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想いはいつまで憶えられているのだろう?  作者: 並矢美樹
戦争、それは破壊
24/42

正の捕った鰻

 お松婆さんの歳の離れた弟は、まだ幼い頃に川で溺れて死んだのだという。

 その影響で、お松婆さん自身もほとんど川に近づくことはない。 近付く時にも足首が隠れる程度以上の所には決して入らない。


 お松婆さんと、その亭主である番匠様の仲の悪さは、村で知らない者がいないほど有名だ。

 「あの仲の悪さで、よく3人も子どもが生まれたものだ」

と陰口を言われるほどに仲が悪い。


 そのとばっちりを受けたのが、長男繁信の妻のたまきだ。

 たまきが番匠様を、義父として以上に丁寧に扱うのを、お松婆さんは気に入らない。


 たまきからしてみれば、一家の主人を丁寧に扱うのは当然のことなのだが、それは多分に自分の実の父親の思い出が反映しているようだ。

 たまきがその母に連れられて、母が後妻として入った隣の村の庄屋の家では、そこの主人に対してはそこまで優遇された扱いはされてなかったみたいだ。 それでもたまきの母が後妻になってからの方が丁寧に扱われていたらしい。

 たまきが番匠様を丁寧に扱うのは、番匠様も元々が武家の出身だからというのが大きいのかも知れない。 時代は変わりはしたけど、夫の父親に接するのに、嫁としてどの様に接することが良いかと考えた時に、母親が後妻に入った先の義父への接し方ではなく、幼い時に見た、自分の実の父親に対して母親がとっていた態度を真似たというか参考にしたのだ。


 つまり、たまきの番匠様に対する接し方は、どちらかというと武士の家での接し方に近いのかもしれない。

 そしてそれは、番匠様にしてみれば、自分が幼い時に慣れ親しんだ待遇というか、一番当たり前の家族としてのたたずまいであって、快適でもあったのだ。


 お松婆さんにしてみると、そこも気に入らない。

 生粋の農民出であるお松婆さんにとっては、武家の家風に近い家族間の決まりというか振る舞いは、自分だけがそこから除け者にされたような気がしてしまうのだ。

 そしてそれを覚えたり真似たりしようとはしない妻に、番匠様は苛立ちを覚え、尚更夫婦間が険悪になるという悪循環だ。


 ただし、お松婆さんが努力が出来ない人という訳ではない。

 お松婆さんはその当時の農村の人としては珍しくなかったのだが、字を読んだり書いたりが出来ない人だった。

 しかし、それではいけないと一念奮起して、そこは頭を下げて嫁のたまきに教わって、まずは般若心経の写経が出来るようになり、それから仮名をは完全に読み書き出来るようになった。 始めた年齢を考えると、そこまで出来るようになるのは、かなりの努力家と言える。

 何しろまだ時代は変体仮名が普通の時代だったのだ。 明治33年に学校教育では一音一字に統一されはしたが、日頃の生活はそれでは成り立たなかった。

 お松さんの読み書きが、般若心経は写経出来るが、他は仮名に限られてしまったのは、仮名だけでも今より大変だし、漢字に至っては生活上普通に使われている文字の字体が、楷書だけでなく、行書・草書までがまだ普通だったので、というか普段使いは癖の強い草書なのかなという文字が多いくらいで、今よりもずっと覚えるのが大変だったからだ。


 脱線してしまうが、知識として変体仮名や行書・草書まで知っていても、古文書なんかは慣れないとほとんど読めない。 読めなくはなくとも、読み解くのに時間がかかってしまう。

 時代や、その地方、職業身分なんかでも、文字の略し方が違ったりして、本当に難しい。

 意外に古代に近い物の方が読み解きやすく、近代になるほど難しい気がする。 まあ識字率が上がり、庶民が残した物も多いからかも知れないけど。

 今では一部の研究者以外は、ほとんど読めなくなっているのが実情だろう。

 それを考えると、自分の息子に嫁が来てから、その嫁に教わって字を覚えたというお松婆さんは、かなりの努力家で、頭も悪くなかったのだろうと思う。


 繁信の嫁のたまきも、姑のそういう所を認めていない訳ではないのだが、自分が舅の番匠様に接する度に、嫌味を言われたり、気に入らないという態度を示されると、そこはどうしても反感も持つ。 お松婆さんを邪険に扱うようなことはないが、番匠様に対する様な恭しさはなく、ごく普通に扱う。

 その違いに、またお松婆さんは苛立つ。

 周りの者に愚痴っても、番匠様である舅に対してより丁寧であるだけで、自分が蔑ろにされいる訳ではないから、誰も肩を持ってくれない。

 そもそもにおいて、お松婆さんが一番理解していないのだが、番匠様こと国太郎爺さんは、歌吉村長でさえ一目おいている程の人物で、飲んだくれているようではあっても、周りも者からは尊敬され、誰もが他とは違う態度になってしまう人なのだ。

 嫁のたまきが番匠様に対して、お松婆さんによりも丁寧な態度をとるのは、誰しも、「それは当然だろう」と、怒っているお松婆さんには言わないが、心では思っているのである。

 お松婆さんは、周りの者たちがそう思っていることも勘づいているのだが、それもまた腹立ちの原因になっているのだ。


 そんな仲の悪い番匠様とお松婆さんの夫婦だが、それでも夫婦で共通している部分もある。

 それは夫婦揃っての初孫である繁信の長男・正夫の溺愛だ。


 そんな正夫は、お松婆さんの厳命で、川で泳いで遊ぶことは禁止されてしまっていた。

 夏になり気温が上がれば、部落の子どもたちは涼むために川遊びに行くのは当然のことだった。 そして誰もが自然に泳ぎを覚えて、川に潜って遊んだり、飛び込んで遊んだりということをする。 それを禁じたのだ。

 嫁のたまきは、「それでは正が、周りの子たちと一緒に遊べない」と大反対したのだが、この件はお松婆さんは決して引かず、自分の我を通した。

 お松婆さんにしてみると、かわいい初孫の正夫の命を守るために、絶対に譲れない事柄だったのだ。


 正夫にしてみれば、近所の子たちと一緒に川で遊ぶことが出来ないという、子どもにとってはとても辛い事柄だと思うのだけど、お松婆さんのあまりの見幕に恐れをなして、婆さんの言葉に従うことにしたみたいだ。

 近所の子たちも、正夫が川で一緒に遊ばないことに関しては、あまり正夫を揶揄ったりはしなかった。 何しろ狭い部落だ。 お松婆さんが、正夫に「川で泳ぐな」と、大声で叱る声は、周りにも丸聞こえだ。 そしてお松婆さんが、その様に正夫に厳しく注意する心情は、年寄りたちには理解出来たのだ。


 川に入って泳ぐという遊びが禁止されても、夏になれば暑い訳で、周りのみんなが涼しい川に行くのに、自分だけが我慢出来る訳が無い。

 川に入って泳ぐことを禁じられた正夫を不憫に思って、番匠様が正夫に教えたのが、釣りと魚の罠だ。

 涼む為に川に行くことは仕方ない、と諦めたお松婆さんだが、川に入ることは頑として認めなかったが、川に入らずに側でボーッとして過ごすだけではいられないのも分かる。 それで喧嘩の絶え無い亭主である番匠様がすることだが、正夫に釣りを教えることは認めた。

 正夫に教えることで、またしても大喧嘩になったのが、魚の罠だ。 これは罠を設置するのに川に入らなければなら無い。 お松婆さんにとっては、そこが大問題であり、番匠様にとっては、それが狙いだった。 冷たい川の水が目の前に見えるのに、そこに足を浸けることも出来無いのでは、あまりに可哀想に思ってのことだ。


 「(まさ)、お婆の心配も解らない訳じゃない。

  お婆は、足首より深い所には入るなと言うが、それじゃあいくらなんでも罠を仕掛けられない。 でも、膝より水が上にくる様な所には入るな。

  それから、滑って転んだら、そんなことは意味がない。 罠を仕掛ける時には滑らない様に、必ず半中(はんなか)を持っていって、それを履いて水に入れ。 それでも気をつけるのだぞ」


 喧嘩はしていてもそれでも、お爺である番匠様は、お婆のお松さんの心情は理解しているのである。 もちろん正夫のことを心配もしている。


 正夫は釣りもしたのだが、より熱中したのが罠漁だ。

 こちらは罠を仕掛けたり、それを回収したりで、水に入る機会が多いということもある。 釣りで大物を狙うには、岩の上や茂みの中から竿を出して、水に人影さえ映らないようにする必要があり、川の中に足を入れるなど出来ないからだ。

 川に足を入れても釣るようなことが出来る、小さな川魚を釣るのは、正夫はすぐに飽きてしまったのだ。

 それに最初は自分も周りの子たちと一緒に川に行けるのが嬉しかったが、自分だけ違うことをするので、逆に嫌になったこともある。

 それにそんな小さな小魚を獲るのなら、遊びで川を堰き止めて、浅くなった水に逃げられない魚を捕まえる方が面白いし、効率が良い。


 もう一つ、正夫が罠漁に熱中した理由がある。

 正夫は罠で魚を獲ることに熱中しただけではなく、罠を作ることに熱中したのだ。

 どんな罠を作ればより多く魚が獲れるか、狙った魚が獲れるか。 正夫は罠の改良に熱中し、罠をどこに設置するかにも拘った。

 対岸に見える良い設置場所に罠を設置するのに、川の少し深い所には入ることを許されなかったので、渡れる所まで大きく迂回して目指したりもした。


 一番の狙いは鰻だ。

 偶然獲れた鰻を持ち帰った時、罠漁を教えてくれたお爺が、とても喜んだのだ。

 そう番匠様は鰻が大好物だったのだ。


 その当時は、海から遠く離れたこの村の川でさえ、下流にはダムも大きな堰もなかったので、天然の鰻が生息していたのだ。

 生息してはいても、そう簡単に獲れるものでもない。

 川の漁を生業とする者の居ないこの村では、尚更あまり獲れない。 もう少し下流の方に行き、川が大きくなると漁を生業とする者もいたが、獲るのが難しく、獲った後も手間のかかる鰻を態々狙って漁はしてはいないのだ。


 鰻は万葉の昔から食べられている魚ではあるが、そのままぶつ切りにして焼いて食べて美味しいという魚ではない。 現在のような食べ方がされる様になったのは、はるか後年でそれまでは滋養はあるけど、旨くはない魚だったらしい。

 正夫は、その鰻の食べるまでの処理の仕方や、捌き方なんかもお爺に教わった。 お爺は自分の大の好物だったためか、そういったことも知っていたのだ。


 獲ってきた鰻は、桶に入れられて、2・3日は家の生活用水に使われている、裏の山から引いて流れっぱなしになっている水に晒して、そのままに置かれる。 これをしないと臭みが抜けないのだ。

 その後は、庭に台を出し、目釘を打って、きちんと鰻を捌く。 捌くのに使う刃物も、折れた小刀を正夫自身が研いだり、焼を入れたりして作った専用の道具だ。

 そしてつけながら焼くタレまで正夫は自分で作った。 そこまで拘る性格だった。


 鰻を食べるのは、お爺が優先だった。

 お爺が食べる残りだったり、稀に2匹とか3匹が獲れた時が、家族が食べられる分だった。

 家族としてはお爺ばかりが優先されていて、文句を言いたくなるような状況なのだが、お爺の喜びようが半端なかったので、誰もそれに文句は言えなかった。

 お爺、番匠様にとっては、孫が自分で獲ってきて、そして自ら調理してくれる鰻は、大好物の鰻以上の最高のご馳走だったのだ。


 お爺が喜んでいたのは大好物の鰻を食べられるからだけじゃない。

 お爺は正夫の、罠作りの工夫、道具作りの工夫、その拘り、そんなところもとても喜んでいた。

 「正は、儂や繁以上の大工になる素質がある。

  儂が果たせなかった望みを、今は繁が果たそうとしてくれているが、それを果たすのは正になるかも知れないな」


 お爺は、いや国番匠である国太郎は、大工が後の世に残る建物を作る機会に恵まれるのは、その位の長い年月が必要とされるほどの幸運がなければならないのだと、自分が衰え、最晩年を迎えているという自覚を持つようになって、考えるようになっていたのだ。

 そんな幸運が訪れる稀な機会を逃さず、それを掴み取れる様な後継者を残したい。 それがお爺の最後の望みだったのだ。


 「繁も、今では儂以上の大工になったのかも知れない。

  だが正は、親父の繁以上の大工になる可能性がある」


 お爺は初孫として可愛いだけでなく、自分の望み、いや大望というか野望を受け継いでくれる存在としても、正夫が大事だったのだ。


 正夫は道具の工夫や製作といった手先の器用さだけでなく、学校の成績も優秀だった。

 高等科が終わった後、正夫の進路を考えなければならないかったのだが、正夫自身が強く希望があるという訳では、その時点ではなかった。

 一つには、お爺にとても可愛がられて育った正夫は、お爺の希望を無視出来なかった。 そしてお爺の希望は、大工の修行に入ることだった。


 父親の繁信からしてみると、そこは考慮すべきところだった。

 自分の経験としても、より上級の学校で、単純な大工としてだけでなく、建築というモノを学ぶべきではないか、とも考えるからである。

 しかし、その反面、自分がその年齢の時に、馬鹿をやったせいでもあるのだが、大工の修行をせずに他のことに逃げていて、その年齢で修行を始めていたら身に付いたであろう、木に対する感性みたいなものがなかなか身に付かず、この年齢になってもそういったところで酒飲み親父に劣っているという自覚があった。

 大工として、学問の必要性も十分に自覚しているのではあるが、若い時期でなければなかなか身に付かない感性の重要性も、自分が歳をとってそれなりの立場になると、余計に感じてしまうのだ。


 もう一つ、考慮しなければならないことがあった。

 それは兵役についてである。

 兵役は国民の義務ではあるが、繁信自身は長男であることもあり、実質的には兵役を免れていたのだが、弟は兵役に付き、なんとか無事に帰還している。

 正夫も長男であるのだが、これからの世の中は、長男だからといって自分の様に兵役を免れるかは判らない時代になっている気がするのだ。

 それを考えると、より上級の学校に行って、それによって兵役を免れる可能性を高める方が良いとも思えた。


 「何を考えているのか、無理だ。

  可哀想だけど、今のうちに、正を上の学校に入れてやる余裕はないよ」


 妻のたまきの指摘に、繁信は俯くしかなかった。

 大正の時代、繁信は父の番匠様と共に忙しく働いていた。 いや途中からは実質的には繁信が棟梁として、忙しく働いていた。

 その時代のほとんどは、まだ歌吉村長が現役で、村の開発に私財も投じて励んでいたこともあって、仕事に困るということもなかった。

 社会も景気が良かったのである。 震災も経済に打撃を与えたが、建設関係する者にとっては、仕事が増えることにもなった。

 しかし、天皇の代が早くも替わり、昭和になる頃には徐々に経済が不況に振れて、世界恐慌が起こった。

 それだけではない、気候が少し寒くなり、農作物も不作が続く様になった。

 こうなると、新たに家を建てたりという個人はもちろん、公共関係もあまり建物を建設しようとはしない。 大工の仕事はどうしても減ってしまうのだ。


 それでも繁信は父から続く名声を大工としては受けていたから、全く仕事がなくなるということはなかったのだが、大工の仕事を諦める者も出る様になった。

 繁信は、子沢山な上に、弟子も抱えているということで、昔母親のお松婆さんが困ったという時と同じような状況に、その時は嵌まり込んでいたのだった。


 その結果として、正夫はお爺の強い希望もあり、見習いとして大工の修行を始めることになった。

 本来なら、他所に出して修行するべきなのだろうが、そんな状況では受け入れ先を見つけることも難しく、また国番匠の孫を自ら受け入れようとする者もいなかった。

 そこで正夫は父親の仕事を手伝うことになったのだ。


 しかし、正夫の修行は長くは続かなかった。


 「おら、徴兵検査を受ける」


 「まだ正式に徴兵検査を受ける歳じゃないだろ」


 「知っている。 でも希望すれば受けられる歳なのも知っている。

  このままじゃ、20歳になって徴兵検査を受ける事になる。 そうすると海軍には泳げないから行けないから、陸軍の二等兵になることになる。

  そしたら、泥水の中を這い回ったり、凍る寒さの中を行進しなければならなくなると思う。 そんなのは嫌だ。

  今なら、志願少年兵として、希望するとこに進める可能性がある。

  オイラは飛行機の整備兵になる。 それならきっと手先の器用さが活かせるし、自分で銃を撃って、人を殺さずに済むかもしれない」


 時代はちょうど5.15事件が起きた年、世の中は急にどんどん軍国主義が強まって、若者は皆、自分たちの兵役を心配しなければならないような雰囲気になっていた。

 20歳の徴兵検査を、もう昔の様には逃れられなくなっていて、健康な若者はそれから数年の兵役をどの様に終えるかを真剣に考えなければならなくなっていた。

 平和な時代なら、辛くはあっても訓練に明け暮れる数年を我慢すれば、兵役は終わり予備役へと入るのだが、一朝何かあれば辛いだけではなく命の問題になる。 その時に、自分がどういう立場でその場に臨みたいか、そこが問題だった。


 「ペーペーを嫌うのは分かるし、敵を自分の手で殺さねばならない立場になりたくないのも分かる。 でも、その為に自ら志願して軍人になるというのは、それは違うのではないか。 そもそも正に軍人は合わないだろう。

  こんなことなら、どんな無理をしても、正を上の学校に行かせるべきだった」


 繁信は、正夫が自分から軍人の道に進むと決意したことを聞いた時、ほんの少しだけ過去の自分の決断を心から後悔した。


現実世界の少しだけ過去を舞台にすると、この程度の話でも考証が大変です。

とはいえ、間違っていることを書くのも嫌ですから・・・。 そっちに時間がかなり取られてしまい、他の話も含めて更新が遅くなっています。


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