」と赤い文字で書かれた大きな札が立てられている。歩道橋を通り過ぎた瞬間、車は緩やかに減速すると、山手通りを左折して住宅街に入った。
「あの、これ、道が違うんじゃ……」
慌てて隣席の伊達を見たが、彼女は表情ひとつ変えずにスマホの画面に白く細長い指を滑らせている。
「この先、渋滞してるらしいから、近道するのよー」
顔も上げず、あまりに淡々と事務的に答えられてしまい、私は見事に話の腰を折られてしまった。窓の外はますますひどい土砂降りになっており、ただでさえ、この辺りの地理に不案内な私は、このルートが富ヶ谷に向かう近道なのかどうか、伊達の言葉を信じるしかなかった。
住宅街に入った車は、左折と右折を繰り返して少しだけ広い道に出ると、そのまま直進を始めた。伊達の様子に変化もみられないことから、取り敢えず様子をみていると、正面に首都高の高架が見えてきた。
(参宮橋から代々木公園の脇を抜けて南下するルートに入るのか……)
やがて正面に乗馬クラブの看板を見つつ、参宮橋の交差点に入ったとき、車は大きく左折した。
「あれっ、ここは右折していかないと……。ルートが間違ってませんか?」
慌てて大きな声を上げると、伊達は初めて私に顔を向け、無表情のまま、二、三度、瞬きをした。
「間違ってないよ。だって、これから北へ向かうんだから」
「でも、それじゃ遠回りに……」
「これが最短ルートなんだけどなぁ」
伊達は再びスマホの画面に視線を落とした。
「あ、やっぱり、最短ルートだよ。大丈夫だって。もう少ししたら明治通りに出るから。これが池袋に行く、この時間の最短ルートなんだよ」
池袋、と聞いて、私は思わず身体を硬くした。
「……なんで池袋なんかに行く必要があるんですか?……」
自分でも驚くほど低い声が洩れた。
「池袋に着くまでに、たっぷり時間はあるんだから、お話しできるじゃない。そのために、こうして、わざわざ無人車を指定したんだからさ」
伊達は悪戯っぽくニヤリと笑うと、運転席を指差した。
無人の運転席では、ハンドルが勝手に動いて自動走行モードが続いている。私たちは後部座席に腰掛けており、とくに私は運転席の真後ろなので、伊達の前を通らないと、運転席には辿り着けない。こうなってしまうと、タクシーを呼んだ本人が自分のスマホから停車指示を出さない限り、車は停まらない。タクシーがホテルに着いた時、伊達は車のドアに設置されている認証装置に、自分のスマホを当てて本人確認を行っているため、今やこのタクシーは伊達の完全な制御下にあるのだ。
それでも、どうにか車を停めさせる方法は無いか、私が思案を巡らせ始めると、伊達は笑顔のままでにじり寄ってきて、私の顔を覗き込んだ。
「もしかして、無人車は初めて?」
「……少なくとも、この4月以降は初めてです……。事故に遭う以前はどうだったかわかりませんが……」
「まあ、滅多に事故は起こらないし、料金も普通のタクシーよりすごく安いんだよー。だから、私は、よくタクシーを使ってるんだ。夜遅くに夜道をびくびくしながら歩くことなんか、もうすっかりなくなって、ほんと助かってるよー」
確かに、無人タクシーは、最近、急激に台数が増えてきている。深夜早朝でも配車してもらえるし、運転手がいないから、車内の会話を聴かれる心配もない。こちらが疲れているとき、察しの悪い運転手からいろいろ話し掛けられて閉口させられることもない。料金はスマホ経由の電子決済だから、車内に現金は無く、盗難の心配もない。車内で備品の盗難や破壊行為を行ったり、到着時に料金を払わなければ、ドアのロックは開錠されない。その料金も、人件費が節約できるため、有人車に比べると大幅に安い。唯一の問題点は、誰がどこからどこまで乗ったか、というプライバシーを含んだ情報がタクシー会社に知れてしまうことだったが、一昨年のタクシー特措法の改正によって、利用者名の秘匿義務がタクシー会社に課されることになった。
役人だったとき、深夜まで残業した帰りにタクシーを呼ぶことはあったが、私は専ら有人車を指定していた。無人車に比べて料金は高くなるが、万一、事故が起こったときには、事後処理を運転手に任せて、自分は他の車に乗り換えれば良い。無人車だと、事故発生時にはタクシー会社の社員が到着するまで現場にいなければならないうえ、そもそも第三者による意図的な襲撃などには対処できない。要するに、無人車はあらかじめ指定しておいたコースを安全かつ効率的に運転する一方、緊急時に融通が利かず、臨機応変な対応が困難なのだ。また、私には無関係であったが、利用者が政府高官などVIPの場合には、ハッキングなどによって遠隔操作で車が乗っ取られるリスクが完全には払拭できない、といった理由から、無人車は利用されないケースが多かった。
(タクシーの価格破壊、か……。以前は、過度な増車で競争が激化して、運転手の収入減少が問題になってたけど、今度は競争相手が同業者から人工知能に替わったわけか……。自家用車は購入費も維持費も必要だが、無人タクシーは、保有コスト無しで、必要なときに必要なだけ使える。そのうえ料金も安いときたら、無人タクシーを使うほうがはるかに得だ……。人口減とのダブルパンチで、車がますます売れなくなるわけだ)
「……でも、無人タクシーを使えば、料金は電子決済でしょう。タクシーの頻繁な利用が親に知られたら、無駄遣いだった叱られるんじゃないですか?」
私は伊達のスマホに視線を投げ掛けた。
「あ、うち、そういうの、いないから、大丈夫!」
「えっ? それって……。あの……申し訳ありません。デリカシーの無いこと、聞いてしまって……」
伊達はさばさばと事も無げに話しているが、さすがに私は少し俯かざるをえなかった。
「平気、平気! 別に死に別れたわけじゃないんだからさ。3歳のときに、親が離婚して、私は父親に引き取られたんだ。はじめのうちは、母親も時々会いに来てたらしいんだけど、母親が再婚しちゃってからは、あっちにも都合があるらしくて、今は音信不通。まあ、仕方ないよねー。父親は事業やってて、前は一緒に住んでたんだけど、家に火をつけられたことがあってね、それ以来、安全のために別居してるんだー。それに、万が一、事業が破綻した場合に備えて、もう父親の財産の一部を贈与して貰ってて、それ以外の相続の権利は全部放棄しちゃってるんだ。その贈与された財産は、私が自分で管理してるってわけ」
「放火って、それ、大事じゃないですか!」
「うちの親の事業ってさ、事業再生ファンドなんだよ。わかる?」
私は黙って頷いた。
「やっぱり吉川さんは噂通りに賢いよねー、話が早いや……。でね、うちは事業再生ファンドでも、いわゆるハゲタカのほうじゃなくて、もともとの経営者から依頼を受けて資本を入れてるし、できるだけ従業員の人も残すようにしてるんだけど、経営者に責任をとって退任してもらうことだけは、やっぱり出資者の手前、どうしても必要なんだよね。でもねー、経営者に特別な思いのある従業員の中には、納得してもらえない人もいてさ、とくに高齢の人は、『会社が見ず知らずの奴に乗っ取られた』みたいに感じちゃうらしいんだよ……。うちのファンドは、あこぎなことは何もしてないのに、放火されたことで、近所の人たちから悪徳業者みたいに噂されるようになって、週刊誌とかにも載っちゃって……。それで引っ越さなきゃいけなくなっちゃたし、私も安全のために転校しなきゃいけなくなったんだよ」
伊達は車の窓のほうに顔を向けてしまったので、引き続き淡々と話しているものの、もはや表情を窺い知ることはできない。
「……あの……その、ついさっき会ったばかりの私に、そんな立ち入ったことを話して良いんですか? 私がどんな人間かもわからないのに……」
「ついさっき会ったばかり、じゃないんだなー、これが……。私、秋霜に来る前、陽英に居たんだよ。直接、話したことはないけど、あなたの顔は知ってるし、あなたが、どこでどんなふうに事故に遭ったかも、だいたい知ってる……。ねえ、あなた、あの事故のこと、知りたくない?」
いきなり、くるりとこちらに振り向いた伊達の顔からは、もはや微笑みは消えていた。
(……この子が陽英にいたかどうかは調べればすぐわかるはずで、そんなことで嘘をついても無意味なはずだ。陽英に居たのなら、理沙の顔を見たことがあっても、何らおかしくはない……。そのことと、この子が事故の詳細を知っているということは無関係なはずだが、さっきから、池袋で事故があったことを知っているような口振りだな……。しかし、先日の理沙の父親の話では、理沙が事故に遭った場所は、家族と陽英の教職員以外には固く伏せられているはず……。この子は、事故現場が池袋だという確証を掴んでいないから、カマ掛けてきているんじゃないのか? だとしたら、うかつに口車に乗るわけにはいかないな……)
あたかも「真相を知りたいけれど、知るのも怖い」と逡巡しているかのように、私は膝の上で固く握り締めた手を見つめたあと、意を決したように顔を上げた。
「どこで事故に遭ったかは、私も家族から知らされていませんので……。伊達さんに教えて頂ければ、もしかしたら、記憶が甦るかもしれませんね……」
「ふうん、まだ、そういうことにしておきたいっていうなら、別にそれでもいいんだけどねー。ま、現場見れば、思い出すこともあるでしょ。現場百回っていうしねー」
伊達は思いきり深く溜め息をつくと、上目遣いに私をじっと見つめた。




