米! 米! 米!
その寒さは、ゆっくりと、同時に確実に広まっていった。
(あなた、動物たちの在り様が、少しずつ変わっているわ)
(……ああ、多分、寒冷期が来るのだろう)
この世界でも、生前の世界の過去のように、寒さがやってくる。
寒さの期間は、数十年のことではなかった。
寒い夏。
太陽の活動の停滞期なのか、夏に雪が解け切らない。
すると次第に極地の万年雪の範囲が広がっていくのだ。
それは、大量の水がそこに留められるのに等しい。
結果海面が下がり始め、海だった場所が次々と姿を現していく。
その変化は緩慢なものではあるが、コアに意識を宿す俺達にとってはある意味一瞬の出来事だ。
かつて沈んでいた平野が乾きを取り戻し、潮の匂いが薄れると同時に土の匂いが立ち上った。
植物の群れも動き、沿岸域に群れていた種は内陸へと進出を始める。
ダンジョン機能が示すスペクトルが日毎に変わり、機能が示す地図は少しずつ塗り替えられていった。
(海が引くと、景色が一変するわね)
(そうだな。海面の低下は生態系の再編を呼ぶ。平野部が増えれば、そこに動物も人も移り住む理由が生まれるだろう)
集落の移動は段階的だ。
まずは干潟を利用していた小規模の沿岸集落が海を追うように場を移し、漁村を成立させていく。
ついで、内陸の集落が平地へと進出し、採集から一歩進んだ初期農業を開始、恒常的な耕作地が作られていった。
だが、面白いことにダンジョン近傍でダンジョンの産物を主たる糧にしている集落は、海の回帰や内陸化の波にも動じず規模を維持している。
安定した『モンスターの討伐とその素材の回収』という生産性は、狩猟採集と初期農耕の間で強力な中間領域を形成していた。
(ダンジョンから勝手に出てくるモンスターの存在と、そこから得られる素材は、古代の人々にとっては資源の安定供給そのものだ)
それだけではない。海面が下がり、浅海のコアが露出し再稼働し始めると、ダンジョンネットワークは再び範囲を広げた。
海底に眠っていた幾つかのコアが地脈と接触し、魔力の供給源が増えたことで、ダンジョンの生成能力とドロップの多様性が一気に上がる。
一方その頃には、海路が近づいたことで、朝鮮半島や南方諸島からの人行き来が始まり、交易のルートが開かれていった。
(交流が始まると文化の伝播が加速する。技術や素材、言葉が混ざり合うだろうな)
(それって、どんな感じに混ざるのかしら?)
(想像以上に早く混ざる。特に金属は影響が大きい)
青銅器の伝来は、その加速を決定的にした。
恐らく、既に大陸では古代王朝が誕生している頃なのだろう。
(殷王朝……いや、その前に存在したという夏王朝か? そろそろ、有史に入る訳だ)
そんな感慨を抱きながら、おれは大陸から流れて来た人々が持つ道具に注目する。
青銅製の刃や工具、装飾品は、当初は異物として扱われたが、性能の差は説得力を持って人々の判断を変えた。
俺はある時点で決断する。
これまで封印していたダンジョンのドロップ品――特に武具と道具の「開放」だ。
一応俺は、この世界の担当仏から、この世界の人々の発展への支援と試練も役目として任されている。
その一環としての獲物モンスターの供給だった。
今までであれば、動物モンスターの素材を供給していれば、人々はそれを活用していて、これまではそれで十分だったと言える。
何より、手に余る道具を渡し過ぎても害になるだろうと判断したのだ。
だが、このように金属器が流通し始めるとなると、状況はまた変わる。
魔力との親和性が高いダンジョン素材は、外界の製作者が触れるとその魔力的特性を部分的に継承するのだ。
つまり、ダンジョン外の器具よりも明らかに高性能な農具や刃物が生まれ、発展を後押し出来る。
(……そうか。これを出せば、稲作の効率は飛躍的に上がるかもしれない)
そう、稲作だ。
米だ。
米が遂に日本に伝来し始めたのだ。
(うおおおおお! 米だぞハルカ! 米! 米! ひゃっほう!!!)
(アナタ!? ちょっ!? 正気になってアナタ!?)
俺は機能で観測したその交易品に、思わず適当なアバターを生成して躍り出してしまった。
暫く踊り倒し、そのアバターを使い潰してしまったが、後悔はしていない。
ハルカも、俺の奇行に当初戸惑ったものの、俺の篤いプレゼン(およそ3日はぶっ通しで語り続けたように思う……いや、もっとか?)に、最後は期待を膨らませるようになった。
彼女も、食いしん坊だからな。
そこで、俺はダンジョンの設定を調整し、モンスターが所持する『アイテム』という形で、素材と加工品を供給させた。
ドロップには『魔力を帯びた青銅武器』『魔力を帯びた装飾具』『先端に魔力を帯びた青銅の先端を持つ鍬や鋤』『魔性の縄』などが混ざる。
何れも魔石を埋め込むことで、魔力の供給と、周囲の魔力の吸収を行い、永くその性能を維持できる構造だ。
これらは、大陸産の物が伝わった地域からドロップを開放していく。
「アナタ、本当に出しちゃうの?」
「もちろん出す。青銅が来た今、隠しておく理由が薄い。むしろ後手に回ると急速な技術競争で人々が困る」
ドロップから生まれた農機具は、予想以上に稲作を加速した。
鋤や踏み付け用の道具、稲刈り用の短い鎌が出回ると、平地での耕作が効率化され、集落は固定的な水田をどんどん広げていく。
水を引くための溝や堤も整備されるようになり、稲作の初期段階は一気に安定期へと入る。
(魔力を帯びた農具は、掘削の手間を減らすだけでなく、土壌の保水性や種子の発芽率にも良い影響を与える。まあ、ダンジョンの利得って奴だな)
稲作が広がるにつれ、人の体つきや生活様式も変化していった。
縄文的な厚手の体躯から、より農耕に適した体格、顔立ちの変化(頬が少し細くなる、顎がシャープになる)――現代の考古学で『弥生人』と呼ばれる特徴が現われ始める。
言語の共有、服飾の変化、居住空間の整備。
全ては稲作の安定に伴って進行する。
(流石は、リアルチート作物の稲だな。水耕による連作障害の回避に、収穫量。水を豊富に使える地域の優位性だ)
俺の目論見通り、人々はそれらを活用し、一気に稲作を広めていった。
同時にドロップ品やそれを利用した道具は、取引品として朝鮮半島や南方のルートを通じ、逆に広まっていったようだ。
ただ、そこでひと悶着あったらしい。
(……魔力が無い地域では、やはり魔力切れが起きるみたいだな)
(コアは、外に無いものねえ)
そう、日本から外に出された魔力が絡む品々は、魔石の魔力が尽きるとその力を失ったのだ。
現状地上にダンジョンコアがあり、魔力が潤沢なのは日本だけ。
コレは、人々にも当てはまる。
日本に住む人々は、身体に取り込んだ魔力の補正により、超人的な力や魔法さえも扱えるが、魔力の無い地域に行くとその力を失ってしまうのだ。
その上、魔力がある環境に慣れ過ぎているせいで、魔力の無い地域では大きく体調を崩す事さえあった。
つまり日本の人々は、魔力に特化した人種へと変貌してしまったことになる。
だが、今それは気にする話でも無いだろう。
やはり米だ。米なのだ。
(これで、アナタの好きなお米が広まるのね!)
(そうだ。俺はずっと、米の旨さを噛み締める日を楽しみにしていた!)
(私も一口食べたいわ。どんな味なのかしら)
ハルカの一言は、簡単に済ませられない切望だった。
(……まだ古代米の域で品種改良前だが……そうだな。そんなに楽しみなら、久々に、だな)
何より、俺が米を食いたい。
(よし、新しいアバターを作ろう。実際にその文化で暮らして、米を食べてみるんだ)
(うふふ、楽しみ! ……あのね、今度は意識を移す前に、いろいろ準備した方が良いと思うの)
(……そうだな)
以前アバターに宿った際、二人でケダモノに成り下がった事を思いだす。
(……あ~、とりあえずは、先に寝床とかも用意しておくか。あと水浴びの用意も)
(そ、そうね! それがいいと思うわ!)
どの道、俺がハルカのアバター作成に力を入れないはずも無く、そうなれば宿った瞬間理性は吹き飛ぶ訳で。
予想通り、俺達はその後、久々に味わう肉体の感覚に流され、お互いに溺れ合う様な濃密な時間を過ごすことになったのだった。




