いけ好かない女
「いけ好かない」とは、「気に食わない」、「好きになれない」という意味です。
校外学習のあと、最初の登校日となった月曜の昼休み、私は校内の雰囲気が微妙に変わったのを肌で感じていた。
登校時には、私の周囲には、相変わらず下級生たちが全く寄りつかなかった。いつものことなので、とくに感慨も無かったが、昼休みに食堂に行ってランチを食べていたとき、最初の変化に気付いた。
いつもは私の座っているサーブルに誰も相席しようとしなかったが、その日は、たまたま空いている席がなかったこともあったのか、恐る恐る様子見、という感じではあるものの、2人の3年生が私に目礼して同じテーブルの少し離れた席に腰かけた。さすがに私の隣席に座るのは、まだ怖いのだろう。
下校時には、私のすぐ脇や後ろを歩く生徒が少しだけ現れ始めた。どうやら「誰彼構わず喧嘩を売る危険人物」という評判が少しだけ薄れたようだった。
もちろん、私は、そんなことを期待して、黒田のハンカチを拾いに行ったわけではないし、逆に「こんなに簡単に変わる評価など、この先もどう変わるか当てにならない」という思いを一層強くしていた。
実際、翌日には、「吉川は、自分の評価を上げたい一心で、無茶なことをした」という風評がもう流れ始めており、「ああ、やっぱりね。女子校って面倒くさいな」という諦念にも似た気持ちと、そこまで他人から疎まれる我が身が、少しだけ可哀想に思えた。
黒田とは廊下で何度か出くわしたが、以前よりかなり親しげに挨拶してくれるようになった。今まで私とまともに話せる後輩は皆無だっただけに、これは素直に嬉しかった。校外学習で同じグループになった3年生たちも、リラックスした表情で普通に挨拶してくれるようになった。
逆に、校外学習以来、赤松は、何故か元気が無い。以前のように、私に対して「不機嫌さ」をあからさまに示すわけではないが、ずっと何事かを考え込んでいるようだ。以前、赤松が剣道を辞めたい云々と言っていたのを聞いたことがあったので、私は剣道の件で悩んでいるのかもしれない、と思った。
そして、7月13日の水曜日になった。
梅雨明け直後の夏空には雲ひとつなく、朝から容赦なく暑い日差しが降り注いでいる。私は、いつものように千駄ヶ谷駅の改札を出ると、あの曰く付きの横断歩道の前で信号が変わるのを待っている。制服の背中が少しずつ湿っていくのが気持ち悪くて、少しだけ苛々するが、これは誰のせいでもない。
テレビの朝のニュースで、中央新幹線の新相模原・新甲府間の開業セレモニーを中継していたので、「日本もいよいよリニア時代かぁ。ここまで来るのは本当に長かったよなぁ・・・」などと感慨深く眺めていたら、家を出るのがいつもより遅くなってしまった。
そのため、駅前はいつもより混雑しており、さすがにここで日傘を差すのはためらわれた。先日の事件の二の舞になってはたまらないので、横断歩道の向こう側の広い道に出たら、傘を開くことにした。
夏の陽に照らされて、融けそうな感覚に身を曝しながら、いつもの癖で、私は横断歩道の向こう側をぼんやりと眺めていた。
この学校に通い始めて判ったのだが、生徒たちは、自分の半径数メートルの狭い範囲内か、あるいは、自分の進行方向にしか関心が無い様子で、こういうときに遠くを幅広く眺めることはあまり無いようだった。
きっと、それは彼女たちがまだ若く、前だけをただ真っ直ぐに見て生きているからなのだろう。
今日も、私は、横断歩道の終着点から、東京体育館の前の広場まで、視線をゆっくりと動かしていった。
この広場では、いつも様々な人たちが思い思いに時を過ごしている。石段の上に寝転がって空を眺めている若者、犬を散歩させている老人、午前中の競技にでも出場するのだろうか、柔軟体操や軽いジョギングをしている壮年の男性、広場の隅のカフェで開店の準備に余念が無い初老のマスター、落ち着いた色合いのバックを大事そうにしっかりと提げている、品の良さそうな老婦人、様々な人が、様々な人生を、ここで交錯させている。そんな様子を眺めるのが、私は好きだった。
石畳の広場の中央には、製図用にでも使うのだろうか、プラスチック製の大きな円筒を、肩から背中に向けて掛けている若い男性が座っている。大方、あの円筒の中には、折り畳んではいけない図面か、プレゼン用のポスターか何かが入っているに違いない。この暑いのに、ご苦労さまなことだ。
視線を手元に戻して、額に滲み始めた汗をハンカチで軽く拭いたとき、円筒を背負った男性が上体を起こして、円筒を胸の前までずらしたのが、視界の隅にちらりと見えた。念入りに中身を確認したうえで、これからプレゼン先にでも向かうのだろう。私も、かつて役人だったとき、予定時刻よりかなり早めに訪問先に着いてしまった時には、こうして近くの公共スペースで時間を潰してから、相手先に行ったものだった。ほんの3か月くらい前のことなのに、もはや、どこか遠くの世界のことのように感じる。
男性は円筒から資料を取りだし、右手で天に向かって高く掲げた。次の瞬間、陽光を反射して資料が白く光った。資料には、持ち手と鍔がついていた。
(日本刀かっ! いくら登録証を持っていたって、こんなところで得意げに見せびらかせば、銃刀法違反で通報されるぞ)
予想もしなかった男の行動を茫然と眺めていると、すぐに広場にいた人々が気付いて、男からゆっくりと離れていった。男は、その姿を満足そうに眺めると、再び円筒に抜き身を戻した。おそらく円筒の中に刀の鞘が入っているのだろう。
(まったく物騒な奴だ。こう暑くなると、時々、変な奴が出てくるようになるから、気をつけないといけないな)
信号が青に変わって、生徒たちが一斉に横断歩道を歩き始める。私も、彼女たちの波の中に埋もれて、横断歩道に足を進めた。
その瞬間、「バキッ」という鈍い音とともに「キャー」という甲高い悲鳴が聞こえ、生徒たちが私の方に向かって我先に走ってきた。
ただならぬ様子に、足を止めて前のほうをみると、あの男が真剣の抜き身を持って、この横断歩道に向かって、ゆっくりと近づいてくる。男の近くにあった街路樹の枝が、その足元に落ちていた。
男は、最初はゆっくりと歩いていたが、やがて徐々に速度を増して、やがて小走りになった。血走った目がせわしなく動き回り、埃で汚れた顔は蒼ざめ、明らかに正常には見えなかった。
横断歩道を渡りかけていた生徒たちは、血相を変えて駅に向かって駆け戻ろうとしているが、事情を知らない生徒たちが次々と改札口から出てくるので、駅前にどんどん生徒たちが溜まり、もはや立錐の余地も無い。駅前のタクシー乗り場で客待ちをしている運転手たちが、何事かと窓から顔を覗かせている。
横断歩道に近いところに押し出されてしまった生徒たちは、悲鳴を挙げて必死に人波の中に潜り込もうとしているが、すぐに弾きだされてしまう。焦った生徒たちは、駅の中へ逃げ込む者と、駅前で左右に分かれて走り出す者、に別れた。
生徒たちが逃げ惑う中、私は咄嗟に駅前を左方向に走った。かつて交番が置かれていたあたりを越えたところで一旦振り返ると、男が抜き身を引っ提げて横断歩道を渡り、駅の改札の中へ駆け込んででいくのが見えた。
(まずい! 新宿御苑側に改札はない! 駅の中は行き止まりだ! 線路に下りない限り、逃げ切れない!)
駅の中には、たくさんの生徒たちが逃げ込んだはずだ。このままでは袋の鼠になってしまう。そうなれば、あの男の様子からして、おそらく惨劇は免れない。
気がつくと、手がブルブルと震えていた。全ての余計な感情が削ぎ落とされて、「怖い」とだけしか感じられなかった。このまま走って、1メートルでも遠く、駅から離れてしまいたかった。
しかし、足が動かなかった。
駅に逃げ込んでいった生徒の中には、話したことのない後輩や同級生、そして先輩たちがいた。
みんな私よりも25歳近く年下の少女たちだ。
もし、私に娘がいたら、あの子たちと同い年くらいのはずだ。
そんな娘たちを見殺しにして、自分だけ逃げ延びて、それでこの先、胸を張って生きていけるのか? 理紗のように無念の最期を遂げる娘を増やしていいのか?
頭が、かあっと熱くなるのを感じた。耳がよく聴こえなくなった。
(行くのか? 御岳山のときとは、桁違いに危険だぞ。刺されたら、今度こそ終わりかもしれないぞ。せっかく拾った命を、投げ出すつもりか?)
(刺されたら、助からないだろう。だが、何もせず、後悔しながら生きるより、何倍もマシだ。すまん、理紗、借り物の身体、壊してしまうかもしれんが、許せ!)
私は、カバンを路上に投げ出すと、傘一本持って駆け出した。
(どうにかなろう。ならなかったら、それまでだ。しゃあないわ)
改札口を入ると、もう人影はない。生徒たちを追って、男もホームに上ったようだ。もはや一刻の猶予もならない。
一段ずつ階段を上るのがもどかしく、一段抜かしで上がっていく。スカートがめくれて、太腿まで顕わになるが、そんなことを気にしている場合ではない。こういうとき、スカートは動きづらくて、やはり機能的じゃない。この「世界」に来て、初めてスカートが邪魔に思えた。
階段を駆け上がってホームに出ると、抜き身を下げて仁王立ちになっている男の後ろ姿が見えた。その向こうで、生徒や駅員たちが線路に下りて、後ろを頻りと気にしながら、必死に走って行く。立ち退き際に駅員がホームの非常通報ボタンを押したらしく、ファーン、ファーン、ファーンと、けたたましい警報音が大音量で辺りに響いている。
(非常通報ボタンが押されたなら、電車の運行は止まる。千駄ヶ谷駅と信濃町駅は目と鼻の先だ。これで、みんな安全に逃げられる)
私は取り敢えず安堵したが、男は、ゆっくりとした足取りで、悠然とホームの端に向かって歩いて行った。
そのいかにも余裕ありげな素振りに、私は嫌な予感を感じて、男の視線の先を見つめた。ホームのすぐ先の線路上で、一人の少女が足を引きずって必死に逃げようとしていた。おそらく、ホームから飛び降りたときに足を挫いたに違いない。痛さと恐怖で、幼さの残る顔は今にも泣きだしそうになっている。
男はホームから線路にいとも簡単に飛び降りると、刃を上にして日本刀を肩に担ぎながら、少女にゆっくりと近寄って行った。線路上で心配そうに眺めていた生徒たちから、小さな悲鳴が上がる。じりじりと詰められていく距離に、少女の顔が恐怖に歪む。その怯えた顔に、私は見覚えがあった。
先日、私に傘を当ててしまった、あの後輩、波多野莉子だった。
(また、この娘か。何の因果か、とことんご縁があるものと見える。この間は、必要以上に怯えさせてしまって、まだ謝ってなかったな。これで帳消しにしてくれ!)
勢いよくホームの端まで走り寄ると、私の足音を聞きつけて、男が振り返った。その胸のあたりに向けて、私は全身の力を込めて、槍投げのような格好で傘を投げ込んだ。
さして遠い距離でもないので、傘は見事に男の鳩尾あたりに激しく当たり、男は胸を押さえてうずくまった。茫然として立ちすくんでいる波多野に向かって、「早く行け」というジェスチャーをすると、ようやく我に返った波多野は、足を引きずりながらも必死に線路上を遠ざかり、生徒や駅員たちにようやく保護された。
この程度のダメージで男が動けなくなるなどと、甘い期待はしていなかったが、男は意外と早く立ち上がった。そして、逃げ去っていった小さな獲物ではなく、自分を攻撃してきた大きな敵に対して、激しい憎悪の眼を向けた。
(そのうち、警察が来るだろう。それまで逃げ回って時間を稼ぐしかない)
私は、ホーム上で身を翻し、階段に向かって一目散に駈け出した。しかし、所詮、この身体はつい2カ月前まで入院していたもので、怒りのエネルギーを全身に漲らせた若い男の敵ではない。階段に辿りつく直前で、男の怒声がすぐ後ろで聞こえていた。
(背中から袈裟がけにばっさり、か、背中から刺されるか。いずれにせよ、ロクな死にざまじゃないな・・・)
自分の死が近づいているのに、私は妙に冷静だった。先ほど、いくぶん捨て鉢に腹を括ってしまっていたから、心のどこかで、その覚悟ができていたのかもしれない。
(これで、やっと終われるな。それにしても、生涯に二度も「英霊」になるとはな)
眼を閉じ、身体を堅くして、襲い来る痛みに、精一杯、最後の抵抗をしようとした。が、いつまで経っても、痛みを感じなかった。咄嗟に振り返ると、髪の長い少女が、傘を青眼の構えで握り、私の隣で男と対峙していた。その、どこにも隙の見えない見事な構えに気押されて、男は打ち込みどころを迷って立ち止まっていた。
「赤松っ!」
思わず、私は声に出して、彼女の名を叫んだ。
「助太刀するぜ。いつも、アンタにばかり、良い格好されちゃたまらないからな!」
赤松は、こちらを振り向きもせず、ぶっきらぼうに答えたが、迷いや濁りの無い、晴れ晴れとした声音だった。
「気をつけろ、あれ、真剣だぞ!」
「言われなくても一目でわかる! 伊達に剣道、十年もやってない!」
私に言い返しながら、赤松は、傘の先をほんの少し下げた。男はここぞとばかりに打ち込んできたが、赤松はいともあっさりとかわして、男の手首に傘をしたたかに打ち下ろした。
男が日本刀を取り落とし、「しまった!」という表情に変わるや否や、今度は私が刀を拾って、男の鼻先に刃先を突き付けた。
男はなおもあきらめず、素手で殴り掛ってこようと隙を窺っている様子だったが、パトカーのサイレンが近づいてくると、さすがに怯んで線路に逃げようとした。しかし、今度は、私が反撃する番だった。男が私たちから視線を逸らした瞬間、私は渾身の力を込めて、男の股間を蹴り上げた。
男は、一瞬、爪先立ちでえび反りになったあと、すぐに背中を丸めて、その場にどうと倒れ、くぐもった叫び声を洩らしながら、痛みに呻いている。この痛みは経験者にしか理解できないが、これで最低5分は歩けないはずだ。
倒れ込んだ男に向けて、赤松が傘、私が日本刀を突き付けているところに、警官たちが階段を上がってきて、男を取り押さえた。
私は警官たちに促されて、日本刀を彼らに渡そうとしたが、指が硬直して拳が開かなかった。仕方なく、警官たちに指を一本ずつ刀の柄からはがしてもらって、ようやく日本刀を手放すことができた。それと同時に、気が抜けたのか、急に足が立たなくなり、私はその場に座り込んでしまった。
ふと見上げると、赤松が私を見て笑っている。私は頬を膨らませて、赤松を睨んだ。
「笑い事じゃないぞ! こっちは、これで一巻の終わりか、と観念し掛けていたんだからな!」
「アンタには、まだきちんと謝ってなかったからな。そのまま逝かれては、こっちの寝覚めが悪いしね」
「それにしても、『助太刀するぜ!』は、ないだろう? どこの素浪人かと思ったよ」
赤松は、さすがにムッとした顔になった。
「仕方ないだろ。子供のころから、男ばっかの道場で剣道やってきたんだから。言葉も男っぽくなるよ」
今頃になって、全身から、どっと汗が噴き出してきた。額の汗を拭いながら、私はようやく立ち上がったが、まだ足がガクガクと細かく震えていた。
「ところで、どこの時点から、私の大立ち回りを見てたんだ?」
「額に青筋立てて、改札口に駆け込んだ時」
「ちょっと、それ、相当、前じゃないか! 助けに来るのが遅いっ!」
「いや、アンタがあまりに自信たっぷりで立ち回ってたからね、余計な手出しをしちゃ悪いかなーと思って、お手並み拝見してたんだ。でも、案外、弱かったねー。途中から逃げ回ってたし。アハハハ」
赤松は、私を指さして、大声で笑った。彼女につられて、周りの警官たちも苦笑を洩らした。
「アハハじゃない! こっちは必死だったんだからな!」
「いや、申し訳ない。でも、まあ、よく頑張ったと思うよ。あのまま駅に引き返さずに逃げちゃうのが当たり前なのに、どうして踏みとどまったんだ? 実際、怖かったんだろ?」
赤松は、急に真顔になって、私をじっと見つめた。
「それは・・・その・・・駅に逃げ込んだ中には、後輩たちもたくさん混じってて、どうしても見捨てられなかったんだよ。先輩として、ここで踏みとどまらないと、きっと一生後悔するって思ったんだ」
「自分が返り討ちに遭うかもしれないのに?」
「できること、やっとかないと、後味悪いからね」
赤松は、しばらく黙って私を見つめていたが、やがて、吹っ切れたように、晴れやかな笑顔を向けた。
(これが、あの不機嫌姫か? コイツ、こんなに良い顔できるんじゃないか)
少し驚いて眺めていると、赤松は笑顔のまま、私に向かって手を差し伸べた。
「行こう! これから事情聴取だってさ。学校遅れちゃうけど、まあ、こんな日が人生に一日くらいあってもいいんじゃない?」
私は赤松の差し出した手を握った。思いのほか、柔らかくて、白く、しなやかな手だった。
赤松に手を引かれるようにして駅の改札に向かいながら、私は、ふと思いついた疑問を口に出してみた。
「私が初めて登校したとき、お互いに睨みあったよね? あのとき、お互いに相手のことをどう思ったか、言い当ててみようか?」
赤松は、私を見つめて、悪戯っぽく、にやりと笑って頷いた。
「「いけ好かない女!」」
同じ言葉が同時に口に出て、私たちは、顔を見合わせて思い切り笑った。繋がれた手は、いつの間にか、堅く結ばれていた。
今回のお話の場面は、第三章のクライマックスのひとつなので、納得が行くまで何度も書き直して、やっと仕上がりました。
そのため、昨日は更新が間に合いませんでした。深くお詫び申し上げます。
ようやく理紗は赤松瑠花と判り合えましたね。似ているところが多いからこそ、反発もするし、好きにもなれるのでしょう。
次話で、第三章「私の居場所」は終わりになり、次の章が始まります!
引き続きよろしくお願い致します!
きのみや しづか 拝




