九十四話 それはいえん
「こんにちは。クロエさん」
廊下を歩いていると、先輩に声をかけられた。
私は思わず、眉根を寄せてしまった。
「こんにちは、先輩」
「そんな嫌そうな顔をしなくてもいいじゃないですか」
先輩は苦笑する。
「先輩、私を陛下に売ったでしょう?」
「おや、知っていましたか。すみませんね」
謝るくらいなら、始めからやらないでほしい。
「でもね、それでもいいと思ってしまったのですよ。友情を差し出してもいいと思える程度には、私は彼女が好きですからね」
「知っていますよ」
私は溜息を吐いて答える。
多分、この人にとっては人との関係も利点で割り切ってしまえるものなんだろう。
私とカナリオの関係を差し引きし、私の方がカナリオよりも価値は低かった。
そういう事なんだろう。
先輩は意外そうな顔をした。
「そうでしたか。そんな素振りを見せた事は、ないつもりでしたけどね」
「知っていただけ、ですよ。きっと、気付いている人間はいないでしょう」
そう、私はよく知っているんだ。
先輩がどれだけ、カナリオの事が好きか。
彼がカナリオに懐く気持ちは、ゲームの時に余す所なく知った。
彼が本心を語るイベントでは、胸が苦しくなる程だったよ。
「あなたは不思議な人ですね。そして、魅力的な女性だ」
不意に、先輩が笑顔を向ける。
先輩、そんな台詞を吐いたら結婚式で虫みたいなクリーチャーに食べられちゃいますよ。
「カナリオさんに出会っていなかったら、私はあなたに惹かれていたかもしれない」
「ご冗談を。私はカナリオみたいに無色の人間じゃありませんから」
黒だよ、真っ黒。
テーマカラー的に。
「無色?」
「何物にも染まっていないって事です」
「なるほど……。確かに、カナリオさんはそんな感じです」
その分、何にでも染まるけどね。
付き合う相手によっては語尾に「ッッッ」とかつけちゃうようになるのだ。
私は軽く手を振って、その場を後にした。
ある日の事。
アルディリアとアードラーの三人で廊下を歩いていた時の事だ。
「そういえば……」
アードラーが、声を潜めて切り出した。
「殿下の正室候補にクロエの名が挙がっているというのは本当なの?」
「どこでその話を?」
私も声を潜めて返す。
「お父様から聞いたわ。じゃあ、やっぱり本当なの?」
「まだわからないよ」
何の反応もないな、と思ってアルディリアを見る。
これ以上ないというくらいに表情を強張らせていた。
笑いごっちゃないって顔だ。
大丈夫か?
「本当にそうなってしまったら……。くっ……誤算だわ。こんな事なら……」
アードラーが何やら呟く。
妙に悔しげである。
そんな時だった。
前方で人だかりを見つけた。
廊下に人垣ができている。
何だろう?
そう思って人波を掻き分けて中へ入っていく。
すると、人垣が途中で途切れ、中心に空間ができていた。
その中央にいたのは、カナリオと王子、そしてムルシエラ先輩だった。
王子とムルシエラ先輩は互いに、強い眼差しをぶつけ合っている。
その間に挟まれてカナリオは、青い顔で佇んでいた。
彼女の顔色は悪く、目にはくまができていた。
手は、腹部にやっている。
色恋に疎い私でも分かるぞ。
これは、修羅場だ!
気まずい雰囲気だ!
「よろしいのですか? 殿下。カナリオに関わると、あなたは王位継承権を失う事になるかもしれないのですよ?」
「そのような事はどうでもよい。私は、彼女と話がしたいだけだ」
「そうですか。でも、それは彼女の気持ちを無にする事です」
「そうだな。だが、私にも気持ちはある」
「彼女の気持ちを知っているのですね。知っていてもなお、それを踏み躙ろうというのですか」
「言葉の選びで人を貶めるのはやめよ。何より私には、そう捉えられるような事を言うつもりもない。私はただ、彼女の意思を知っている事を伝え、その上でそなたを受け入れる覚悟があると言いたかっただけだ」
「結局それは、彼女に自分の意思を押し付けているだけでしょう」
「違う。私はカナリオの選択を尊重するつもりで――」
二人の静かだが激しい口論の中、カナリオの体がぐらりと揺れた。
それに気付いた人間は何人いただろうか?
少なくとも、私は気付いた。
だから私は、人垣から出て二人の間へ分け入る。
カナリオが倒れそうになるのと、その体を私が受け止めるのは同時だった。
「「カナリオ(さん)」」
王子と先輩が同時に声を上げる。
寄ろうとする二人から、一歩距離を取る。
「保健室に運びます」
「「なら私も」」
そう申し出る二人を手で制する。
息ピッタリじゃないか。
「なんとなく原因は二人にありそうな気がするので、二人はついてこないでください。お見舞いも禁止です」
私はそう言い残すと、カナリオを抱き上げて保健室へ走った。
「お腹、痛い……」
その途中、カナリオが呟くのが聞こえた。
保健室のおばちゃん先生に、カナリオを診てもらう。
ベッドの上に寝かされたカナリオを先生は触診する。
「詳しい事はわからないけれど、相当に胃の腑が弱っているみたいね。見た様子、寝不足もあるようだから、何か悩み事でもあったんじゃないかしら」
ストレス性胃炎ってやつかもしれない。
王子への気持ちやらでいろいろ悩んでいたが、そこにムルシエラ先輩からのアタックがあって余計に悩みが増えてしまったという所だろうか。
なるほどなぁ。
カナリオにハーレムルートがないわけだ。
二人以上は許容量を超えちゃうんだろう。
診察が終わって、先生は私とカナリオを二人きりにしてくれた。
「クロエ様、ご迷惑をおかけしました」
「まったくだ。貴様がこうまで軟弱者だったとはな」
「すみません。ご心配をおかけして」
「ふん。勘違いするな。貴様を気にかけているわけではない。これ以上、煩わされたくないだけだ。そうならないよう、今は大人しく寝ているのだな」
こんな時ぐらい労わろうともう一人の私に抵抗してみたら、ツンデレみたいになった。
「クロエ様……。私、どうすればいいんでしょうか……」
「……知らぬ」
私には恋愛の経験が無い。
だから、答えられる言葉なんてない。
「だが、貴様はどうしたい?」
だから返せるのは、こんな言葉ぐらいだ。
「わからないんです……。何が正解なのか……。どうすれば、全部丸く治まるのか……」
正解、か。
それはちょっと違うんじゃないだろうか。
「人との関わり方に、正解も不正解もあるか」
「それは、どういう……」
「人はどんな選択をしたとしても、選ばなかった方に後悔を覚える生き物なのだそうだ。要は、理屈ではないという話だ。結局貴様の言う正解を選びたければ、貴様にとってより良いと思う方を選ぶしかないという事だ」
カナリオは黙り込んだ。
何か考えているのかもしれない。
私はそっと彼女から離れ、保健室の外へ出た。
その先で、壁に寄りかかるコンチュエリと遭遇した。
「どうしたの?」
「お兄様に頼まれて、様子を見に来ましたの」
来るなって言ったからね。
ちゃんと律義に守ってくれたか。
「あんまり元気とは言えないよ。できるなら、二人にはしばらく接触しないよう言わなくちゃならないかもしれないね」
「そう。酷い顔色でしたものね。それに気付かず、あんなに白熱してしまうなんて。お兄様らしくない事……」
コンチュエリは壁から離れる。
「それだけ、感情的になっているという事かしら。恋は盲目というものかもしれませんわね。知っていまして? お兄様は卒業式に初めて会った頃から、彼女の事が好きだったのですわよ」
「知ってる」
「そ、意外ね。私ぐらいしか、その事は知らないと思っていましたのに……」
コンチュエリはくるりと私に背を向けた。
そんな彼女に私は気になっていた事を訊ねた。
「ねぇ、コンチュエリは先輩がカナリオと一緒になってほしいと思う?」
本来ならば、コンチュエリは兄の恋愛対象となったカナリオへ悪役令嬢として立ち塞がるはずなのだ。
しかし、ムルシエラ先輩がカナリオへアタックしている今、まったくそんな素振りを見せなかった。
それがどうしてなのか気になった。
「もちろん。今は、ね。巫女の血族だと分かる前だったら、意地でも阻止しましたわよ」
「どうして?」
「私達は三公。それも外交を取り仕切る家系。他国からの敵意をそらし、平和を維持する事がお仕事ですわ。私達のお仕事は、この国の人間全ての人間の運命を左右すると言っても過言ではありませんわ。責任重大ですのよ?」
「そうだね」
「だから、誰からも軽んじられるわけにはいきませんの。嘗められるわけにはいきませんのよ。
国内の者にも、国外の者にも……。
身分違いの恋など、醜聞以外の何物でもありませんわ。
そんな攻め入る隙を私達が許すと思いまして?
危機感で愉しくなっちゃう変人なんて、アルマール公ぐらいでしてよ」
なるほどね。
ゲームにおけるムルシエラ先輩のルート。
そこでコンチュエリは、重要な役割を持っている。
ミニゲームでポイントを得られなかった場合、彼女はカナリオを認めない。
そして、その状態でエンディングに行くとムルシエラ先輩は唐突にカナリオへ別れを告げる。
それもかなり未練を残した様子で……。
その裏には、さっきコンチュエリが語った理由があるのだろう。
家の人間を説得できず、そして先輩自身は恋よりも家の仕事を取るという事なんだろう。
けれど、コンチュエリの信頼を勝ち得た場合は彼女もまた先輩の説得に協力する。
二人から説得され、結婚を許されるのだ。
先輩が今回、カナリオへアタックしたのは、巫女の血筋であるという事も関係しているのかもしれない。
何せ、彼女が巫女の血筋だと周知されるのは、王子のルートだけなのだから……。
でも、今重要なのはそこじゃないかもしれない。
先輩にとって恋は……。




