乙巳の変により、蘇我宗家の血は途絶えた
「全ては蝦夷が為した事だと?」
「その通り、我が父は狂気に落ちた。故にこそ、吾がこの手で止めたのだ」
厩戸王の家族が住まう斑鳩宮と斑鳩寺への襲撃があった翌日。
宮中の最奥、この地の主たる敏達天皇の前で、蘇我入鹿はそう述べたのだという。
その手には、実の父親である蘇我蝦夷の首級があった。
曰く、蝦夷は大臣となった山背大兄王を脅威に思い、これを排除する為に兵を起こしたのだと。
しかし余りにも度が過ぎる暴挙であったために、息子である入鹿が止めたのだが聞き入れられず、やむなくこれを誅したのだと。
そして、即座に兵を退かせて今に至る、そういう事らしい。
「それを帝は信じたので?」
「信じてはいまい。だが、その言は受け入れられた。事を収めるには、そうするより他あるまい」
斑鳩寺の本堂。
俺の生前では、釈迦如来像を中央に置いた釈迦三尊像が鎮座することになる此処に、今は薬師如来像が祀られている。
その前で、出家し仏門に入った厩戸王が、事の顛末を教えてくれていた。
俺も既に隠居し、河勝の名も本来の秦氏の者に渡し、秦の翁などと言われる身の上になっている。
もっとも、隠居したのは名目だけ。
実際の所は、相も変わらず出家した厩戸王の護衛をしているのだが。
斑鳩寺の近くに庵を構え、日々寺に通う体で厩戸王の周囲に気を配っている。
そうやって過ごす中で、先の騒乱の顛末を聞かせてもらっているのだ。
何しろ既に隠居の身だ。宮中の出来事とは距離が出来てしまっている。
「誰もが、兵を起こしたのは入鹿、諫めようとしたのが蝦夷だと察してはいる。だが、証拠はないのだ」
「ですがそれで収まりましょうか? 此度の一件、かつての崇峻天皇への弑逆に並ぶほどの暴挙に御座いますぞ」
「故にこそだ。かつて蘇我に擁立された崇峻天皇と同じ道を辿ることを、帝は恐れた」
「……なるほど、自らの父さえ手にかけ、また大臣を襲う様な配下を未だに抱える。力の誇示は為されたと」
「そういう事だ」
薬師如来が見下ろす中、厩戸王はその様に語った。
なるほど。
蘇我入鹿は、政敵である山背大兄王の排除には失敗したが、その苛烈さを帝に見せつけはした。
父親さえも手にかける苛烈さと狂気は、帝に己の立場を理解させるのに十分だっただろう。
奇しくも、崇峻天皇と今代の帝はともに蘇我氏に擁立されている。
その意に背いたのなら、前例を踏襲することになりかねないと悟ってしまったのだ。
だからこそ、入鹿の証言を是とした。
「同時に、今責を入鹿に追及したならば、宮中は割れ、戦となるだろう。かつての物部との戦のように」
「御身のお声がかかれば、多くの兵が集いましょうな」
「そうなれば、かつての物部との戦以上の規模になろう。だが、それは避けねばならぬ。この国はまだ手を入れねばならぬ箇所が多すぎる」
厩戸王の言う通りだ。
今大臣となった山背大兄王が推し進めているのは、後に大化の改新で取り入れられるような制度の制定だ。
「西方の新たな大国である唐もまた、隋の制度を取り入れたと聞く。それをさらに学ぶため、遣唐使も派遣された。国内で争っている暇などないのだ」
厩戸王の言う通り、遣唐使の初回が最近派遣された。
大陸側で新たに誕生した大国と交流する為に。
俺の生前の歴史のように、遣唐使は長く続けられて、多くの者と知識をこの国にもたらすだろう。
もたらされた知識は、国づくりに生かされていく。
「しかし、蘇我としては、山背大兄王が進めている政策を許容できぬからこそ、先の暴発を起こしたのでは?」
「うむ。公地公民制などは、特に蘇我にとっては許せぬものであろう」
公地公民制は、後の律令国家化していくこの国の骨子に当たる部分だ。
豪族や天皇の私有地(屯倉)・私有民(部民)を廃止し、すべて公的なものとして管理し、支配の基盤を一本化する改革。
これにより、豪族の支配力は弱まり、天皇中心の中央集権体制を作り上げる。
大陸の大国が成立させた体制を模倣した様なそれだが、現状豪族の力が強すぎるこの国では、その力をそぐためにも必要な政策だと言える。
もちろん、この制度を実施するにあたって、蘇我氏の反発は予想されていた。
その為内々に進めていたらしいのだが、蘇我氏の耳目は根深かったと言う事だろう。
結局今回の騒乱の影響で、公地公民制やそれに伴う新たな制度の数々は頓挫した形になったのだ。
(やはり律令制の成立には、蘇我宗家の滅亡が不可欠なのか)
俺の生前の歴史で言う、乙巳の変──蘇我入鹿の暗殺と、蝦夷の自害という一連の事件──が無ければ、律令政治が本格的に始まる大化の改新が発生しないのだろう。
これは、まだ役者がそろっていない為だろうか?
(隠居前、中大兄皇子は見かけた事がある。まだ幼かったが意思の強そうな眼をしていた。神祇を司る中臣氏にも、鎌足と名付けられた若者が居た)
後に宮中で大きな働きを成すであろう二人は、既に生まれている。
「……我が働きは、此処までなのやも知れぬな。か細いが、この地により良い国を作るための道は作った。そして、子らも生き延びた。これ以上は我が身の分を超える欲であろうさ」
「……もしや、見えなくなりましたか」
「うむ。先はもう見えぬ……歳かの」
「ご冗談を……」
何処までも真面目だった厩戸王の冗談を、俺は初めて聞いた。
まだ少年であった頃からの付き合いだというのに。
それほどまでに、彼は何処までも己に課せられた役目を果たそうとしてきたのだろう。
穏やかに笑うその顔は、重荷から解放された様な晴れやかさがあった。
その翌月、厩戸王は静かに息を引き取った。
ただ、眠るように。
下人が、朝になっても起きない厩戸王をいぶかしみ、様子を見た時には冷たくなっていたそうだ。
俺には判る。恐らく、あの騒乱の夜に寺の塀に立てられた光の壁。
あれは厩戸王が為したモノだったのだろう。
本来あの夜滅ぶはずだった家族を守るために、かつて丁未の乱で四天王に願った加護以上に、彼は祈りを捧げたのだ。
だから、家族は生き残った。
その加護の代償に、厩戸王は何を捧げたのだろう?
己の残りの寿命だろうか?
今となっては、誰にもわからないだろう。
俺も、彼の遺体を見た。
年老いて皺も目立つようになったその顔は、本当に眠っているかのような表情を浮かべていた。
(……少なくとも、悔いは無かったのだろうな)
ならば、護衛として役目を果たしたと言えるだろう。
……俺もまた、この老いたアバターに別れを告げる時が来たのかもしれない。
(ハルカと共に過ごす時間を取りたいしな……)
ハルカは、俺が天然痘に罹った時に急遽造ったアバターで、その後も俺の世話をしてくれている。
隠居した後も、当然のように世話役として付いてきてくれたのだ。
周囲の者達の認識を誤魔化しているので、怪しまれる事は無かったが、俺の事は年若い下女に身の回りの世話をさせるスケベ爺とでも思われているかもしれない。
(旅に出た、という体で姿を消すか)
湯治にでも出たとして消えたら、秦氏の者や他の者も、探そうとはしないだろう。
先の騒乱で暴れた俺を警戒しているらしい蘇我氏も、俺が姿を消すことで疑心暗鬼になって身の安全を重視する方向に傾くかもしれない。
(厩戸王の一族も少しは安全になるか……よし、そうしよう)
そうと決めた俺は、ハルカのアバターと共に翌日姿を消した。
ひそかに庵を窺っていた蘇我の監視をかいくぐって。
俺の存在が消えた事を知った入鹿は、猜疑心に陥りしばらく行動を控える事になったのだった。
それから時は流れる。
俺が魔力に還ってから、およそ十数年。
蘇我入鹿は、ようやく以前の傲慢さを取り戻していた。
切っ掛けになったのは、舒明天皇の崩御だ。
新たな天皇の擁立に際して、再び蘇我氏はその力を振るおうとしたのだ。
この時、大臣であった山背大兄王は既に政治の舞台から姿を消していた。
直接的では無かったものの、蘇我氏の牽制が長く続き、それに倦んだためか身を引いていたのだ。
これもあって、蘇我氏はいつしか権勢を取り戻していた。
そして、古人大兄皇子が擁立されて、皇極天皇として即位したのだ。
この時、有力な候補は複数いたが、誰もが問題を抱えていた。
舒明天皇の息子であり、皇位継承の正当な血筋に当たる中大兄皇子は、10代半ばと非常に年若く、その点が不安視された。
大臣であった山背大兄王は、政治への熱を失い、自ら引いた。
皇后である宝皇女も候補に挙がったが、皇族ではあっても直系の皇女では無かった。
そんな中にあって皇極天皇として即位した古人大兄皇子は、中大兄皇子同じく舒明天皇の息子であり年齢的にも問題がない有力候補だった。
しかし、古人大兄皇子の擁立には反発があった。
蘇我氏の血が濃いのだ。
母である蘇我法提郎女は蘇我馬子の娘であり、蘇我入鹿とは叔母と甥の関係にある。
古人大兄皇子が即位したならば、蘇我氏の専横が始まるのが目に見えていた。
だが蘇我入鹿は彼を擁立し、即位にまで漕ぎつけた。
(……生前の歴史とは違うな)
そんな宮中の様子を、俺は魔力の流れの中で眺めていた。
宮中も魔力の中にある。
アバターを介さないと味気無いのだが、様子を見るだけなら魔力の観測で事足りる。
データベースを確認すると、この時即位したのは、皇后であった宝皇女だ。
ほぼ中継ぎと言うべき即位で、ほんの数年で次の天皇へと譲位することになった女性天皇。
だが一歩間違えば、こうして中継ぎを経由せず直接次の有力な候補へと移り変わることも在り得た、という事なのだろう。
もちろんこの動きはあちこちから反発されることになる。
中継ぎを経由しなかったことで、蘇我氏の強引さが鼻についた者も多かったのだろう。
特に反発したのは、多くの皇族だ。
その中心になったのは、中大兄皇子であり、その臣たちだ。
そして、それは起きた。
かつて宮中で起きた暗殺劇。
天皇も参加する儀式の中で、蘇我入鹿が中大兄皇子と中臣鎌足の手によって暗殺された。
後の世で言う乙巳の変は、この世界でも起きたのだ。
(歴史は変わるようで変わらないな……)
血に染まる儀式の場を、魔力を通じて見ていた。
此処に至るまで、厩戸王の一族の生存等、明確に俺の生前とは変わった場所もある。
だがこうして、変わらなかった結末もあった。
(世間は虚仮なり、唯仏のみ是れ真なり、か)
何と無しに、何時か厩戸王が語った言葉が頭をよぎって、消えた。




