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想いはいつまで憶えられているのだろう?  作者: 並矢美樹
戦争、それは破壊
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隼出撃

 97式戦闘機の後継機、試作名称キ43の開発は難航した。

 当初、97式戦闘機の固定脚を引込み脚に改良するだけのように思われた開発は難航し、一時はその開発が放棄されるかもしれないような様相となった。

 そもそもそこまで開発が難航したのは、この新機体に対する性能要求などが、度々変わったことも一因にある。

 この当時の戦闘機の戦い方、必要とされる航続距離、速度などの要求が次々と変わっていき、どのような機体が良いかという考え方もどんどんと変化していったからだった。

 時代、技術がどんどんと革新している真っ最中だったのだ。


 試作名称キ43という機体は、軽単座戦闘機という考え方を基に考えられた機体で、戦闘機同士の格闘戦を想定した機体だ。

 しかしノモンハン以降、戦闘機同士の戦いは格闘戦にはならず、一撃離脱方式の戦法になるという意見も強く、それに即した機体として開発名称キ44が開発されることとなっていた。 つまり開発している時点で、もうキ43は時代遅れのコンセプトの機体ではないかとも考えられたのだ。


 当初の予定通り昭和14年末までに開発された機体は、97式戦闘機と比べると航続距離は長くなったものの、速度はわずかに上回っただけで、水平方向の旋回性能は劣るという、少し残念な結果であった。

 そのためそのまま正式採用される事はなく、改良が加えられることとなった。 その一環として高性能エンジンへの換装も進められた。


 キ43が正式に採用になる方向に動いたのは、米・英との関係が悪化が進んだことによる。 南方方面への侵攻上、航空兵力が絶対的に必要なのだが、その時軍上層部が主力戦闘機に考えていたキ44は実戦配備が間に合わないことと、航続距離が足りないことから、キ43の制式採用が昭和16年5月に決まった。 そして正式名称はその時の皇紀2601年から一式戦闘機となった。

 その直後に飛行第59連隊に21機が配備され、正夫たち待機中の整備士の半数がそれに同行することとなったが、正夫は含まれず、正夫自身はその後8月から2番目として飛行第64戦隊に35機が配備されるのに同行することになった。

 最初の配備が採用直後だったのに、次の配備までに時間があるのは、生産が追いつかなかったこともあるが、最初の配備後に不具合が見つかったことにもよる。


 ちなみに飛行第64連隊が後に加藤隼戦闘隊として有名になる飛行連隊で、一式戦闘機の愛称が隼と名付けられたのは、その連隊歌の歌詞の中から採られたということだ。



 正夫が同行することになった飛行第64戦隊は9月に一式戦闘機を受領し終えると、11月には広東で錬成の猛訓練を行った。

 新しい機体に慣れる為というには、明らかに過剰な訓練スケジュールだったので、隊の者たちは皆、いよいよ時が迫っている事を感じていた。

 そして12月3日には加藤戦隊長が一式戦闘機35機全機を率いて、一気に2千数百キロ離れたフランス領インドシナのフーコック島ズォンドンに進出した。


 移動は第64戦隊の最新鋭の一式戦闘機だけではなく、まだまだ現役の97式戦闘機の隊なども多い。 そういった機は一式のように一気には移動できず、途中を経由して追いかけて行く。

 正夫たち整備兵も当然そんなに一気に移動出来る訳ではなく、大急ぎではあるが遅れて向かうことになった。


 「一気に長距離を移動との事だから、その前に完璧な整備が必要だったから、戦隊長たちが出るギリギリまで出来る限りの整備をしたけど、どうだったかなぁ?」


 「大丈夫だ。 自分たちは最高の整備をした。 当然無事に目的地についているさ」


 正夫は部下の心配を軽くいなした。 内心ではどんなに完璧な整備をしても、何が起こるかは分からないと思っていても、部下にそんなことは言えない。


 「自分は向こうに着いてからの整備が心配であります。

  どうやら今までに前例のない長距離移動のようですから、機体やエンジンにどの様な影響が出ていることか」


 「それは確かにその通りだ。 だが心配しても始まらない。 今は少しでも体を休めて、着いたらすぐに作業にかかれるようにすることが重要だ」


 「軍曹殿、言われる事は尤もだと思いますが、この状況で体を休めるのはなかなか難しいであります」


 正夫に対して部下が何だか芝居がかった調子で答えた。 確かに輸送機に詰め込まれての移動の最中は、とてもじゃないが体が休められるという状況ではない。

 それでも正夫は船での移動から比べれば、ずっとマシだと思った。


 フーコック島に着いた正夫たちは、予想していた以上にハードな任務が待っていた。

 8月の部隊に受領した時点から、11月の猛訓練まで、一式戦闘機の整備には慣れたと思っていた正夫たち整備兵だが、それでも増槽を付けての長距離飛行が機体にどんな影響を与えているかは分からない。 全機を点検整備しなければならない。

 軍曹となっていた正夫は、実質的には一つの中隊8機の整備に責任を持たねばならなかった。


 ノモンハン以前は、戦闘機は基本的には3機で編隊を組むのが最も小さい単位だった。 その3機の組を1小隊として、戦隊組織の1番の基礎となっていた。

 しかしノモンハンの戦闘で、敵のソ連の戦闘機は途中から当時のヨーロッパで最新の戦法として開発されたロッテ戦法を使うようになり、日本の戦闘機隊は苦戦するようになった。

 ロッテ戦法というと何かとても特別な感じがするが、要は2機1組で1機が敵を攻撃している時にもう1機はその警護をするという戦法だ。 日本の戦闘機は、それは第64連隊もだが、一撃離脱を徹底するという攻撃方法と共に、ノモンハンではその戦法に大苦戦をすることになったのだ。

 その後、日本においても、2機を組ませるというのが戦闘時における最低単位となった。 小隊の呼称というか単位は、最初はその2機で1小隊としてみたが、それでは流石に数が少な過ぎて、指揮を執る上でも面倒が多く、2機づつ組んだのを合わせて4機で小隊とすることにした。 中隊は基本はその小隊2隊だ。


 フータック島への兵や物資の移動は、順次速やかに行われていたようだが、それでも正夫に関わる飛行機の整備のための兵や物資も、即座には整わない。

 そんな状況下であっても、正夫たち整備士は一式戦闘機の整備を可及的速やかに終えるようにという命令が下っていた。

 正夫は不眠不休でその命令に取り組もうとする部下を抑えなければならなかった。

 部下たちは、その時自分たちが置かれた現状、命令から、「これは国家の一大事なのだ」と感じて、熱り立ってしまったのだ。

 それにはノモンハンなどの実戦経験のない、若い整備兵たちも部下に増えたことも一因である。

 航空兵力は最近になって急激に増えた兵力なので、操縦士はもちろんだが、それを支える整備士も根本的に人数が足りていない。 実戦経験のある古参の整備士は、それぞれに広く散らばって配置せざる得なかったのだ。 その為にまだほんの数年のことではあるのだが、実戦経験どころか、学校ではなく現場での整備経験の乏しい整備士たちも数が増えているのだ。


 「それでも自分たちは、ここに来る前に広東で厳しい訓練が出来たのは良かった」


 正夫はそう思ったが、そもそも一式戦闘機は新型機なので、その時間がなければ、正夫たちを除けば誰もまともな整備が出来なかったのだ。

 正夫は、部下の整備士たちが過度の労働で潰れてしまわないように、配下の整備士を何班かに分けて、それぞれが休息をきちんと取れるようにローテーションさせて作業を行わせた。 それでも作業自体は24時間体制で進む。


 「この忙しさが、一過性のモノとは思えないからな。 最低でもしばらくはこんな調子だろう」


 正夫と立川でも一緒だった友たちは、そんなことを話していた。



 そんな風に覚悟していた正夫たちだが、その覚悟を超えた速度で物事は進んで行った。

 7日の夜には、もう戦隊長加藤少佐以下、7機が輸送船団の護衛として飛び立って行った。 夜間、海上、悪天候という単座戦闘機にとって最悪のコンディションの中であった。


 「加藤隊長が凄い操縦士なのは重々分かっているけれど、それでもこんな条件の中飛び立って行って、ここに戻って来れるのかよ」


 その7機の発進を見送った第64戦隊の操縦士はもちろん、整備士たちも全員が沈痛な面持ちだった。

 それと共に、今行われていることが、どれほどの重要なことで、覚悟を必要とすることかを、改めて感じさせることとなった。


 加藤隊長たちが発進しても、整備士たちの苦闘は続く。 まだ第64戦隊の一式戦闘機35機全機の整備は終わってなかったのだ。


 結局、加藤隊長が任務を果たし戻って来た時には、戦闘はなかったとのことだが7機のうち3機が行方不明で戻って来なかった。

 夜間で荒天で海上では、何らかの目標と出来る物は少なく、自分の位置の把握さえ難しい。 その上不意に風に煽られたりもするから、各機がある程度の距離をとって飛行しなければならない。

 護衛する船に近づいた時は、1番の目的である敵の哨戒をしなければならないので、広がって互いに離れた位置で飛ぶ必要がある。

 こうなってくると一番重要な問題は各機の意思疎通だ。


 第64戦隊は、加藤隊長の方針で、夜間飛行の訓練にも力を入れていたし、無線機を重視していたりもした。

 しかしそれは、正夫たち整備士はその無線機があまり当てにならない物であるという認識をもたらすことでもあった。 どれだけ整備しても、不調となってしまう無線機が一定の割合で出てしまうのだ。 そもそもにおいて、他の整備はともかくとして、無線機の整備が出来るのは、正夫を含めた数人でしかないのだ。 そういった専門知識がないと手が出せない機械がどうしてもいくつかある。

 昼間の視界が利く時の飛行なら、無線機が使えなくても機体の動きや手信号で各機の意思を伝えられるけど、夜間・荒天ではそうはいかない。

 正夫は戻って来れなかった機体では、無線機の不調で加藤隊長の言葉が届かなかった機体もあったのではないか、と忸怩たる思いで考えた。


 部下の新米整備士は、7機中3機も戻って来ることが出来なかった機体が出たことに衝撃を受けていた。

 特に戻って来れなかった機体を整備した整備士たちはショックを受けている。 その日の昼過ぎまでは普通に一緒に話をしていたのだ。 その人が夜明けにはもう死んでいるというのは、当然だが大きい。


 「軍人なら、整備士なら、誰でも通る道だ。 それが普通のことと思ってはいけないだろうけど、慣れなければならない。 というよりもこれからの仕事がそれによって滞ってはいけない。 自分たちがそのことに囚われて、他の整備が疎かになれば、また余計にそういう事態を引き起こす可能性が高まるのだ」


 正夫は部下にそう訓示したが、自分に言い聞かせている部分でもある。



 第64戦隊は、翌日8日朝9時50分に、今度は全機が出撃して行った。 加藤隊長たち夜間の護衛に出た人は、ほとんど休んでもいない。

 今度の出撃では第64戦隊は飛んでいるブレイム爆撃機1機を撃墜し、バターワース飛行場に駐機してあったブレイム爆撃機4機を破壊するという戦果を挙げた。

 それ以上に正夫たち整備士が喜んだのは、今度は全機が戻って来たことであった。


 12月8日の本格的な戦闘は、つまり太平洋戦争が勃発したということだ。

 こちらの南方戦線では陸軍が中心になって攻撃し、遠く離れたハワイでは海軍が中心になって真珠湾を攻撃した。


 こちらの戦線でのこの時点での最重要地は上陸地点のコタバルで、そこへの日本軍の上陸を防ごうとする敵の航空戦力を潰して制空権を得ることだった。

 このコタバルの制空権とそこに近いシンゴラ飛行場は、第3飛行集団の担当だった。 ちなみに第64戦隊は第7飛行集団に属している。

 第3飛行集団は陸軍航空隊のエリート集団であったが、その主力機は97式戦闘機で航続距離に問題があった。 航続距離がそれよりも長い一式戦闘機は、より遠くの攻撃目標を攻撃する任務が与えられたとも言える。


 それはともかくとして、第3飛行集団は主力が足の短い97式戦闘機であったので、地上兵力が敵飛行場を占拠したらば、即座にそこに着陸せよの命令を受けていた。 コタバル上陸部隊を支援するためには、その近くに使える飛行場を必要としていたのだ。

 第12飛行団長青木武三大佐は、地上兵力がシンゴラ飛行場を占拠したという報告を聞く前に、自ら97式戦闘機に乗って部下を率いて、そこに強行着陸した。

 こうしてシンゴラ飛行場を利用出来るようにして、そこに九九式双発軽爆撃機を進出させ、周りの飛行場を爆撃し、上陸作戦を有利に進められることとなった。


 このことが前例というか刺激になったのだろうか。

 この後第64戦隊が転戦し前進していく中で、時々敵飛行場に強行着陸して占拠し、整備兵を含む飛行場大隊という地上兵の派遣が間に合わないことがあった。

 飛行機の整備に関しては、簡単なことは操縦士自身がしたが、やはりそれだけでは無理がある。


 「自分たちが同乗して、一緒に出撃するであります」


 正夫たち整備士が出した結論が、自分たちが一式戦闘機に同乗して出撃することだ。

 一式戦闘機に限らないのだが、戦闘機のコクピットと尾翼を結ぶ胴体部分は空洞になっていて、そこに荷物を積んだりもする。

 海軍機である零戦にはないが陸軍機の戦闘機には、その部分にもしもの時の操縦士の脱出口も付いている。 その扉を利用して、操縦士は荷物を積んだりもする。

 それ以前のこととして、戦闘機は整備が終わると、その部分に責任整備士を乗せてテスト飛行したりもするのだ。 これは陸軍に限らず、海軍でも同じであり、零戦の場合は整備士が乗り込むのに苦労する。


 という訳で、単座戦闘機とはいえ、もう1人人が乗り込むことが出来ない訳ではないのだ。

 ただ、乗り込んで一緒に行く整備士の人選が問題だ。

 普通に考えれば、もしもの時を考えて、技術がある上官が乗り込む必要があるとは思えない。

 だが、航空兵の場合、一番危険があるところに、最も高位の者が自ら就くのだ。

 戦隊長である加藤少佐が指揮官として先頭を飛ぶのは、その伝統だ。 これは日本に限らない。

 決して安全な後方から指揮をするということはないのだ。


 整備兵も、今では技術兵という括りで、操縦士の航空兵という括りとは分けられてしまったのだが、ちょっと前までは同じ航空兵という括りだった。

 責任ある者が、先に危険を引き受けるという伝統は、ここでも脈々と力を持っていた。

 正夫を含めた、整備士の中の下士官たちが、同乗して飛んで行くことになったのだった。


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