面会という苦行
商売を年の瀬が迫る中始めて、その厳しい現実に向き合わなばならないことが分かって、そのすぐ翌年の春、長男邦仁は肢体不自由児養護施設に入所した。
入所した理由は、現実的に商売を始めたばかりで、その切り盛りがとても大変で、障害のある長男の介護に支障をきたす事態であったことが一番の理由だったが、それだけでは母親の登貴は長男の施設入所を認めなかっただろう。 もう一つの理由として、長男邦仁がこの年に12歳となる事だった。
12歳ということは、小学校を卒業する歳ということになるのだが、邦仁はその障害により、就学を免除されていて、学校に通ったこともないどころか、友人と言える存在がいたこともなかった。 それを父親である省は、教師でもあったこともあり、とても問題視していたのだ。
その理由もあって、母親の登貴は長男邦仁の施設への入所を嫌々ながら認めた。
施設は小児マヒの重度の患者である子供だけでなく、他の病気の肢体不自由児もいて、邦仁にとっては初の外の世界で、大きな刺激になったのは確かだろう。
養護施設ということだが、各人に対するリハビリの訓練、それに園内の教室に教師が来ての教育も行われていた。
そこでは邦仁は優等生だった。 学校に通ったことがないとはいえ、両親は二人とも小学校の教師だった訳だし、家では塾も開かれていたので、少なくとも小学校レベルの知識はすでに得ていたからであった。
邦仁にとっては、一部の事柄では自分が優秀と評価される存在であるということは、とても驚くことだった。
私は全く覚えていないが、施設でのリハビリの訓練はかなり過酷で、訓練があると毎回泣きながら続けられるような状態だったらしい。
邦仁のリハビリは、医師からも指示されていて、家庭では母親の登貴がやっていたのだが、とても甘くて、痛いとか苦しいとか辛いとか、そういう言葉を邦仁が言うと止めてしまう程度の事だったようだ。 それが施設では、そのくらいでは許されず続けられて、根性の全くない邦仁は毎回泣くということになっていたらしい。
邦仁自身としては、そんな訓練の地獄は耐えられないと思っていたのだが、ある時少し考えが変わった。
邦仁は同い年の親しい友人が施設で出来たのだが、その友人は小児マヒではなくて、手足の無いサリドマイド児だった。 正確には手足が全く無い訳ではなく、ほとんど実際の役には立たない短く小さい手足の残骸というか、手足になれなかった名残のような物があるだけだった。
その友人に邦仁は言われたのだ。
「お前は、大きさはちゃんとした手足があるじゃないか。 それにその手足も全然動かない訳じゃない。 お前なら訓練を続ければ、もしかしたら自分で移動することも出来るようになるかも知れない。
俺なんて、どんなに頑張って動かしても、この手足じゃベッドの上で寝返りさえ出来ない。 ジタバタするのがやっとさ。
俺がお前だったら、どんなに痛くったて、苦しくったって、可能性があるのだから、訓練を頑張るのに」
実際には彼は、その短い腕の先に2本だけ指があり、その指は自分の顔にも届かないのだが、その指を器用に使ってスプーンで自分で食事をしたり、棒で物を引き寄せたりと、自分の前に置かれたテーブルの上でのことならかなりの事が出来て、形だけはちゃんとした手足があるけど、そういったことの一切が出来ない邦仁にとっては羨望する存在だったのだが、逆に羨ましがられて驚いたのだ。
それから邦仁はリハビリの訓練を、我慢したり、頑張るようになった。 泣いてしまうのは止められなかったけど。
その甲斐あってか、邦仁は歩行器で身体を支えれば、いくらか自分で歩いて移動できるまでになったのだった。
長男の邦仁が施設に入所したお陰で、その弟・妹の生活に変化が生まれたかというと、そんなことはなかった。 今まで障害児である長男にばかり向けられていた関心が、下の2人にも向けられたかというと、そんなことはなく、ほとんど変わることがなかったのだ。
始めたばかりの商売が全く上手くいかず、生活の維持にカツカツで、内職などの副業に追われていたこともあるが、それ以上の理由は母親である登貴が、そんなことも全て上の空で、頭の中は長男の心配だけに占められてしまっていたことにある。
父親である省は、新たな仕事である商売を覚えることと、それを軌道に乗せること、そして何とか生活を維持するのに必死だったので、残っている子供に回す関心とか気配りとか、そういった心の余裕が全くなかった。 良い悪いは別として、大人になった今、私はそれが理解出来ない訳ではない。
問題は母親の登貴で、表面上は内職に励んで家計を支えている風ではあったけど、何事も表面だけで、全く気持ちが入っていなかった。 それは下の子2人に対しても同じだった。
それなら同居していた省の母、つまり子たちにとっては祖母にあたるあいが、母親の代わりに下の子どもたちを最優先して親身に接するかというと、それはそれで登貴は許さなかった。
あいは、次男のことは、長男が障害児であった為、家の跡取りとして大事にするという、古めかしい価値観を持っていたこともあるが、次男を優先してその下の末娘を後にする傾向があったのも一因ではあっただろう。 だがそれ以上に、登貴と姑のあいは、互いの関係が上手くいってなかったのだ。 それで、あいが下の子2人に少しでも深く関わろうとすると、即座にその場に、自分では放置で自ら子供に関わろうとしなかったのに、干渉してそれを止めたのだ。
結局のところ下の子2人は、家の中の身近な場所に両親2人と祖母という3人の大人がいたに関わらず、ほとんど放置されて、過ごすことになった。 もう少し具体的に言えば、5歳の男の子が、今度は障害のある兄ではなく、生まれた月の関係でほぼ2歳半の妹の相手をして過ごすという生活になったということだ。
その5歳の男の子であった私にとって、この時の本当の苦難は日々の生活ではなかった。
この時代の質屋という商売は、定休日が7のつく月に3日しかな無かったのだが、長男邦仁が施設に入所すると、当初はその休日の全てが、その施設に祖母を除いた家族全員で行っての面会に使われることになったのだ。
その施設までは、家から駅までの歩行時間、実際の電車での移動時間、乗り換えに掛かる時間、施設最寄り駅から施設までの歩行時間を加えるとその当時は早くて1時間半以上、乗り換えなどの運が悪ければ2時間くらいを要する移動距離だった。 大人ならともかく、まだ幼児の下の2人の子にとっては、かなりハードな移動距離だった。
入所してすぐの時はまだ良かった。 朝、施設に向かう時には、長男邦仁が欲した物を買って持っていく程度で、然程荷物がある訳でもない。 帰りには、その荷物も無くなるので、父親である省も母親である登貴も簡単な手荷物を持つ程度で、幼児2人を帰りの旅程で構う余裕もあったからだ。
しかし、入所して一月もしないで、その面会行脚は次男である私にとっては、地獄の時間へと変わった。
その理由は、兄邦仁の10日間の洗濯物を、毎回持ち帰ったり、持って行ったりするようになったからだった。
もちろん施設では、入所者の洗濯物を施設内で洗濯していた。 しかし、当時の大型洗濯機の性能の問題や、それに関わる人員の手間の掛け方などの問題もあり、汚れの落ち方や、衣類の傷みの激しさなど、洗い終わった洗濯物の質がかなり問題だった。 その質の低さに、母親の登貴が耐えられず、「こんな状態の衣類を着せられるのは可哀想だ」という過保護を発動させてしまい、面会毎に持ち帰り、まだ持ってくるという選択をしてしまったのだ。
人1人、ましてや何かと汚してしまうことも多い障害者の、10日分の洗濯物となると、かなりの量になってしまう。 具体的には、かなり大きな手荷物3つという感じだった。 正直なところ、車ではなく電車での移動となると、それ以上は運べなかっただろう。
毎回の面会において、それだけの荷物を行き帰りに持ち運ばねばならなくなったのだ。 そして、毎回の面会を休む訳にはいかなくもなったのだった。
そんなことをしている入所者の家族は、他には誰もいない。
次男である私にとっては、これが本当の地獄の始まりだった。
朝、行きの時はまだ良い。 自分も元気だし、妹の手を引いて、両親と共に歩いて行くのに問題はない。
昼近くに施設最寄りの駅まで着くと、面会に都合の良い時間に合わすためと、自分たちの食事のために、駅の近くのデパートの食堂に寄ったりした。 乗り継ぎが上手くいったり食堂が空いていて時間に余裕がたまにあると、デパートの屋上の遊園地で少し遊ぶこともあったりもした。
その後、兄のいる施設に面会に行き、時間の許す限りそこで時を過ごすのだが、幼児であった私や妹には、そこに何らかの感慨がある訳が無い。 なんとなく静かに過ごさねばならない感じがして、その時間が退屈で長く感じたことしか覚えていない。
ただ一つ、前述の兄の友人が、手足がないのに器用にプラモデルを口も使って作っていたことに、子供心にとても驚いたことだけは鮮明に覚えている。
問題は、帰りだった。
母親の登貴は、面会時間が許す限りギリギリまで施設で過ごそうとした。 その気持ちが今理解できない訳でもない。
しかし、その結果として、帰る時間が遅くなってしまう。
そうなると、2歳半の妹は当然だが帰り道は、体力も尽きて寝てしまう。 それまで兄の世話や、変な過保護のために、ほとんど外にも出して貰えなかった私は、他の同じくらいの歳の子と比べて、体力のないひ弱な男の子だったから、その時間にはもう妹と同じく体力が尽きてフラフラで座り込みたいような状況だった。
だが、両親の片方は寝てしまった妹を片手で抱くか負ぶうかして、もう一方の手には荷物を持っている。 もう片方の親は両手に大きな荷物を持っている。
私はどんなに辛くとも、ヘタる訳にはいかなかった。 手を引いてさえもらえる状況ではなかったので、両親どちらかの服を掴んで、なんとか帰りの路をやり過ごし、家にやっと辿り着くという状況だった。
気候の良い季節や、夏場はそれでもまだ良かった。 寒くなり、厚着をするようになると、帰りの電車の中で座る余裕がないと、私は完全に荷物と人の中に埋もれてしまい、窒息しそうな状態で、電車に乗っている時間を過ごさねばならなかった。
ある時、私は風邪を引いていたのか体調が悪く、帰りの電車の中で半分気を失っているような状態になってしまった。 目を開けているのに、視界が暗くなってあまり見えないような感じになっていたのを今でも覚えている。
その時、座席に座っている人が私に気がついて、荷物と人に嵌まり込んでいるような私を引っ張り出して、席に座らせてくれて、私の両親を怒った。
「こんな小さい子供が、気を失いそうになる状況にしておくなんて、親としてどうなんだ!!」
私の両親は、この時、私が気を失いそうになっていたことにも気づいてさえいなかったのだ。 指摘されて驚いた顔をしていた。
私が朝から少し調子が悪かったことには気づいていたかも知れないが、私も幼心に親に今日は調子が悪いところを見せてはいけないと気をつけていた。 私が調子が悪いところを見せても、困らせるだけで何も変えようがないことを私は理解していたからだ。
それで両親はいつものように、私を意識から外してしまっていたのだろう。
祖母も同居していたのに、どうしてと思うかも知れない。
だが、まず祖母は兄の面会には行かなかった。 当時の祖母の年齢を考えると、今ではあり得ないと思うのだが、もう足腰が弱っていてあまり出歩くことがなかった。 それでも行こうと思えば行けたはずで、面会に行きたいという気持ちが薄かったのかも知れない。
それでも孫1人を一日預かる程度のことは出来たはずで、まして私も妹も境遇もあり極端に手の掛からない子どもであったので尚更だ。
でも祖母は孫である私と妹を、自分だけの責任になる形で世話をすることは決して無かった。 長男が障害児であるのに、その弟妹に、もし自分が責任を負わねばならない形で何かのことがあったら困る、という意識が非常に強かったのである。 それを考えねばならない程、次男の私が弱々しい虚弱児だったこともあるかも知れない。
私は障害児である兄と比べれば、はるかに手の掛からない子どもではあったけど、比較対象を変えれば、とても弱々しい子どもであったから。
そしてもう一つ、母親の登貴は、下の子2人がどれほど大変な思いをしているかなんて、全く意識に上ることなどなく、10日に一度兄の所に家族全員が行くことが何よりも重要だと考えていたのだ。
長男邦仁が施設に入所して、ほぼ一年が過ぎて、施設の教室を通して、小学校の修了証書を貰うと、邦仁は施設を退所して家に戻った。
そんなことを理由に退所する者など、他にはいなかった。 それはそうだ義務教育はまだ3年続くのだから、小学校の終了証書でというのは理屈にもならない。
実際問題としては、家族が10日毎に全員面会に行くということは、1年してみて無理があることが骨身に沁みて分かった。 また、次男は6歳となるので保育園に入園することになるので、曜日に関係ない10日毎に休ませるのはどうかという問題もあった。
そしてそれ以上に、母親の登貴が、長男と離れて暮らすことが耐えられなかったのである。
母親の登貴としては、障害のある長男邦仁の施設での生活は、衣・食・住の全てにおいて家に居るよりも質が低く、可哀想で置いておけない、ということだったらしい。 その意見の圧力に、父親の省が負けてしまったのだ。
でも、家に戻ったことが良かったことだったかは、大きな疑問だと弟である私は思う。
この退所によって、兄邦仁の人間関係は、これからまたしばらくの間、ほぼ家族だけに限られてしまうことになるし、施設に居れば受けられただろう教育も受けられなくなった。
人間関係の問題と共に私が残念に思うのは、せっかく施設でのリハビリによって、歩行器を使えば自分でなんとか移動することが出来るようになったのに、家に戻ってきてしまっては、その歩行器を家に運んでもらっても、すぐに使えなくなり、自分で移動するということが出来なくなってしまったことだ。
当然のことだ。 普通の家に歩行器を使って移動できるような空間がある訳がないからだ。
母親の登貴は、自分の気持ちのゴリ押し、もしかすると兄自身の楽な生活に流れる甘えもあったかも知れないけど、それによって兄の可能性を大きく潰してしまったことを理解していなかったと思う。
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余談
この頃、家の敷地を接する隣家には、米軍の下士官の家もあった。 当時、米軍の駐留軍の中で、士官は基地の外に住居を持つことも出来たのだ。 流石に将校はその身の安全確保のために、基地内に住居を持つことになっていたようで、基地の外に家を持つのは下士官だった。
近所にアメリカ人が住んでいるといっても、隣人の日本人でその一家と交流を持つ者は珍しかった。 理由は簡単で、今よりもずっと言葉の壁が厚かったからだ。 戦争当時、外国語の、時に英語の学習が学校教育から完全に排除されてしまっていたため、駐留するアメリカの軍人と少しでも会話出来る人がとても限られていたのだ。
省は、医学校を受験しようとしていたくらいだから、それなりの学力を持っていたはずだが、教育を受ける年代が丁度その英語排除の時期に重なってしまっていた為、父親や兄2人のように英語に堪能という訳ではなかった。 それでも特に下の兄は、欧米人の捕虜と普通に会話出来るので、戦中にはダム建設の作業員として派遣されたその捕虜の扱いを任されていたほどだったこともあり、片言程度の会話はすることが出来たし、難しければ紙に書いて貰えば辞書を片手に理解することが出来た。 基地の外に住居を持ち、日本人を隣人とするアメリカ士官たちには、そういう人材は貴重な存在であったのか、省はそういう駐留軍下士官とも交友を持つようになった。
その影響で、次男である私は時々、父である省と共に隣家のアメリカ士官の家を訪れるようになり、その家にいた子供と遊ぶようになった。 私が生涯で初めて持った友達は、金髪碧眼の男の子だったのだ。
今考えると、ちょっと複雑な理由があったのだろうなとすぐに解るのだが、その家の母親は日本人で、父親はアメリカ軍士官だったけど、子供ほど綺麗な金髪と青い眼ではなかった気がする。
私とその男の子は、その幼い年齢だから、髪の色や目の色、それに肌の色の違いなんて全く意識しないで、普通に遊んだ。 言葉も日本語と英語と入り混じっていた気がするが、それも意識していなかった。
なんでそんなことが判るかというと、私はその母親と話す時と、父親と話す時とでは言葉を変えていた記憶が僅かにあるのである。 幼い子供が話すことだから、まったく他愛のない事でしか無かったのだろうけど、そんな記憶が残っているのだ。
その後、私が小学校低学年の時に、時勢の変化もあって、外人ハウスと呼ばれていた基地外のアメリカ軍下士官の家は全て無くなり、私とアメリカ士官家族たちとの交流は完全に絶えてしまったのだが、残念なことだったと思う。 その幼児の時から、小学校低学年の時には隣人の子たちと、英語と日本語ちゃんぽんで会話していたのに、交流がなくなると英語を全く忘れてしまって、中学になった時には同級生みんなと同じように1からのスタートとなってしまっていたのだ。
あのまま交流が続けられていたら、私もバイリンガルは夢でなかっただろうにと思うと残念だ。




