丁未の乱において、厩戸皇子は戦勝を願い、四天王の像を掘った
蘇我氏と物部氏との争い──丁未の乱の初日は、蘇我氏側がただひたすら一方的に矢を射かけられただけで終わった。
まだお互い陣を張っただけだが、それだけで一方的に物部氏側の良いようにやられてしまったわけだ。
(いや、アレはもう物部守屋の武だけが目立っただけだったな)
高く組み上げた櫓から放たれる超長距離射撃。
流石に距離があり過ぎて、個々人が誰かは把握していなかっただろう。
それでも、指揮官や高位の者と想定される者ばかりを狙って、守屋の矢は放たれた。
俺は何とか厩戸皇子を守ったし、他にも周辺の指揮官級の将を守ったが、離れた場所では数人射抜かれてもいる。
(大したものだな、あいつ。師匠なら同じ事は出来るか?)
(……昔、槍を投げてあの距離以上先の大熊を貫いたことならある)
(そいつは流石だな、師匠)
俺は、陣幕の中でスサノオと意思を交わしていた。
その様子は、傍目には奇妙に映るかもしれない。
俺の傍には何故か内陸部にもかかわらず海鳥が居るからだ。
(ところで、その写し身の調子はどうだ?)
(悪くはない。でもこの身体は何か落ち着かないみたいだな!)
もちろんこんな所にいる海鳥が尋常な存在であるわけがない。
もちろんこれは、スサノオのアバターだ。
生前武力に優れた戦の王子だったスサノオは、この丁未の乱を見物する気満々で、日中も上空から二つの陣の様子を見ていたらしい。
空も飛べる写し身をスサノオが求めたので、様々な鳥類との相性を調べて、一番良かったのが海鳥の類だったのだ。
スサノオ──須佐之男命と言えば、俺の生前の神話では、海原を司るように父神から命じられたとされている。
海鳥との親和性は、その表れなのだろう。
今の写し身の見た目は水かきがあるだけの鳥なので、陣幕の中に居ること以外は特に問題はない筈だ。
(ハルカはペンギンを推していたけどなあ)
(あの鳥飛べないだろ!?)
そう、スサノオのアバター選びには、ハルカも嬉々として参加していた。
丁度南極近くにまで海底のコアネットワークも伸びていた為、呼び出せる海鳥の中には、ペンギンも混ざっていたのだ。
その愛嬌のある姿にはハルカはもちろんアマテラスにも好評で、スサノオは危うくペンギンに意思を宿すところだった。
もっとも、スサノオ自身が主張するように、飛べるための身体を求めていたので、ペンギン案は水に流されたのだが。
(俺の写し身の事は良いんだよ、師匠。そんな事より、明日師匠側の軍が勝たないと、この先何が起きるのか分からなくなるんだろう?)
(ああ。物部氏側が勝ったら、大陸式の律令政治や中央集権化が進まずに、国家としては数百年単位で発展が遅れる事になるだろうな)
実際、この丁未の乱は歴史上の重要な分岐点だろう。
大陸からの文化を重用する蘇我氏、そしてそこに連なる泊瀬部皇子──崇峻天皇から推古天皇となる流れの中で、大陸の大国の制度を模した律令制が敷かれるようになる。
この流れが無かったら、国家としての成熟が遅れるのは確実だ。
(そう考えているのに、大きな力は貸さないんだな)
(……歴史は、人が作るものだからな。人としてできる事、この時代で出来ること以上の事をする気は無いよ)
俺が為すのは、精々一部将としての力だけだ。
それ以上は、する気も無いし、多分許されても居ない。
(俺も一応、仏に仕える身だからな)
俺がこの世界でダンジョンコアになったのは、この世界の担当仏に任命されたからだ。
そうである以上、無法な事をするわけには行かない。
(閻魔に実際に裁かれる体験をした以上、自分の分を超える事はする気になれないさ)
(……そういう物なのか)
魔力に変換されただけで、本当の死を知らないスサノオには、この感覚はきっとわからないだろう。
そして、その方が良いとも思っている。
まあ、そんな事は今はどうでも良い。
(それに、俺が力を振るうまでも無い)
(……どういう事だ?)
確かに衝突前の陣立ての段階では、物部氏の攻勢が目立った。
だが、まだそれだけだ。
本格的にぶつかり合ったわけじゃない。
(俺の生前に比べて物部守屋が規格外になっているなら、相対するこちらも規格外になっている人が居る)
スサノオは、まだ蘇我氏側の戦力を知らない。
厩戸皇子の力を知らないのだ。
(まあ、明日になればわかるさ)
そう言って、俺は眠りについた。
夜明けとともに、軍はぶつかり合った。
いやこの場合、軍と言う表現は誤りか。
ぶつかり合ったのは、矢の雨と土の津波だ。
物部氏側から放たれた大量の矢が、蘇我氏側の軍の前に聳えた土塁に次々と突き刺さる。
それでいて、その土塁は地響きをたてて前進し、物部氏側へと迫っていくのだ。
(な、何だアレ!?)
(厩戸皇子の配下の、五行使い達の仕業だな)
(五行使い!? 何だよそれ!?)
俺が跨る馬の頭に留まった海鳥──スサノオの写し身から、驚愕の意思が飛んで来る。
いやまあ、無理もない。
スサノオも生前クナのクニ側の祭司が起こした生きた炎や石の雨を見ていた筈だが、こんな光景は初めてだろう。
(蘇我氏が大陸から得た技術には、こういう方面も存在したって事だ)
蘇我氏が大陸から取り入れた物と言うと、養蚕や仏教等が有名だ。
だがもちろんそれ以外も積極的に取り入れていて、易経もこれに含まれる。
易経は古代中国で成立した哲学書・占筮書で、陰陽の組み合わせによる「六十四卦」を通じて宇宙の秩序や人間社会の変化を読み解く書物だ。
西洋の四元素説に対する東洋の五行説もこの易経の中で解説されている。
後の時代で言う陰陽師はこの考え方を基盤としていると考えていいだろう。
この易経も、魔力のある日本では実際に力を持つに至っていた。
目の前で起きているこの土の津波は、その産物だ。
(厩戸皇子はこの易経についても詳しくてな。配下に五行を操れる術者を何人も抱えているんだ)
(あの紙きれを持っている奴らがそれか?)
スサノオが指摘するように、蘇我の軍の先陣には色鮮やかな五色の服を着た者達が居た。
赤青白黒、そして黄色。
今現在力を振るっているのは、その中で黄色の服を着た者達だ。
そして、厩戸皇子がこの易経に詳しいのには、理由がある。
彼が後に制定する冠位十二階には、易経の思想がふんだんに織り込まれているのだ。
前述の五色に加えて、高貴な存在を司る紫を加えた六色の冠の色と、各色の中で大小の二段階。
十二の階梯はその様に振り分けられているのだ。
(五行、つまり木火土金水のそれぞれの要素をああやって操るのが、五行使いだ。体系化されているから、学べば誰でも扱えるようになる)
(あの紙きれは?)
(呪符だな。紙に陰陽の理を書き込んで、五行へ干渉し易くする道具だと思えばいい)
黄色は五行で言う土行を示している。黄色の服を着た者達は、土の扱いに秀でているのだろう。
その意思によって土塁を作り上げ、更にはその土塁そのものを移動させている。
物部氏の側も応戦しているが、距離がある状態では山なりに矢を放っても届かない。
それどころか、土塁の上は物部氏の軍に対して猛烈な向かい風が吹いているらしく、前日脅威だった櫓の上からの狙撃も勢いを失っていた。
(こうも向かい風を吹かせられては、守屋の剛弓でも勢いを失うか)
(こいつは大したものだな!)
(ああ、だがそれも距離を軍をぶつけ合えるようになるだけだろうな。物部氏側にしても、神から力を借りられる者が居る)
事実、他の色の服を着た術師達が炎を呼び出したり大水を呼び出すなどしているが、これらは同様のモノを司る土着の神への祈祷を行う物部氏側の神職達が相殺していた。
古くからの神道も、負けてはいないという事だ。
(超常の力が相殺されている以上、あとは武力だ。物部氏側も、弓では無く直接当たり合う兵を前に出して来た)
(ようやくぶつかり合いか!)
(ああ、だがこれも苦戦するだろうな。蘇我氏側の兵力は多いが、物部氏側も戦力があり装備の質も良い。被害は少なからず出るだろう)
俺の予想を裏付けるように、物部氏側の士気は高い。
生前の歴史に比べて兵力が多い事と、ここまでどちらかと言うと物部氏側が優勢だった事が理由だろう。
(俺の生前の歴史からすると、これでも恐らく……まあ、俺は一人の将、秦河勝として戦うだけだ)
両軍が接敵しようとする中、俺は厩戸皇子の傍に立つ。
「始まりますな、殿下」
「うむ。だが、今日は勝てまい」
「……殿下、その様な。兵が聞けば動揺しますぞ」
やはりこの皇子は聡明だ。既に今日の戦いの動向を見切っているようだ。
俺は側近として苦言を述べるが、皇子は涼しい顔。
「河勝とてそう思っているのだろう? 決定打に欠けるのだ、両軍ともに」
「それは……確かに」
「……やはり、神仏に縋るべきであろうな。相応の誓約もせねばなるまい」
明日迄には、仕上げられるか? そんな皇子の声を聴いた気がした。
この日、両軍は激しくぶつかり合った。
双方に多数の死傷者を出しつつも、お互い軍は崩れることなく、痛み分けに終わったのだ。
同時に両軍は察していた。翌日に全てが決まる、と。
その夜、両軍は眠れぬ夜を過ごすこととなる。
ただ厩戸皇子の陣幕から、何かを削るような音が夜通し響き続けた。
運命の扉を切り開く様に。
そして、夜が明けた。
前日と同じように、両軍がまた戦陣を向け合う。
一つ違うのは、蘇我氏の軍勢の前で一人の年若き皇子が立っている事だ。
厩戸皇子。
彼は、軍勢の前に一つの祭壇を作っていた。
そこに並べられたのは、彫られたばかりの四体の仏像だ。
「殿下、コレは……!?」
「仏法の守護者たる、四天王である。これより、仏の加護を願い、此処に誓願を立てる」
軍を代表するように、厩戸皇子はまだ少年らしい澄みやかな声を天に響かせた。
「四天王よ、我らを守り給え。勝利を得た暁には、必ず仏塔を建て、仏法を広めよう」
その声は、戦場の喧騒の中でも不思議と澄み渡り、兵の心に届いた。
物部の軍に対して恐怖を抱いていた兵たちの瞳に力強い光が戻る。
いや、それどころかうっすらと兵達の身体にも光が宿っていた。
「おお、見よ! 御仏の加護は我らと共にあるぞ!」
目にもわかる奇跡に、蘇我氏の軍勢の気勢が上がる。
一方で、物部氏側には動揺が広がっていた。
蘇我氏の軍にかけられた加護は遠目で見ていても解るのだろう。
櫓の上から、物部守屋が檄を飛ばしているが、兵は一度動揺すると中々に収まらないものだ。
そして、その檄が隙を呼んだ。
一人の舎人が軍の前に立つと、大きく弓を引いたのだ。
(あれは、俺と同じく舎人の……確か、迹見赤檮だったか。手にしているのは、ダンジョン産の弓か?)
俺がそう見立てていると、男はヒョウと一本の矢を放った。
(ああ、開戦の合図か? ……いや待て、あの矢、強い力が宿っている)
蘇我氏の軍全体に広がった光。それと同様の光が、その矢にも強く宿っている。
そう思っていると、矢は思いのほか飛び、空を裂き、ある場所に突き立った。
櫓の上から、下に並ぶ兵達へ檄を飛ばしていた物部守屋、その人へと。
「……は?」
誰かの零した声が、あたりに響く。
その響きが消える前に、櫓の上の守屋は体を揺らし、櫓から落ちて行った。
「……っ! 全軍、突撃せよ!!」
余りの事に両軍言葉を失う中、蘇我氏の軍の実質的な総大将である蘇我馬子が叫んだ。
夢から目覚めたように、一斉に動き出す蘇我氏の軍。
一方の物部氏の軍陣では、動揺が広がっていた。
迫る蘇我氏の軍を前に、統制を欠いた動きしか出来ていない。
「勝った……いや、勝ちを授けられた、か」
祭壇の前でたたずみ、突撃する軍を見送る厩戸皇子のつぶやきが、戦場の風に流され消える。
こうして、丁未の乱は蘇我氏側の勝利と言う形で幕を閉じたのだった。




