推古天皇の即位を以て、古墳時代が終わり、飛鳥時代を迎える
丁未の乱の同年、蘇我氏が擁立していた泊瀬部皇子が崇峻天皇として即位した。
宮もそれまでの場所から倉梯柴垣宮──俺の生前で言うと奈良県桜井市付近だ──に置かれ、一新される。
まるで新たな時代の始まりを宣言するかのようだ。
厩戸皇子も皇族として新たな宮に移り、俺も舎人としてそれに付き従った。
今更だが、厩戸皇子はまだ生前の例で言うなら中学生に当たる14歳ほど。
一応この時代であれば成人扱いしていい年齢だが、俺からするとやはり年若く見えてしまう。
実際見た目も相応に若いのだが、同時に俺から見ても彼の精神は既に成熟しているように見える。
幼少から多くのものを学び、同時に蘇我氏と物部氏の衝突を見て来たからなのだろう。
その厩戸皇子だが、先の戦いの後から微妙に表情が優れない。
「……勝過ぎてしまったやも知れぬな」
「殿下、それはどのような……」
「そなたも解っておろう。大叔父殿を抑えられる者が居なくなった」
書を読み解きながら、皇子が不意に言葉を零した。
その言葉の通り、今や蘇我氏はこの国で最も大きな勢力だと言える。
血縁である泊瀬部皇子を後押しし、崇峻天皇として即位させるまでに至ったのだ。
そして、古くからの対抗馬である物部氏が滅んだ以上、国内にコレを抑えられる者は居なくなった。
国のトップである崇峻天皇でさえ、蘇我氏の力が無ければ即位出来なかったのは明らかで、蘇我氏の長──蘇我馬子に強く出られないだろう。
蘇我氏の一人勝ち状態な訳だ。
先の丁未の乱で、勝利のきっかけになった厩戸皇子も、その勢いに何も言う事は出来ない。
そもそも厩戸皇子はまだ少年と言った年齢で、象徴としては重視されてはいても、実権としては薄い状態だ。
更に蘇我馬子は厩戸皇子にとって大叔父にあたる人物であるため、口を出しにくい。
だが、そんな状況は歪みを呼ぶ。
「何より、物部を滅ぼしたのは行き過ぎであった。物部守屋の怨念は、いかほどのモノであろうか」
「物部氏の陣営跡では、今も呪詛の声が聞こえるとの事」
「無理もあるまい。一族を滅ぼされれば、そうもなろう。御仏の救いも、守屋は拒むであろうからな」
厩戸皇子の言う通り、一族郎党を滅ぼされた物部氏の怨念は、戦場となった河内の地に渦巻いている。
魔力が人の意思を宿してしまう以上、守屋の無念と蘇我氏への憎悪は確実にこの国の奥底に溜まり、澱んでいるだろう。
それがどのような結果を呼ぶのか、俺でさえ想像もつかない。
「我らは御仏のご加護にて勝ちを拾えた。しかし、いずれその咎を受けねばならぬやも知れぬ。どのような形であれ」
厩戸皇子は書を置き、窓の外を眺めた。
宮からは四方を取り巻く山々が見える。
その心中は、俺ではさしはかることはできない。
ひとしきり視線を窓の外に向けていた王子は、ポツリと言葉を零した。
「遠からず、荒れるな」
「荒れる、ですか。いかような荒れ模様となりましょうか?」
「さて……それはまだ読めぬが、戦にはならぬであろう」
聡明な厩戸皇子は、窓の外に視線を向かたままだ。その先に、まるでこの先が映されているかのように、皇子は言葉を連ねる。
俺も、同意見だ。
(どんな時代でも、飛び抜けた勢力には対抗心や嫉妬が向けられる)
我が世の春を謳う様な蘇我馬子の専横は、身内と言える者からも敵意を向けられかねない。
同時に、突出してしまった側も、それは理解している。
だからこそ、下から追い落とされないように立ち回るなどするのだ。
「5年、であろうな」
「……それは?」
「長くて5年の間に、血は流れる。規模はともかくな。河勝、心しておく事だ」
預言めいた厩戸皇子の言葉に。俺は内心背筋を震わせた。
俺の生前の歴史で、5年後に何が起きるのか知っていたからだ。
そして厩戸皇子が予言した5年後に、それは起きた。
ある時、崇峻天皇の住まう倉梯柴垣宮に、巨大な猪が献上されたのだ。
例によって魔力を取り込んで巨大化した猪は、小屋ほどの大きさがある。
何でも、とある豪族が山の主であったこの猪を狩ったのだという。
余りに見事な猪であり、国の主に献上するにふさわしいものだったために、崇峻天皇へ献上されたそれを、崇峻天皇は手づから切ろうとした。
余りの大きさの為、首を切り落とすなどは出来なかったが、代わりにその目を突き刺してこういったのだという。
「いつかこの猪の首を斬るように、憎いと思う者の首を斬りたいものだ」
崇峻天皇が難いと思わず零してしまった相手は誰か?
それは彼を擁立した蘇我馬子その人だ。
だが、何故崇峻天皇は自身の後ろ盾である筈の蘇我馬子を憎んだのか?
一つは、崇峻天皇が大伴氏と言う豪族に近づき、蘇我氏への権勢に対抗し始めたという面がある。
物部氏滅亡の過程で、大伴氏は蘇我馬子側に付き、崇峻天皇即位を側面支援していた。
その後、崇峻天皇は大伴氏の大伴金村の子・大伴糠手子の娘を后に迎え、王権の中核に大伴氏を引き寄せたのだ。
崇峻天皇は蘇我氏の後ろ盾を得ていたものの、その実有力豪族間の均衡を模索していたらしい。
だがこの動きは、蘇我氏にとっては裏切りに等しい。
ヤマト政権の中枢を自勢力で抑えたはずが、横やりが入った形になったのだ。
何より、大伴氏との婚姻強化により、次代継承で蘇我外戚が相対的に弱まる可能性が生じ、馬子は権力基盤の動揺を懸念したのだろう。
この動きは、崇峻天皇と蘇我馬子との間に断裂を生むのに十分だった。
また、押し進める政策も、崇峻天皇と蘇我馬子とでは違っていた。
崇峻天皇は国内の安定を図りつつ、半島への進出をもくろんでいたのだ。
コレには、当時の半島情勢が大きく絡んで来る。
この頃の大陸の半島は、百済・高句麗・新羅の三国の抗争が激化していた。
その中の新羅が半島西海岸へ進出し、その地にあった諸国を次々に統合・吸収していったのだ。
問題は、この諸国──所謂「任那」──が、ヤマト政権が伝統的に抱えていた航路・交易拠点・人的ネットワークに当たり、対外基盤が弱体化したことになる。
元々、ヤマト政権は半島三国の中の百済と関係を深めていった。
百済は、新羅と対峙する中同盟国の協力を必要としていたし、ヤマト政権は航路・人的交流を通じた半島南部の友好国が必要だった。
任那は、その半島側の舞台だったのだ。
そして、崇峻天皇はこの任那問題に対して、積極的な派兵を考えていたようだ。
何しろ日本の兵は魔力により尋常ではない力を持っている。
大陸では魔力濃度の関係で力を振るいにくいが、それでも半島なら日本ともまだ距離が近く、力は多少維持できる範囲と考えたらしい。
その為、任那へ大規模な出兵を行い、これらの諸国を一気に取り返しつつ、同時に半島にヤマト政権の確たる領土を確保する事まで視野に入れていたようだ。
だが、その政策は、蘇我馬子の意思に反しているものだった。
馬子は、むしろ国内の制度を整備することに関心を向けていた。
まだまだ安定に欠ける国内の状況を、大陸の進んだ制度を取り入れて整備する。
馬子としてはそちらを優先するのが先で、大陸への派兵など受け入れられない政策だった。
崇峻天皇が政権の長であっても、蘇我馬子の意向を無視しての大規模派兵は不可能。
これにより、崇峻天皇と蘇我馬子両名の間は、完全に冷え切っていたのだ。
そこで、先の猪への発言だ。
崇峻天皇としては、思わず零した、そんな言葉だっただろう。
だが、宮中に蘇我氏の目と耳が無い場所などありはしない。
時置かずして、その言葉は馬子の耳にも入ることになった。
当然、馬子は脅威を感じただろう。
現在は自身がほぼ実権を握っているとはいえ、対抗馬になりえる大伴氏の存在は既にある。
故に、馬子は決断した。
その日、崇峻天皇は馬子が主催した、ある儀式に参加していた。
未だに安定しない東国を平定するための儀式だったという。
だが、それは名目に過ぎなかった。
そこで行われたのは、暗殺。
馬子の命を受けた渡来系豪族、東漢直駒が、儀式の場に現れた崇峻天皇を弑逆したのだ。
おそらく、前々から準備自体は進められていたのだろう。
政権の長が暗殺されたというのに、まるで混乱は無く、流れ作業のように全ては進んでいった。
「やはり、こうなったか」
「殿下のお言葉通り、5年で御座いました」
「このような予想が当たったとて、嬉しくはないがな」
宮殿内を慌ただしく駆けまわる下人たち。
その様子を見る厩戸皇子には、憂いが見える。
「あの様子、既に伯母上の即位を進めているようだ」
「……あまりに早すぎませぬか? 殯も終わっておりませぬ」
「大叔父殿に言わせれば、値せぬとの事だろう」
「何と……それは、余りに惨い」
蘇我馬子は、殯──葬儀の儀式すら行わせないほど、崇峻天皇を憎んでいたという事だろう。
更には早々に墳墓へと葬られてしまった。
墳墓としての規模も小さく、ヤマト政権の長のものとは思えないほどだ。
「……実行犯たる東漢直駒も、既に姿が無いと」
「生かしておく理由は無かろう。誰からの命であったと明言されては、大叔父殿も危うくなる。例え、誰もが真相を察していようと」
崇峻天皇暗殺の実行犯である東漢直駒は、後で聞いた話によると馬子の娘と密通した罪で処刑されたらしい。
だが、厩戸皇子が言う通り、それが口封じであるのは明白だ。
その為だろう、宮殿で働く下人たちの顔には怯えが見える。
最上位にあった筈の天皇までも、蘇我氏の意向に背けば、死を免れないのだ。
「この身も、大叔父殿には逆らえぬ。この様な有様、物部の者達が見たならさぞ楽しげに嘲笑いかねぬな」
「殿下、そのような……」
「因果は巡るのだ、河勝。だがそれでも、大叔父殿が進める国づくりは進めねばならぬ」
厩戸皇子は、俺と話しながらも書き続けた書に視線を下ろした。
「大国の規範を元にした、法。豪族に寄らぬ万人から役人を登用する、制度。これらを以てして、我らが国は西の地の大国を凌ぐ者とならねばならぬ」
彼の目は、たとえ血が流れてでも次代の天皇の下で進めるべき政策と国づくりに向けられているのだろう。
今代の俺のアバターもまた、彼に仕えその政策を後押しする。
そこから、新たな時代が始まることを知っているから。
初の女性天皇である、推古天皇。
彼女の即位により古墳時代が幕を閉じ、飛鳥時代の幕が開ける。
新たな時代を呼び込む様な風の中に、一瞬重く澱んだ血の匂いが混ざったような気がした。




