推古天皇の後、敏達天皇が即位した
軍勢が迫っていた。
多くの兵と、幾らかの将。
俺の生前とは違い、明かりなど殆どないこの時代、雲多い夜とは闇そのものだ。
その中を、松明を盛った兵達が押し寄せてくる。
俺は門の前に立ち、その軍勢を見据えた。
一瞬振り返り、門が固く閉ざされているのを確認する。
分厚く強固な門は、ダンジョン産の素材も混ぜられているため、魔力に馴染んだ兵達でもそうそう壊されることはないだろう。
同様に、門から続いて敷地を取り囲む土塀も、相応の防御力が見込めた。
何より、此処には御仏の加護がある。
(しっかり守れば、朝までは保つか……やれやれ、こんな事になるとはな)
そんな想いが頭をよぎる。
迫りくる軍勢は、所詮後ろめたい刺客だ。
朝になって援軍が来たならば引かざるを得ない筈。
正直に言えば、何故こんな事になったのかと首をかしげたくなるが……まあ良いだろう。
(とはいえ、歴史を変えようとしているのは、確かか)
魔力をばらまいている以上、今更になってしまうが、そんな事実が頭をよぎる。
だがここ──斑鳩寺は、長年仕えた主君と、そのご家族が逃げ込んだ場所だ。
此処を守らないのは、舎人として仕えた日々を裏切ることになってしまう。
だから俺は、此処に立つ。
厩戸皇子──いや厩戸王を守るために。
推古天皇が崩御した。
全体的に生命力が強いこの世界の人々だが、それでも死はやってくる。
とはいえ、70歳を超えていたので、この時代としては十分に生きたと言えるだろう。
死因も、老衰に近いものだったから、天寿を全うしたと言っていい。
「伯母上は、心静かに旅立たれた。この身も最後はああありたいものだ」
推古天皇と厩戸王は叔母と甥の関係にあった。
政治的にも肉親としても、推古天皇は摂政とした厩戸王に全幅の信頼を置いていたし、彼に看取られ静かに旅立った彼女は心穏やかだったに違いない。
「殯を終え、喪が明ければ、次代を選ばねばならぬな」
「……殿下を次にと言う声も多いとか。また山背大兄王の名も挙がっております」
「さて、な。大叔父上から代替わりした蝦夷が何というか」
「あちらは、若い田村王を推挙するとの話もありますな」
家族として実の叔母を見送った厩戸王に待つのは、政治の季節だ。
既に何名かの皇族が、皇位候補として名が挙がっていた。
その中で、最も優勢なのは摂政を長く務めた厩戸王その人だ。
年齢は50代と高齢に差し掛かったものの、推古天皇の治世で改革と世の安定に努めた手腕は高く評価されている。
一方で、彼の息子である山背大兄王もまた有力だ。
此方は年若いのと同時に、父の政策を引き継ぐように期待されていた。
一方で大豪族として大きな力を持つ蘇我氏は、敏達天皇の系譜に当たる田村王を後押ししようとしている。
これは、蘇我氏と厩戸王の力関係の変化に寄るものだった。
蘇我氏と厩戸王は、丁未の乱の頃から仏教の普及や隋の制度を参考にした国内の安定を図るなど、歩調を合わせて来た。
大叔父と曾姪孫と言う関係もあり、推古天皇の治世の間、その関係は維持され続けていたのだ。
しかし、蝦夷の代になってそれは崩れて来た。
馬子は厩戸王を敵視しなかったが、蝦夷は摂政であり豪族支配から中央集権的構造へ国家を移行させようとしている厩戸王を疎ましく思い始めているようだ。
田村王の擁立は、その表れだと言えた。
(俺の生前の歴史では、こうはならなかったんだよな……)
生前の歴史では、天然痘により摂政が倒れたことで政治的空白ができた事で、蘇我氏の勢力が急伸した。
厩戸王の息子である山背大兄王は有力な皇位継承候補だったが、蘇我氏が後押ししたのは田村王の側。
結果として田村王は629年に舒明天皇として即位、推古天皇時代の政治路線を踏襲しつつ、遣唐使の開始や飛鳥岡への宮の移動など、宮殿内の整備を行うなどしたとされている。
だがその在位期間に蘇我氏の専横は極まり、宮廷に血が流れる事になった。
……この世界ではどうなるのだろう?
「……この身も隠居を考える時期だ。今更即位もあるまい」
「では、山背大兄王を?」
「後押しはしよう。だが、既に蝦夷は動いているのであろう?」
「……皇族の方々や各地の有力者に働きかけを行っているとか」
「で、あろうな」
宮殿の一室で、厩戸王は何と無しに窓の外、宮殿の庭の一角へと視線を送る。
その際、視線の先で気配が揺らいだ。
相も変わらず、蘇我氏の耳目は多いらしい。
「次代が即位したのなら、古き摂政も退くべきであろうな……河勝、そなたも時代に引き継がぬのか?」
「その予定で御座います」
「そうか。お互い、長く政に携わったモノよな」
「誠に」
既に50代半ばの厩戸王もそうだが、このアバターも大分歳を食った。
何しろまだ皇子が14程度の頃から舎人として彼の傍で側近兼護衛としての仕事を続けてきたのだ。
丁未の乱の直前からここまで、厩戸王とは長い付き合いとなってしまった。
調整したアバターなので加齢による衰えは心配不要なのだが、やはり肉体に宿っていると精神的な老いを感じる時がある。
その為、本来の秦の一族の中から後継者を既に選んであった。
厩戸王が摂政を退いたのと同時に、このアバターも隠居する予定なのだ。
「摂政を退かれたら、殿下は如何為されるので?」
「……仏門に入門するつもりでいる」
「何と?」
「世間は虚仮なり、唯仏のみ是れ真なり」
「…………」
「御仏の道こそ、真実なのだ、河勝よ」
ここまで国を動かし、同時に多くの物を見て来た厩戸王は、此処まで押し進めたように仏教へ帰依するようだ。
実に彼らしい決断だった。
その後、次代の天皇として、俺の生前通り敏達天皇が即位した。
この辺り、やはり魔力が歴史をなぞろうとしているのだろうか?
ただ、俺の生前の歴史と違う場所もある。
厩戸王の息子である山背大兄王が、摂政だった父をなぞるように、大臣として就任したのだ。
(先の摂政が存命だった上に、豪族の後押しも多い。蘇我氏の一強状態が崩れてきているのか?)
即位の儀に参加している豪族の中、蘇我氏の長である蝦夷とその息子の入鹿の表情は硬い。
押し進めている政策的に、厩戸王の息子である山背大兄王と蘇我氏は、本来同じ路線で協力し合えるはずだ。
しかし、宮中内の勢力を維持したい蘇我氏にとって、既に山背大兄王は政敵だった。
このため、次代の天皇争いで山背大兄王とは別の田村王を後押ししたのだが、これまで蘇我氏がその位を占めていた大臣に山背大兄王に就いた事は、蝦夷入鹿親子に衝撃を与えたようだ。
(……これで、拮抗状態にでもなれば、宮中で流れる血も少なくなるのだろうけど……このままでいる蘇我氏ではないだろうな)
過去に崇峻天皇を弑逆したこともある蘇我氏だ。
何を起すか判ったものではない。
(もっとも、厩戸王配下の者達が、それを許すとは思えないが)
厩戸王は、早い時期から易経を元に五行を操る五行使いを配下にしていたが、その他にも陰陽八卦を元に先を予測する占術使い達も抱えている。
蘇我氏の影響力は大きいとはいえ、それに対抗できる者達をしっかりと抱えているのだ。
その為、崇峻天皇のように易々と暗殺されることはない筈だった。
俺も、皇子やその親族の護衛として、武官を既に育ててある。
多少の暗殺者でも守り切れるだけの技量を、その武官たちには仕込んであるため、皇子達の身の安全は保障されていると言っていい。
……そう、安全は保障されていた筈だった。
だが、それは起きた。
予想されたとおりに。
「皆、逃げよ! ここはもう持たぬ!」
厩戸王は言葉通りに摂政引退後出家し、斑鳩寺──法隆寺に居を移していた。
一方で大臣である山背大兄王は宮中で過ごす期間が多かったものの、家族が住まう斑鳩の宮で過ごすことも多かった。
其処へ急遽多くの兵がが押し寄せたのだ。
素性が判らないように、布で顔を隠した兵達は、雲の無い闇夜に紛れ、瞬く間に宮へと攻め入った。
恐らく念入りに伏せられた兵だったのだろう。
瞬く間に斑鳩の宮に攻め入ったその軍勢は、俺が育てた武官たちを数で押し、山背大兄王を殺害しようとした。
問題は、攻め手の側にも占術や五行の術を扱う者が多かった事だろう。
攻め手側の動向を気取らせず、また事が始まるまで兵を伏せ切ったその手腕は、護衛側の術者を上回ってしまったのだ。
しかし同時に、この襲撃は予想されても居た。
占術により大きな災いが押し寄せると出たのだ。
これにより、斑鳩宮には武官を置いて守りを固めていたのだが、相手兵力は予測を超えていた。
そもそも宮殿と言うのは守りに適してはいない。
軍勢で押し寄せられても辛うじて状況を維持できているのは、武官の質が高いせいだ。
それも、時間稼ぎに過ぎない事は、山背大兄王も解っていた。
このため、山背大兄王を始めとした一族は、斑鳩の宮から斑鳩寺へと逃げ込む事になったのだ。
だが、寺の側にも兵は差し向けられていた。
「探せ! 一人も逃すな!」
兵の指揮官が兵を追い立てる。
寺は厚い壁に囲まれていたが、軍勢を前に立てこもるには、余りにも心もとない守りだ。
何より門を一つ突破したらいい。軍勢を雪崩れ込ませて、戦い慣れていない皇族を根切りに出来る。
だから、まあ。
(ここは俺が守るしかないよな)
「むっ!? 何かいるぞ!?」
斑鳩寺の門の前。
俺は、俺のアバターは、そこに立っていた。
俺の存在に気付いた兵達が、異様な様子に足を止める。
「まったく、もう隠居した身なのだがなあ」
今の俺のアバターは、老境に足を踏み入れて暫く経つ。
常に武官として、厩戸王の側近として働き続けた為、大分身体にもガタが来ていた。
見た目にも、くたびれた老人として映るだろう。
だが、兵達は門の周囲を囲んで動かない。
やれやれ、臆病な事だ。
「……この先は御仏の領域。狼藉ものを入れる訳には行かん」
「ちっ! 秦氏の長か」
「そんなもの、とっくに後継に譲り渡したぞ。ここに居るのは只の老い先短い老人ぞ?」
「どの口が言うか化生の類いめ!」
兵達の先頭に立つ指揮官らしい男達が、此方に向けて憎まれ口をたたいてくる。
アレは、確か……。
「巨勢徳多に、土師娑婆連だったか。誰の指図で動いているかは知らんが、よくも暴れた物よな」
「……相変わらず、口が回る」
おっと、どこかで見た顔だと思って名を呼んだら、将らしい二人が顔を顰める。
いや、長年宮中で摂政の側近何ぞ務めていたら、誰が誰の部下かとか必然的に覚えてしまうものだ。
あとは、そう。俺の記憶を元の世界とリンクさせて強化したデータベースにも、その名前が存在していた。
聖徳太子──厩戸王の一族を襲って根絶やしにした襲撃犯の名前として。
(だが、それは後10年は先だったはず……前倒しされたか)
俺の生前の歴史では、今夜と同様の襲撃を受け、厩戸王の一族は完全に途絶えてしまう。
しかし、それは次の天皇の後継争いに絡んでのことだ。
今この瞬間では無い筈。
「それほどまでに、危機感を抱いたのか、蘇我氏は。蝦夷……いや、やるとしたら入鹿の方か」
「っ!!! 構わん、囲んで押しつぶせ! 殺せ! あの爺を殺せ!!!」
思い起こすのは、山背大兄王の大臣就任で表情を強張らせた蘇我親子。
蝦夷の方はまだ落ち着きがあるため、暴走するとしたら年若い入鹿側が怪しい。
同時に、攻め手を指揮している巨勢徳多と土師娑婆連は、入鹿にも近かったはずだ。
つまりこれは蘇我氏の画策した、厩戸王とその一族の暗殺に他ならない。
(……長い夜になりそうだ)
迫りくる軍勢を前に、俺は静かに戦意を高めた。




