戦場を経験すると
地の文ばかりの読みにくい回となってしまいました。
全く興味のない人には読むのが苦痛かも。
軍では飛行機が急速に重要視され、その拡充が急がれているようだ。
飛行機を使うといっても簡単なことではない。
そもそもその飛行機をどうやって作って数を揃えるかから始まり、それを運用するにはどうしたら良いかという問題になる。 単純に操縦士を養成すれば、それで済むという話ではないのだ。
そもそも例えば一機の飛行機を飛ばすのに必要な操縦士は1人だが、その飛行機を飛べるように整備する整備兵は数人が必要となるのだ。
世の中はまだ一般的に自動車でさえ普及していないので、内燃機関であるエンジンなど見たこともない者がほとんどなのだ。 それ以前の蒸気機関などの近代的な機械に触れたことのある者でさえ、数が少ないだろう。
そんな者たちが先端技術の飛行機の整備が簡単に出来る訳が無い。
当初、軍の飛行機はその数が限られていたため、それに半ばは実験的なモノであったから、飛行機の整備はメーカーの技術者や、その下請けという感じの人で間に合っていた。
しかし、少し本格的に軍で飛行機が使われるようになると、それだけではとても足りず、まずは選ばれた軍人がそれらの技術を、メーカーの技術者に教わって覚えることが始まった。
当然ながらそれでは足りず、操縦士を養成する軍内の施設というか学校に近い物ができた時に、同時に整備兵を養成する施設、学校も作られたのである。
正夫は、ちょうどその時運にのって、整備兵の養成所に通うことが出来たのである。
正夫は5.15事件を一つの契機として軍人になることを決意して軍に入ったので、本格的に整備兵として養成施設に通うことになったのは昭和8年のことであった。
それから3年をかけて、一人前の整備兵となるように訓練がなされることが当初の予定であった。
整備兵と一言で言っても、そのすることは多岐に渡り、一番簡単なことでは機体の掃除や、ワックスかけから始まり、エンジンの細かい調整にまで渡る。
それらを最初から全ての整備兵が出来るようになれる訳もなく、その必要もない。
ただし、機体の掃除が重要度の低い作業かというと、そんなことはなく、機体の小さな不具合を見つけて、事故を未然に防ぐためには重要で、細心の注意を持って行わねばならない作業ではあったりするのだが。
正夫たちが求められたのは、最先端のスペシャリストの部分と、自分以下の整備兵のグループを率いて仕事をしながら、自分より下の整備兵に技術をきちんと教えることだ。
正夫は施設に来たときは、当然のことながら2等兵として来たのだが、1年経つと、1等兵へと階級が上がり、その次が来ると上等兵へと階級が上がった。
正夫の感覚としては、自分では今のところ何も出来ず、ただ学んでいるだけなのに、新たな年度が来る度に勝手に階級だけ簡単に上がってしまい、こんなことで良いのだろうか、という感じだった。
そして自分たちが学ぶ場に2度目の新兵を迎えた時からは、自分の下に部下としてその数人を受け持つことになり、その部下に自分が今まで教わっていたことを教えたりもすることになった。
それはもちろん今後を考えての訓練の一環なのであろうが、部下を持って、その者たちに接するようになると、同期の者たちにも色々な個性が出た。
中には自分が上に立つことを誇示するために高圧的に接したりする者も出たが、それが自分と同い年の同期では最年少の者だったりする。 年齢で舐められないようにという思いが強く出過ぎたのだろう。
正夫はというと、とてもそんな風に接することは出来ない。
自分も同期の中では年長の者に教わったりと優しくされて過ごしていた訳だし、部下になったとはいえ、自分より年長の者が多く、とても高圧的に接するなんてことは出来ない。
正夫の受け持つグループは、軍隊組織としての分別は持ちつつ、普段は上下意識のないかのような雰囲気のグループになってしまった。
その中で正夫が図らずも威厳が保てたのは、正夫が面倒見が良かったからだ。 正夫にしてみれば自分が座学で苦労して、同期の年長者に教わったりしていたので、自分の部下たちも同様だろうと考えて、自分が苦労したところを部下に丁寧に教えたりしたのだ。
部下たちにとっては、それによって自分たちは優秀な評価を得ることが出来て、正夫に恩を感じることになり、何かの時には正夫に従うのが当然と思うようになった。 他のグループの者にも、自分たちの上が正夫であることを羨ましいと思われていたのだ。
それはもちろん正夫の評価を上げることにもなったのだった。
3年の養成期間が終わり、正夫の階級は上等兵に留まっていた。
その上の伍長という階級と上等兵という階級との間には溝がある。 伍長からは兵ではなく下士官となるからである。
そして下士官になるには実戦部隊での経験が必要とされた。
当然今いる場所を離れて、どこかの部隊に配属になると思っていた正夫だが、養成所にいた時から訓練整備に通っていた立川空港に臨時的に所属するに留まった。
正夫が立川に止め置かれたのは、陸軍の戦闘機が世代交代と技術革新の真っ只中で、主力となる機種が不確定だったことが原因だろう。
正夫たちが養成所に入ったときの主力戦闘機は九一式戦闘機だったのだが、すぐに九二式戦闘機に変わった。 これは九一式戦闘機は優秀ではあったのだが、きりもみ状態になりやすいという欠点を克服できなかったかららしい。
九一式戦闘機は単葉の戦闘機なのだが、九二式戦闘機は複葉で、少し時間が巻き戻ったような感じだが、その外観の違い以上に違ったのがエンジンだ。
九一式戦闘機のエンジンと九二式戦闘機のエンジンはまるで別物という感じで、整備する技術は全くとは言わないが、かなり異なっている。
九一式戦闘機のエンジンのエンジンが整備出来るからといって、即座に九二式戦闘機のエンジンも整備出来るかというと、そんなことは決してなくて、学ばねばならないことが多かったのだ。
それはともかく九二式戦闘機のエンジンは整備が難しく、飛行機の稼働率が悪くなるというモノだった。
それもあって、正夫が養成所を終えた時点では次期主力機への変換が望まれてはいたのだが、その選定をしようという時期だった。
正夫たちは軍としては、次期主力機の整備の主力にしたいという思惑があった。 というよりその時の中国戦線は、ちょっとの間だろうがそれ以上の航空戦力を展開する必要がなかったのだろう。
正夫たちが、立川基地での操縦訓練のための九一式戦闘機と九二式戦闘機の整備に励んでいた昭和10年、年も押し迫った12月になって九五式戦闘機が正式に採用された。
九五式戦闘機は正夫たちが整備に苦労していた九二式戦闘機を、元にして改良設計された飛行機だったため、正夫たち整備兵は新たに覚えなければならない技術は少なく、ほぼ即座に対応出来る機体だった。
九二式戦闘機のV型12気筒エンジンはとても整備が難しく、良好な状態で動かすことの難しい整備士泣かせというようなエンジンだったのだが、九五式戦闘機に積まれたエンジンも、そこから改良がなされて出力も上がってはいるが、同じV型12気筒エンジンだったので、整備士たちの中ではあまり評判が良くなかった。 前機のエンジンとは劇的に違うというまでの改良とはならなかった感じだったのだ。
しかし、ともかく正夫たちがほぼ即座に対応出来る機体と決まったことにより、正夫を含む待機中といった感じだった整備兵たちの満州行きは早まったかもしれない。
ただ、この時期の満州はまだ緊迫した戦場となっていた訳ではないので、それまでの兵たちとの交代要員、または実働経験を積ませるなどの目的だったのだろう。
現実的には正夫たちは、九二式から九五式に入れ替わる戦闘機の整備よりも、九三式単発軽爆撃機の整備に追われることになった。
九三式単発軽爆撃機のエンジンも正夫たちが整備にずっと手こずっていたV型12気筒エンジンで、現地の上層部としてはその機体の稼働率を上げることが課題だったのだ。
「自分は泳げないので海軍を諦め、それで陸軍に入隊した。
しかし考えてみれば当然なのだが、兵隊がその任地に行くには、移動のために船に乗らなければならない。
今回初めて、軍人としての任地である満州に行ったのだが、その軍人としての仕事はこちらでしていたことと変わることはなく、少しも大変なことはなかったのだが、いや飛行機の整備、特にエンジンの整備は常に大変ではあるのだが、それはこちらに居ても同じことなので、特別に違って大変という訳ではないという意味なのだけど。
まあ、それは置いておいて、とにかく自分にとって大変だったのは、移動の船だった。
泳げない自分は手摺りに近づかないようにしよう、なんて思っていたのだが、それどころの騒ぎじゃない。 船酔いというモノがあれほど苦しいモノだと思わなかった」
正夫は昭和11年、初めて実戦部隊へと配属され、満州へと渡った。
しかしその配属は、多分に正夫たちを下士官にするための必要を満たすためという感じであって、下士官となるのに必要とされる半年の実戦部隊所属の期間が過ぎると、すぐに国内に戻された。
現実的な話としては、正夫たちのような整備兵として正規の知識や技術を持った者が、単純な兵として戦地に行っても、そこで他の者を指揮する権限がない。 古参の兵に匹敵する上等兵であっても、兵であることには変わらず、現地で整備兵として働く時には年齢のこともあり、下働きに従事させられるようなことも当初は多かった。
つまり、この時点での飛行機は草地を滑走路として使っていたので、車輪やその周り、胴体下部などが草や泥で非常に汚れてしまうので、それを洗い流し綺麗にするのが整備の第一歩だったのだが、その水仕事・汚れ仕事をさせられるのである。
正夫自身はそんな仕事も嫌がらずに、指示に従って従事したが、中には自分の方がきちんと整備する技術があるのにと、不満に思う者も多かった。
まあ次第に正夫たちの技術が、現地に元からいた整備兵よりも高いことが知られ、頼られたり指導するようなことにはなったのではある。 技術職は技術が高い者が一目置かれるのは当然のことだ。
しかし、このような状態が宝の持ち腐れであるのは、上の方でも当然考えていた訳で、その期間が終わると即座に戻して、次は下士官に昇格させて、きちんと指揮権を持たせて使おうと考えていたようである。
その後、このような場合に問題が起きないように、上等兵の上に兵長という階級が生まれた。 兵長は兵であって下士官ではないのだが、兵の中ではその場の指導的役割というか、ある程度の上位権限を持たせたのである。
そんな上層部の思惑を正夫が知る筈もなく、正夫は少しだけ自分では覚悟が拍子抜けしたような気分で最初の実戦部隊への配属から戻って来た。
正夫は、家に無事を伝えるためと休暇を過ごすために戻ると、以前と同じ快活な様子で、その経験を周りの者たちに語った。
軍人になっても、以前と雰囲気が変わることはなく、変わったのは話の中での一人称だけだった。 以前は「おら」「俺」、少しあらたまった場では「僕」などの一人称を使っていた正夫だが、そこだけは軍隊で使うので癖になったのか「自分」という一人称を使うことが多くなった。 どうやら無意識のようだ。
正夫たちは、昭和11年の春に満州に向かい、冬になるまでに戻って来た。
しかし、翌年、正夫たちと同じ経緯で満州に向かった、正夫たちの後輩たちは、正夫たちのように運良く物事は進まなかった。
昭和12年7月には盧溝橋事件が起こり、中国との戦闘が徐々に本格化していき、航空戦力も現地で常時運用され、それに伴い初実戦の整備兵もその場に留め置かれる事態となってしまったからだ。
正夫たちは中国の戦線で活躍する飛行戦隊の話を立川の基地で聞くことになった。
現地で実際に自分たちもその整備に加わっていた、また後輩たちが忙しく整備したであろう九五式戦闘機、九二式戦闘機、九三式単発軽爆撃機の活躍を聞くと、嬉しい気持ちがあるのと同時に、それらの機の整備の大変さを思いやらずにはいられなかった。 それらに共通するエンジン形式の気難しさは、正夫たちはよく知っていたからだ。
正夫たちは、自分たちも戦場にすぐに出陣かと色めき立ったが、そんなことにはならなかった。
そこには理由があった。
九五式戦闘機が前線にやっと配備され出したところなのだが、もう後継機が正式に採用されようとしていたからである。
九五式戦闘機は、そもそもにおいて複葉機という採用された時点ですぐに時代遅れになることが予想されていた戦闘機であったからだ。
九五式戦闘機は優れた旋回性能などもあって、敵である中国機などを圧倒していた。 現実的には究極の複葉戦闘機といえるような機体であったのだが、欧米などはすでに速度でずっと勝る単葉機が主流となっていた。
単葉機が敵として現れるのは時間の問題と認識されていて、その新型機には九五式戦闘機は改良を施しても、太刀打ち出来ないのではと危惧されていたのだった。
そこで新型の後継機の採用が急がれていたのである。 海軍の九試単座戦闘機が昭和10年に成功し、11年に正式に九六式戦闘機として採用されていることにも刺激されている。
そもそもにおいてこの時代は、飛行機が急速に発展していて、日進月歩で技術開発が進んでいて、ほんの数年でもう旧式化してしまうような時代だったのだ。
正夫たち整備兵が留め置かれたのには理由がある。
次に採用された九七式戦闘機は、正夫たちが今まで整備するのに慣れていた九五式戦闘機、九二式戦闘機、九三式単発軽爆撃機などとは、かなり違いがあるからだ。
まず第一に九七式戦闘機はエンジンの形式が違う。
九五式戦闘機、九二式戦闘機、九三式単発軽爆撃機などはV型12気筒エンジンであったが、そのエンジンは整備が非常に難しく、稼働率が低かった。 他に問題がないのに、エンジンの不調によって使えない機体が常に多いという状態だった。
正夫たち整備に当たる者たちは、その状況を変えようと日々努力していたのだが、この内地においてさえ、なかなか結果が出ない。 戦場である中国においてはなおのことだ。
その根本的な原因は、液冷というエンジン形式にある。 なかなか多気筒のエンジンを均一に冷やすことができないのだ。 それが急激な運動をする戦闘機となると余計に難しくなるのだ。
そこで九七式戦闘機では、V型液冷エンジンを諦め、信頼性が上の星形空冷エンジンに変更となった。
また複葉機から単葉機に変わっただけでなく、それまでとは大きく違い、機体を大きく3つのパーツに分けて、それらを合体させる作りに変わった。
具体的には通しの桁によって左右が連結している主翼部分と、エンジンと操縦席の中央部、そして胴体と尾翼部分となり、それらを連結して一機の飛行機となる形だ。
これは低翼単葉という設計であったから出来たことだが、これはその後も引き継がれ、後の隼や零戦も同様の技法となっている。
大きなことはその2点だが、他にも翼端が捻り下げされていたり、燃料の増槽が胴体下部に取り付けられるようになっていたりと色々な新技術があって、確かに急にこの新鋭機が持ち込まれても、今まで整備してきた飛行機しか知らない者は戸惑ってしまうことだろう。
こういうことはいくら説明書があっても、実際に触れて経験してみなければ、なかなか解らないことなのだ。
正夫たちは丁度その新型機の整備を覚えさせるのに都合の良い集団だったのだろう。
次に正夫たちが現地に行く時には、階級も下士官となるので、新型機についての知識と技術を持って行き、実際に他の者を直接指導・指揮する立場に立つことになる訳で、その意味でも都合が良いのだ。
正夫たちは、九七式戦闘機の戦地投入に伴って、今度こそ本当の意味で実戦の場に投入された。
昭和13年からの九七式戦闘機の戦地投入は、初期においては中国戦線で無敵というような活躍だった。
九七式戦闘機はとても優れた機体で、その水平旋回性能は複葉の九五式戦闘機の方が優れていたが、垂直旋回性能はずっと勝り、格闘戦において中国機、ソビエト機を圧倒していた。 また、九五式戦闘機で問題になった航続距離も増槽が付けられることなどから、爆撃機を護衛して、その迎撃に上がってきた敵機との格闘をしても戻れるだけとなり、そこでも大きな戦果が得られた。 何よりもエンジンの不調が少なく、機体の稼働率が大きく違った。
この状態は、昭和14年5月第一次ノモンハン事件の空戦まで続いた。 格闘戦においては、九七式戦闘機はソビエトの主力単葉機I-16に勝っている状況で、ましてや複葉機のI-153には圧倒的だった。
だが、この状態は長くは続かない。
6月末からの第二次ノモンハン事件の空戦になると、ソビエト機は単機同志の格闘戦はしないで、基本的には武装と急降下速度の優位さを利用した一撃離脱戦法に変わった。 また格闘戦を行う時も欧州での戦闘で用いられた、後にロッテ戦法として知られる2機が連携して戦闘を行う戦法が採られた。
こうなると第一次の空戦のような圧倒的な勝利は得られることなく、現実的には互角の戦いへと持ち込まれてしまった。
そうなると物量に乏しい日本軍は、主力の九七式戦闘機の数が減り、仕方なしに旧型の複葉機である九五式戦闘機が主力となり、ノモンハン事件が始まった時と逆の様相を次第に見せることとなった。
つまり旧式の複葉機を新式の単葉機が圧倒的に制圧することになったのだ。
九五式戦闘機がいくら水平旋回性能では九七式戦闘機を上回るような性能を持っていたとしても、圧倒的な速度差は操縦士の技量で埋められるものではなかったのだ。
倍どころか後に分かったことによると4倍の圧倒的兵力差を航空戦力の奮闘で補って互角からやや有利に持ち込んでいた日本軍は、航空戦力で上回れなくなると、その戦力差を支えられなくなり、ノモンハンでの戦闘は日本軍の敗北に終わることとなった。
そしてその戦闘に整備兵として加わっていた正夫は、九七式戦闘機投入初期から第一次ノモンハンでの空戦までの飛行隊の活躍により、その階級は伍長から軍曹に上っていたが、その戦闘から生還して戻って来た時には、以前に大陸に行った時とはまるで違い、人格というよりは人当たりがまるで違う人間になっていた。
以前の親しみやすい気安い様子は全く見られず、厳しい軍人としての顔だけを見せるようになってしまったのだ。
それは仕方のないことかも知れない。
正夫たちが主として整備に当たった九七式戦闘機は、ノモンハンでの戦闘の決着がついた時には、その数を半分以下に減らしていたのだ。
つまり自分たち整備兵が親しく接した操縦士の、半分以上を失うという経験をして正夫は戻って来たのだから。
話の舞台が、近い過去のことなので、分かる範囲で嘘は描きたくないと思って、必要なことを調べ出すと、次から次へと調べなければならないことになり、膨大な時間がかかってしまいます。
とは言っても、昔なら国会図書館にでも行って調べなければならなかったことも、自宅でパソコンで簡単に調べることが出来ます。 調べものにかかる時間は過去の物書きの人から比べたら、全く微々たるモノだとは思うのですが。
必要だから調べるのだけど、調べるだけ書いた文章がどうしても解説調のつまらない硬い文章になってしまいます。
でもそれを書かずに飛ばしてしまうのも違う気がして。




