妻と学校
私の妻となったのは、母に続き分家の家の娘だった。
祖父が本家に入り婿として入ってこの家を継いだのだが、すぐにその本家の妻は亡くなり、分家の娘が私の祖母だ。
祖父は元がこの地の者ではなく、実家から引き連れてきた者もほとんどいなかったので、この家を引き継いだ時に強権を発動した以降は、この地に馴染むことを優先した。
その結果として父には自分の妻となった以外の分家の娘を妻にさせ、私も同様にと父は考えたようだ。
ま、なんて言うのか、私が生まれた時前後の国の変化が激しいので、まずは足元を固めておくのが最善と考えているようだ。
その考えは解らなくもない。
私の妻となった女は平凡な女だった。
分家の娘ということだから、何かしらの場所では今までにも会ったことはあるはずなのだが、全く記憶に残っていない。
いや確かに正月などの集まりでは、年頃の娘が何人か集まっていたので、たぶんその中の一人だったのではあろう。
私自身は異性に興味が向くような年頃になった時には、上級の学校に通っていたので、この家を離れている時も多く、また家の近辺では立場上異性と何かする、噂になるという訳にはいかないと理解していたので、家に近い女性たちは全く眼中になかったということもある。
まあ、上級の学校で知り合った悪友たちも事情は似たり寄ったりなので、皆、地元では品行方正、学校近辺ではそれなりという訳だ。
学校近辺にはそれを見越した場所もあるので、それで困ることもない。
そんな訳で私はほとんど初めて妻となる女を見知った訳だが、話をしてみての感想が、平凡な女だなというものだった。
どこという特徴もない、そこら辺にいる女という感じだ。
分家の娘ということで、あまり農作業に出ることが無いのか、多少色白で小綺麗にしているだけのことだ。
そんな諸々の理由から親に決められた相手と、私はすぐに祝言を上げることとなった。
自分のことなのだけど、どこか他人のことの様な気がする、妙な気分の宴だった。
そうして課せられた条件を満たした私は、すぐに上京して暮らす場を探しに行くことにした。
私は気が急いていた。 年齢からして、もう少し遅れている自覚があったからだ。
「私は、お前にも婚姻前から伝えてたように、すぐにでも上京し、もっと上の学問を修めなければならない。
その為にとりあえず上京して、これから暮らす場所を見繕ってくることにする。
祝言を挙げて間もないのに済まないが、すぐに戻って来る」
「はい、ご事情はもちろん承知しています。
お気をつけて行ってらっしゃいまし」
何となく違和感を感じるのだが、そんなものか。
「まあ、大急ぎで見て周り、二人で暮らすのに困らない程度の小さな家を見つけて来る。 待っててくれ」
「ああ、身の回りの世話をする者を連れて行かれるのですね」
「いや、私とお前と二人で暮らすのにという意味だが」
「あの旦那様、私は旦那様の上京に付いては行きませんよ。
私は本家に嫁に入ったのです。 本家の嫁が本家を留守にする訳が無いじゃありませんか。
旦那様は安心して上京し、学問を修めてくださいませ」
どうやら私の考えていた夫婦というモノと、妻となった者の考えている夫婦というモノは全く別物だったらしい。
とは言っても、私にはそんなことにかまけている時間の余裕はなかった。
妻となった者のことなど、私は即座に頭から追い出して、江戸から改称されて今の都となっている東京に向かった。
自分一人が暮らすなら、住む場所を見つけることも難しくはないだろう。 家での取引で面識のある商人を何人か当たれば、都合の良い場所に部屋の一つも貸してくれる人を紹介してもらえるだろう。
暮らす部屋はすぐに見つかった。
商人経由ではなく、元通っていた学校の関連から、住む部屋が見つかった。
私自身は今生きている時代と社会が当たり前だから、新しい世という実感は全くないのだが、それでも時々、旧い時代の名残りというモノを感じることは度々ある。
今回もそんなことだ。
新しい世になって、広く万人に開かれた学校制度というのが出来た訳だが、初等教育の間はともかく、少し上の教育の場には、旧い時代の名残りがまだある。
私が東京に見つけた部屋はそのお陰だ。
私がそれまで通っていた上級学校は、毎年成績優秀者には褒美が出るのだが、その褒美は昔のその学校がある土地を治めていた殿様の家が出している。
そしてまた、その学校で優秀な成績を上げて、それ以上の学校、具体的には東京にある大学や軍関係の学校などに入学する者の援助もしている。
その一環として、まずは元の江戸下屋敷の一部にそういった者を住まわせていた。
少し後に下屋敷が無くなることになったが、場所を移してそれは継続されている。
その中の一室が丁度空くことになり、私がそこに入れたのだ。
「お前の家の状況なら、こんなむさ苦しい所に住まなくても、済むだろうに」
「妻が一緒なら、小さな家でも借りましたけど、私一人なら十分ですよ」
そこにいた先輩は、ほぼ同郷故にこちらの状況は筒抜けだから、私はそんな風に言った。
まあ本心でもあるのだけど、第一の理由は、住む場所を探すことに時間を使いたくなかったからだ。
それにまあとりあえず見知った人が近くにいるのは心強い。 きっと頼まなくても、有益な場も遊び場も教えてくれるだろう。
まだ右も左も良く分からない身には、それらはとても嬉しいし頼りになる。
さて、上京して来たは良いが、自分の進路はまだ定まっている訳ではない。 大急ぎで入学する学校を選び、その入試を突破しなければならない。
私の受けてきた教育は、まだ制度として固まっていなくて、色々と改革されている最中の影響を諸に受けて、決して優れたものとは言えない。
初等教育は、教育の必要性を重視していた祖父・父が資金的には援助したこともあり、近隣より恵まれた設備・教師によって受けられたような気がする。
ただし、その学校は対象とする地域・年齢の子供なら誰でも通うことが出来るということが義務付けられているため、教えていることの水準は低かった。
まあそれはそうだろう、普通の農民の子供の教育水準が高い訳が無い。
それでも我が家で治める地は、祖父・父、いやそれ以前から教育は熱心な土地柄で、農民とはいえ読み書き計算が全く出来ないという者は少ないので、その子弟である学校に通ってくる者たちは、教育水準が高い方だったらしい。
かといって私がそれに満足出来たかというと話は別だ。
私にとっては父が奉公人に対して行う教育の方が、まだ学校で教わることよりも高度な気がしたくらいだ。
ただ、少し恵まれていたのは、教師はすぐに学校での教育に私が物足りなさを感じているのに気付き、私の向学心を失わせないように個々に対応してくれたり、自らが持つ書を私に貸し与えてくれたりしたことだろう。
今思うと、私はその貸していただいた書物を書き写すことで、大きな智を得ていたと思う。
初等教育の6年を終えて、中等教育に進む時に、私はその教育を受ける場がなかなか得られなかった。
最近になって、自分が受けてきた学校教育というものが、明治5年の学制公布に始まって、12年の教育令公布、13年の教育令改正という、上の混乱が影響したモノだったということが解った。
私が中等教育に進む時が丁度その混乱期に被ってしまい、動きが取れなかったのだろう。
私の家のある場所が、中央から遠く離れた場所ならば、それらの混乱の影響も緩やかなモノとなっていただろう。
逆にもっと中央に近ければ、その混乱の隙間を縫って、とにかく有利にことを運ぼうとする何らかの動きに乗ることも出来たろう。
しかし、場所的に直接中央に出て対処出来るほど近くはなく、でも即座に情報は伝わるのでそれを無視したり、適当にあしらうことも出来ない距離だったが為に、動きが混乱してしまったのだろう。
そんな考察が出来るようになったといったって、中等教育を受ける時期に遅れを生じてしまったのは変わらない。
出世を考えるのなら、大学に入学したいと思ったが、その前段階である予備門に通うには、私はもう薹が立っている。
もちろん私の年齢でも大学入試を目指して予備門に通っている者が沢山いることは知っている。
でも、これから予備門に通い、大学入試合格を目指して、例え上手く進んでも、それに掛かる年数は増えてしまう。
妻も持った私が、それで良いのだろうかという気もしてしまう。
もう一つの道として、軍人になるという道もある。
戦をする者が今は武士に限られてはいない。
子供であった私でさえ衝撃的であった西南の役では、元武士だけでなく、官軍として戦った者には庶民も多かったと聞く。
戦はもう武士だけの仕事では無くなったのだ。
それと共にその軍の中で出世する道も、広く開かれた。 それが軍の学校だ。
我が家は、広い土地を持ち、多くの小作を使い、自分の土地以外にもその周りの地に大きく影響を与えているとはいえ、単なる百姓だ。
しかし、祖父が武家の家柄だっただけでなく、我が家の先祖を辿れば由緒正しき武家の家柄だ。
武人として出世を望むのも本望ではないだろうか、と考えもした。
それでも今の世の軍人というのは、やはり元武士とかその子弟が多い。
その中に入って出世を競うのは、気後れするというか気が重い。
それに自分でも解っていることだが、本家の子として甘やかされて重労働の経験もないし、父はしていたという刀槍の修行もしていない。 つまり体力に自信がない。
で結局私が選んだのは、上京した年に新たに設立された学校、法律学校だ。
しかしそれは何もそれ以外の選択肢がなかったからではない。 興味があった、また将来性があるのではないかと考えたからだ。
私の家では父も祖父も、情報を得ることをとても重視している。
「お前は生まれて物心ついた時から、この新しい世に生きているから、実感としては感じることができないかも知れないが、お前が生まれる前から大きく世の中は動いた。 知ってのとおり、世の政が将軍様から、天子様が直接関与される形に変わったのだ。
世の中がどう変わろうと関係ないなんて思うほど、もうお前も浅はかではないだろう。
現にお前の祖父の実家は今ではもう元の場にはない。
それに戦にだって巻き込まれないとも限らなかった。
谷一つ隔てた向こうの街道を幕府の軍が移動して行き、そして敗れて散り散りに戻って来たことは、お前も話に聞いたことがあるだろう。
この辺りからもその軍に参加して戦死した者も何人も出ていることも知っているだろう。
それに歴史を紐解けば、この辺りも戦に巻き込まれて、戦で討ち取られた者の首塚など、往時を忍ぶものはいくつもある。
一度に限る訳ではなく、何度もこの辺りでさえ、世の中の動きに巻き込まれているということだ。
直前の動きに、この辺りが直接に巻き込まれなかったことは、本当に紙一重の偶然だったのだ。
巻き込まれないようにする為、または巻き込まれた時にそれを好機に出来るか、またはその渦に呑まれ、酷ければ消えていくことになってしまうかは、自分たちの判断による。
その判断を下す為には、より多くのことを知らねばならない。 何も知らなければ、判断を下すどころではないのは自明のことだろう」
以前に父は、そんな話をしたことがある。
そして我が家は客人を良く迎える家だ。
客人を迎えることが出来るような家が、近くには我が家しかないからだと思っていたが、そうではなく、積極的に客人を招き入れていたのだろう。
そんな家だから、今の政治の動きなども、しっかりと知っている。
まだ子供に毛の生えた程度の時に起こった西南の役では、その戦いがどうなるのかとも思ったのだが、それよりも何故、維新の立役者の西郷隆盛が、今の政府から攻められたのかが最初理解出来なかった。
その後、明治6年の政変から続く、政治路線の対立だったことを知った。
またそれらを踏まえ、自由民権運動が起こり、明治14年の国会開設の詔があり、翌歳の板垣退助遭難事件には衝撃を受けた。
つい最近のこととしては昨年明治17年の晩秋に秩父事件が起こっている。
これなども自由民権運動の流れの中に入るのかも知れないが、いや、そのように自分たちでは思っていたみたいだが、農民の反乱ということで、我が身に置き換えて考えざる得ないことではあった。
この地でも、養蚕を広く進めようとしていたからである。
ちょっと話が逸れてしまった。
とにかくこれらのこと全てが政、つまり法令が関わる訳で、どのような法が根本になければならないかが、今、大きく議論されている。
大本は5箇条からなる御誓文であろうが、それを敷衍してどう表現するか、いやそれ以前にどう理解して行くかが問題となる。
また日本の国だけでなく、諸外国がどの様に法を施行しているかも問題となるだろうか。
そう今は法、法律というモノがとても問題となっている時勢なのだ。
それだからこそ新らしく法律学校という物が設立されたのだろう。 その流れに乗らない手はないと私は考えたのだ。
そうは言っても、入学出来なければ話にならない。
私の学問で一番問題になるのは語学である。 私は外国語がほとんど解らない。
今までは極簡単な入門書のような本を入手することが出来ただけで、外国語に関しては師事できる人もなく、勉強が出来る環境になかったのだ。
東京に出てきて、学校の試験を受けるという今になって、外国語の習得がとても重要であることに気がつくという情けない状況だったのだ。
私は外国語の勉強に没頭した。
伝え聞くに、法律の勉強には英語が良いということなので、英語を勉強した。
アメリカ国のペリーが幕末に来航したからだろうか、他の言語よりは英語を教える人が探しやすかったのも理由だ。
寝食を忘れ勉強し、何とか法律学校で募集した生徒の枠に滑り込むことが出来た。
そして私は気がつけば、妻を残したままにしている我が家に、半年以上も戻っていなかった。
その半年以上という時さえ忘れるほど、私は語学の勉強に集中していたのだ。
家に連絡は入れてはいたのだが、久しぶりに戻ると、父は私の法律学校入学を誉めてくれた。
外国語のことは解らない父ではあるが、私が外国語の勉強に苦労しつつも、それを努力で克服したことを認めてくれたのだ。
そして妻はというと、私は妻となった女を見分けることさえ出来なかった。
それほど容姿が前とは異なっていたのだ。
別れる前に見た妻は、分家の娘だからか他の同年代の娘と比べれは色白ではあったが、それでも外の仕事もしていたからだろう、顔色は少し浅黒かった。
それが今では白い顔をしている。
それ以上に違っていたのが体付きだ。
前に見た時は、ほっそりとした体付きをしていたのに、今では豚のように太っている。
完全に白豚だ。
私が豚というモノを知っていたのは、明治の世になり広く肉食が堂々とされるようになり、我が家では食肉として牛と共にその飼育が特産物にすることが出来ないかと、試しに買い入れたことがあるからだ。
私の母も、そして祖母も、諸々の都合を考えて、分家の娘となっている。
その母や祖母にしても、外の仕事に今でも出る。
本家の当主が開墾その他の仕事の先頭に立たずにどうする、というのが我が家の家風だから、その妻である母や祖母も、同じように女衆の先頭に立って仕事をして当然としていたのだ。
「本家の人間は、男衆は昔のお武家様のように先頭に立つ必要があるでしょうけど、女衆まで下の者と同様に外仕事に出ては、体面に関わると私は考えます。
ほら、お姫様は野良仕事などしないでしょ」
「お前はお姫様ではないよ」
「お祖父様は殿様の血を引く方なのですから、その血と元の名家の血を引く者の妻が、それに準じなければ格式が下がります」
要は働きたくないのであろう。
父も母もこの嫁にはほとほと手を焼いたようだ。
我が家の仕事は忙しい、こんな嫁に長々と関わってはいられないと二人とも考えたようで、好きにしろと見放したようだ。
私は妻のことが大嫌いになった。
私は久しぶりに家へと行ったが、妻のことは抱いてやりもせずに、そのまま放置して東京の自分の部屋へと戻った。 白豚を抱く気にはならない。




