壬申の乱は、甥と伯父が争う骨肉の争いだった
スサノオとアマテラスが、前鬼と後鬼として使い魔生活を送っている頃、宮中では大事件が起きていた。
(……帝が崩御したのか)
乙巳の変に始まる大化の改新と、この世界では白村江の戦いを勝利に導いた天智天皇の崩御だ。
斉明天皇の崩御後なかなか即位しなかった俺の生前のと比べて、天智天皇は早々に即位した。
そのためこの世界では天智天皇の在位は長く、白村江の戦いも在位中に起きている。
その天智天皇が崩御し、宮中では再び皇位継承問題が発生したのだ。
とはいえ、この件に関して言えば、俺は手を出す気などない。
手を出さなければ、自然な本来の歴史の流れに近くなるはずだ。
(……いかんな、先の生身の時期を引きずっているようだ)
皇位継承争いは、骨肉の争いそのものだ。
正直に言えば、見ていて気分のいいものではない。
ただ、行く末だけは気にかけておく必要があるだろう。
(確か、この継承争いは、『古代日本最大の内戦』なんて言われているんだったか)
そう、戦の規模としては、宮中の主要な豪族を二分する戦いになるはずだ。
(確か……壬申の乱、だったか)
正直なところ、飛鳥時代に関しては、大化の改新以外あまり記憶に残っていない。
データベースを参照して、ようやく大友皇子と大海人皇子、二人の皇子が相争ったということを改めて知ったくらいだ。
ただし、この争いの勝者が行った政策は何となく覚えているので、そういう意味では重要な争いなのだろう。
(一応は見届けるか……)
俺は動物の目や、ダンジョンコアのシステムから各皇族の動向を呼び出し、この争いを観察することにした。
【大海人皇子】
近江の都、大津宮。
冬の冷気が宮殿の回廊を這うように流れる中、我は兄・天智天皇の寝殿を後にした。
思い起こされるのは、兄の表情だ。
先の百済再興の戦では、精力的に指示を繰り返していた姿が、今では見る影もなかった。
(兄上は、もう長くはあるまい)
神仏への祈祷も、一時体調を持ち直すにとどまっている。
いかな神仏であっても、時に限界はあるということだ。
「殿下……」
たおやかな声に振り返ると、そこには額田王がいた。
月光に照らされた彼女の横顔は、かつて我が愛した頃と変わらず美しい。
だが今は兄の妃。
我らの間には、もう越えられない一線がある。
「額田王殿」
「お顔の色が優れませんね。陛下のお加減が……」
「ああ」
我は短く答えた。
「兄上の病は重い。もはや時間の問題だろう」
額田王は悲しげに目を伏せた。
彼女もまた、宮中に渦巻く不穏な空気を感じ取っているに違いない。
この年、兄上の病状が悪化するにつれ、宮中では次期天皇を巡る暗闘が激しさを増していた。
中心にいるのは、兄上の嫡男・大友皇子だ。若く聡明で、すでに太政大臣に任じられている。
だが、我には分かっていた。
この流れは、我を排除するための布石だと。
「殿下……くれぐれも、お気をつけください」
額田王が囁くように言った。
彼女の瞳には警告の色がある。
宮中の誰もが知っているのだ。
大友皇子を支持する中臣鎌足の一族が、我の存在を疎ましく思っていることを。
その年、兄上が崩御された。
我は寝殿で、兄の亡骸と向き合っている。
かつて共に国を治めた盟友。
蘇我入鹿を討ち、大化の改新を成し遂げた同志。
百済の王族を庇護し、かの地にて唐なる国の大軍を退け、新たな百済を打ち建てたその偉業。
そして──額田王を巡って心に棘を残した相手。
「兄上……」
様々な思いが心内に浮かぶが……今はそれに浸っているわけにはいかぬ。
背後より、足音が響いていた。
「大海人皇子」
声を掛けてきたのは、大友皇子だった。
整った顔立ちに、若さ故の自信と傲慢が滲んでいる。
「叔父上、父上の遺詔により、私が帝位を継ぐこととなりました」
「……そうか」
「叔父上には、吉野で仏門に入っていただきたい。それが、父上の、そして私の願いです」
吉野。都から遠く離れた山深い土地。事実上の幽閉だ。
我は大友皇子の目を見据える。
この若者は本気だ。
我を政治の舞台から追放し、確実に権力を掌握するつもりなのだ。
「分かった……吉野へ向かおう。それでよいのだな?」
我は答えた。
大友皇子の顔に安堵の色が浮かぶ。
だが、我の内心は荒れていた。
このまま黙って引き下がるわけにはいかぬ。
この国の未来が、あの若者に任せられるとは、思えぬのだ。
その想いを抱えたまま、我は吉野へと旅立った。
我は表向き仏門に入り、静かな日々を送っているように見せかけていた。
だが実際には、密かに各地の豪族たちと連絡を取り合っていた。
「大海人様」
側近の舎人が報告に来た。
「東国の豪族たち、特に尾張氏が味方してくれるとのことです。それに伊勢の国司も」
「よし」
我は頷いた。
「伊勢が味方になる意義は大きい。伊勢神宮の後ろ盾は何より心強いのだから」
この国を治めるには、武力だけでは足りない。
神々の加護、そして民の声もまた必要なのだ。
確かな力を持つ仏の道と、古よりの神々の庇護こそ、我が立つには欠かせぬものであった。
額田王からも密書が届いた。
「近江の宮では、大友皇子が急速に体制を固めております。中臣の一族が要職を占め、あなた様の味方をしていた者たちは次々と遠ざけられています。どうか、ご自愛を」
彼女は今も我のことを案じてくれているのか。
それとも、単に国の行く末を憂いているだけなのか。
……いや、どちらでもよい。
いずれにせよ、もう待てぬのだ。
時期を見計らい、俺は吉野を発った。
向かうは東国。
そこに活路がある。
「貴方様、本当によろしいのですか?」
妃の鸕野讃良皇女が心配そうに問うた。
皇族としても、良き伴侶でもある彼女は、我の最も信頼できる相談相手だ。
「ああ。このまま座して死を待つわけにはいかん」
俺たちは東国を目指した。
東国には俺を支持する豪族が多い。
そして何より、宮中から離れた地であればあるほど、兵を集めやすい。
離れすぎれば、逆にまつろわぬ者たちの領域となり、この身も危うくなるだろうが、伊勢や尾張はそこまででもないのだ。
途中、伊勢神宮に立ち寄り、我は祈った。
「天照大神よ……この戦、国の行く末のためなり。どうか加護を」
果たして、この身に何らかの加護が宿るのが分かった。
これは、天啓であろうか?
我が甥よりも即位するにふさわしいと?
加護は心中にあった迷いを断つかの様であり、その事実に我は震えた。
この加護により、神宮の神官たちは、我に味方すると決めたようだ。
これは余りにも大きい。
神々の支持を得たということは、民の心も掴めるということだ。
さらに東国に入ると、予想以上の反応があった。
尾張氏の当主が言った。
「大海人様こそ、真の帝でございます。我らは喜んでお味方いたします」
美濃の豪族も続いた。
「近江の朝廷は、地方を軽んじております。大海人様なら、我ら地方の声も聞いてくださるはず」
次々と集まる兵。
わずか一ヶ月で、数万の軍勢が集まった。
一方、近江の宮でも、大友皇子が動いていた。
彼は急いで軍を編成し、我を討とうとした。
「叔父上を討ち取った者には、褒美を与える!」
大友皇子の檄が飛ぶ。
だが、彼の周りには中臣氏ばかりであり、地方の豪族たちの支持は薄い。
また数少ない大友皇子に与する地方豪族も、関を抑えた味方豪族により檄が届かず、動くことはなかった。
そして両軍は、美濃と近江の境で激突することとなった。
運命の日が来た。
瀬田の唐橋。
近江の海(琵琶湖)から流れ出る瀬田川に架かるこの橋が、決戦の地となった。
この橋を制した方が、近江の都、大津宮へと進める。
軍に先立ち馬を進める我に、村国男依が報告に来た。
「殿下、敵は橋を焼き落とそうとしています」
「させるな。あの橋は我らが近江に入る唯一の道だ」
我の軍は、大友皇子の軍を圧倒していた。
数でも、士気でも。
術においてさえ、伊勢の神官を始めとした術者が、大友側の軍の術者を抑え込んでいる。
この戦いの最中、我は額田王のことを考えていた。
彼女は今、大津宮でこの戦況を知り、何を思っているだろうか。
額田王と我、そして兄である天智天皇。
我ら三人の関係は複雑だった。
かつて我は額田王を愛し、彼女もまた我を慕ってくれていた。
だが、兄が彼女を望み、我は身を引いた。
それは正しい選択だったのか。今でも分からない。
ただ一つ確かなのは、額田王がどちらの側にいようと、彼女は決してこの戦いを望んでいないということだ。
「進め!! 我と共に!!!」
我の号令で、兵たちが橋に殺到した。
大友皇子の軍は必死に防ごうとしたが、多勢に無勢だった。
やがて、橋は陥落した。
「大友皇子が自害されたとのことです!」
先を行く兵から報告が入った。
その知らせに、我は目を閉じた。
甥を死に追いやった。
いかなる理由があろうとも、これは我が背負うべき咎であろう。
これは勝利なのか、それとも悲劇なのか。
骨肉の争いの果てに、果たしてより良い国はあり得るのか……。
だが、もう後戻りはできない。
兵を起こさねば、自害して果てたのは我の側であっただろう。
故にこそ、我は進むのだ。
我は飛鳥浄御原宮で即位した。
「天武天皇、万歳!」
群臣の声が響く。だが、我の心は複雑だった。
兄を裏切り、甥を死に追いやり、多くの血を流して手に入れた位。
これを正当化できるのは、我がこれから何を成すかにかかっている。
額田王が俺の前に進み出た。
「陛下」
「額田王……我は」
「何もおっしゃらないで。分かっております」
その美しい顔に、憂いを浮かべながら、彼女は毅然と俺を見つめた。
「この国を、どうか正しく導いてください。それが、天智天皇の、そして大友皇子の願いだったはずです」
彼女の目には涙が光っていた。だが、その涙は非難ではなく、期待の色を帯びていた。
「約束しよう……この国を、誰もが平等に暮らせる国にする。律令を整備し、中央集権を確立し、強い国を作る。そのために我は即位したのだ」
そして我は心に誓った。
兄上、大友よ。お前たちの死を無駄にはしない。必ずや、この国を繁栄させてみせる。
額田王よ。お前が俺に託した期待に、必ず応えてみせる。
それが、この血塗られた皇位を正当化する唯一の道だ。
これから、俺の治世が始まる。
それはこの国が、真の意味で一つにまとまる時代の始まりでもあった。
空を見上げると、雲間から光が差し込んでいる。
我はそこに天照大神の姿を見た。
「天照大神よ。この国を照らしたまえ。そして我とこの国に、正しい道を示したまえ」
風が吹き、我の衣を翻した。
そうだ、日の照らす本にこそ、この地はある。
「ああ、そうだ。この地こそ、日乃本。日本なのだ」
我は宣言した。
この地こそ、日本なのだと。
宣言を言祝ぐように、陽光は我らを、宮を照らし続けていた。
今週少し投稿が滞る見込みです。




