90話:資料室
朝食をとり終えた後、一良とリーゼは資料室へとやってきた。
この資料室はかなりの広さがあるようだが、室内には書類をしまうための背の高い棚が大量に設置されていて少し窮屈に感じる。
棚の間の通路は1人が通る分の隙間しか空けられていないため、すれ違う際は身体がぶつかってしまうことは避けられないだろう。
壁には通気用の隙間こそ空けられてはいるが、窓は1つも設置されていない。
そのため室内は真っ暗で、光源はリーゼが手に持っている手燭の灯りだけだ。
「暗いので、足元に気をつけてくださいね。水車の設計図はこちらです」
リーゼは手燭で足元を照らしながら、資料室の奥へと進む。
一良は室内の棚にきょろきょろと目を走らせながら、棚の間を行くリーゼの背を追った。
「すごい量の書類ですね……重要な書類は全てここに保管されているのですか?」
「はい、お父様の執務室に置かれているものを除けば、重要なものは全てここに保管されています。でも、資料が多すぎて何がどこにあるのか、私も詳しくは分からないんですよね」
棚には細長い木の板が貼り付けられ、何の書類が納められているのかのメモ書きがされている。
棚の中には積み重ねられた皮紙のほかに、丸められた大きな皮紙も数多く保管されていた。
リーゼはそのまま部屋の奥に進むと、壁に取り付けられている燭台の蝋燭に火を移した。
部屋の奥には少し広めにスペースが取られており、2メートルほどの長さの長机が置かれている。
リーゼは最奥にあった棚から丸められた大きな皮紙を1つ取り出すと、手燭を机に置き、皮紙を机の上に広げた。
この場で設計図を一良に見せるつもりのようだ。
「車輪と木箱の部分なのですが、職人さんが少し手を加えて強度を増すように設計し直したみたいなんです。私ではこれでいいのか判断がつかないので、カズラ様に見ていただきたくて……」
リーゼはそう言いながら、図面がめくれないように片手で図面の端を押さえ、頬に流れる髪を耳にかけた。
その仕草が妙に色っぽく、思わず一良はドキドキしてしまう。
「ど、どれどれ……」
リーゼに目を向けないように気をつけながら、一良も片手で皮紙の端を押さえ、図面に目を走らせる。
図面の水車は、一良が描いた図面の水車よりも揚水用の木箱が少し大きくなっており、車輪自体の強度を増すために骨組みも増設されていた。
ぱっと見たところ、設計自体に問題はなさそうだ。
「ふむふむ、揚水量を増やそうとしてるのか。今使ってる水車の揚水量だと足りない感じでしたっけ?」
「いえ、完全に不足しているというわけではないのですが……職人さんと雑談をしていた時に、水路の先にある溜め池に水が溜まるまでにはだいぶ時間がかかると話したことがあったんです。そしたら、その次の日にすぐに職人さんが新しい図面を描いて持ってきてくれて……」
「つ、次の日にですか。それは職人さんたちはずいぶんと頑張りましたね」
「はい。しかもお金は要らないから、使えるかどうかとりあえず見てくれって言ってくれて……何だか申し訳なくて」
どうやら、職人たちはリーゼが困っていると思い込んで、新たに図面を引き直したようだ。
忙しい仕事の合間を縫って、リーゼのためにと大急ぎで描き上げたのだろう。
「なるほど。ということは、まだ製作は始まっていないんですね」
「はい、今のところ、水車の製作には既存の図面のものを使っています。もし製作の許可をいただけるなら、すぐに新しい図面のもので作り始めると職人さんたちは言っていました」
「そっか……なら、とりあえず1台試作してみましょうか。試しに使ってみて、問題がないようなら量産するってことで。すでに作り始めているものも、どこか別の場所で使うことはできるので、そのまま作り上げてもらって構わないです」
一良が許可を出すと、リーゼはほっとしたように微笑んだ。
「よかった……あの、カズラ様、イステール領のために色々と協力していただいて、本当にありがとうございます。なんてお礼を言ったらいいか……」
「いえ、いいんですよ。そんなに気にしないでください」
一良がそう言うと、リーゼは嬉しそうに微笑んで一良に向き直った。
胸元で手をきゅっと握り、敬愛の眼差しを一良に向ける。
「今まで、領内の状況は悪くなる一方で、父も母もとても辛そうでした……でも、カズラ様が来て下さってから、未来に希望が持てるようになりました。私にできることなら、何でもいたします。これからも、カズラ様のお傍でお手伝いをさせてください」
「え、ええ、よろしくお願いしますね」
僅かに上気した顔で見上げてくるリーゼに、一良は言葉を詰まらせながらもなんとか頷く。
リーゼの瞳が若干潤んでいるように見えるのは、暗い部屋の中をゆらゆらと照らす蝋燭の灯りのせいだろうか。
リーゼは再び口を開きかけ、ふと一良の胸元に目を向けた。
「……それは?」
「あ、これですか。アロマペンダントっていうんです」
一良がペンダントを手でつまんでみせると、リーゼは一良に近づいてペンダントに指で触れた。
「綺麗な花の絵……それに、とてもいい香りですね。これは香木ですか?」
「いえ、この木の中には精油っていう薬液を染み込ませた布が入ってるんです。この香りは、その精油のものですね」
「そうなのですか……あの、このペンダントはどちらで?」
そう問いかけるリーゼの表情に、一良は思わず息をのんだ。
すぐ目の前で見上げてくるリーゼの瞳は、確かに僅かに潤んでいた。
だが、その表情は先ほどのものとは違って不安げで、一良の返答に怯えているような儚げなものだ。
やわらかな蝋燭の灯りに照らされたその顔があまりにも美しくて、一良は思わず見入ってしまう。
「せ、先日戻った村で貰いまして」
「村、ですか……平民の方に、ですか?」
「え? ええ、そうですが」
一良が頷くと、リーゼの瞳に微かに喜色が浮かんだかのように見えた。
しかしそれも一瞬で、リーゼは切なげに一良の胸元に目を落とすと、ペンダントに触れていた手をそのまま一良の胸に添えた。
「カズラ様……」
「は、はい!?」
憂いを帯びた表情で見上げてくるリーゼに、一良は緊張で声を裏返して返事をする。
なぜこのような状況になったのか、まったく頭が追いついていなかった。
「カズラ様……私……」
意を決したような表情でリーゼが何か言いかけた時、部屋の入り口の扉が開く音が響いてきた。
その音に驚き、2人は咄嗟に距離を開けてしまう。
「ん? カズラ殿、まだリーゼとこちらにおられたのですか?」
入り口から顔をのぞかせたナルソンは、棚の間から部屋の奥にいる一良とリーゼを見つけると意外そうな表情をみせた。
「はい。今、カズラ様に水車の設計図を見ていただいているところで……」
リーゼは先ほどまでの切なげな表情を消し、いつもの穏やかな表情でナルソンに応対する。
「何もそんな薄暗いところで見ていただかなくとも、外に図面を持ち出せばいいだろう。すぐそこにある談話室でも使えばいいじゃないか」
「いえ、ほんの少し見ていただくだけでいい内容でしたので……お父様は、何の資料をお探しに?」
「うむ、徴兵関連の資料を取りにな。領民の資産をもう一度洗いなおして、徴兵時の装備と編成の区分を分けなおさねばならん。最近は忙しくて、途中まで手を付けて残りは放置していた状態だったからな。ジルが無理して起きだそうとしてきたから、あいつに手を付けられる前に私がやっておくことにしたんだ。早くやらなければと気にしている様子だったからな」
「そうでしたか……お母様の様子はいかがでしたか?」
「少しふらついて目の下に隈ができていたが、そこまで顔色は悪くなかったぞ。今日と明日休ませれば、また職務に復帰できるだろう」
「そうですか……よかった」
ほっとしたように微笑むリーゼを見て、一良は何ともいたたまれない気持ちになった。
ジルコニアが体調を崩している原因は自分にあるのだが、その理由を今この場で言うわけにもいかない。
「ナルソンさん、その仕事の内容を、少し私にも見させてもらえませんか?」
「……よろしいのですか?」
一良の申し出に、ナルソンは驚いた表情をみせた。
今まで一良は軍事関係には一切触れてこなかったので、意外に思うのも当然だろう。
だが、前に軍事について支援を求められた時は遠まわしに断りはしたが、何も絶対に支援を行わないと決めているわけではない。
あの時はこの国の外交状況や領内の状況が全く見えていなかったので、安易に頷くことを避けただけなのだ。
とりあえずは領内の内政に関する支援は進み始めており、支援が必要な分野も少しずつ把握できはじめている。
そろそろ軍事関連についての情報も、知っておいたほうがいいだろう。
ジルコニアに対する罪悪感から、この場で立会いを申し出たということもないとは言い切れないのだが。
「ええ、領内の軍備がどうなっているのか見させてください。私が口を出すかどうかはとりあえず置いておいて、どんな状況にあるのかだけでも教えていただければと」
「分かりました。それでは、早速執務室に参りましょう。リーゼ、書類を運ぶのを手伝ってくれ」
「あ、私も運びますよ」
リーゼはナルソンの下へ歩いていく一良の背を見つめながら、ぎゅっと拳を握り締めていた。
表情こそいつものように穏やかなもののままだが、心の中はまったく穏やかではない。
「(……もう少しだったのに!!)」
先ほど邪魔が入らなければ、リーゼはあのまま一良を落としにかかるつもりだった。
ここに来た時はそこまでするつもりはなかったのだが、先ほどたまたま一良が付けているペンダントの話を聞いて気が変わったのだ。
あのペンダントの贈り主は平民だと一良は言っていた。
もし一良が貴族なら、平民からの贈り物を常に身につけているような真似はしないだろう。
だが、それをしているということは、一良自身も平民であるとみて間違いない。
平民である一良があそこまでナルソンと親しげにしているということは、一良は平民が大きな力を持つ国であるクレイラッツから支援にやってきた有力者ということになる。
隣国の有力者でジルコニアも認めている人物、その上すさまじい金持ちで気前もよく、性格は穏やかで気遣いもできる働き者。
これ以上の優良物件に、リーゼは今まで遭遇したことはなかった。
何やら本国に親しくしている女の影がありそうだが、この間リーゼが渡した『親愛のブレスレット』を受け取ったということは、少なからずリーゼに対して興味を持っているということだろう。
それならば、先制攻撃あるのみだ。
何とかして一良の心を射止め、なし崩し的にでも関係を持ってしまえば、あとはどうとでもなる。
大貴族である領主の娘の自分と一度関係を持ってしまえば、いくらクレイラッツの有力者とはいえ、平民の身分である一良は責任を取らざるをえなくなる。
そうなってしまえば、後はそのまま結婚一直線。
めでたく一良は、イステール家の婿養子ということになるはずだ。
だが、そうなるための重要な第一歩を、よりにもよって自分の父親に邪魔されてしまった。
この場所に入ることのできる人物はごく少数に限られているため、絶対に邪魔は入らないとリーゼは踏んでいたのだが、どうやら判断を誤ってしまったようだ。
あのまま邪魔が入らなければ、かなりいい雰囲気に持っていくことができただろう。
上手くいけば雰囲気に後押しされて、一良から好意の言葉を引き出すことができたかもしれない。
そう考えると、リーゼは歯噛みする思いだった。
「リーゼさん、どうかしましたか?」
その場で立ち尽くしているリーゼに気付き、一良は振り返って首を傾げる。
「いえ、何でもありません」
リーゼは一良に可愛らしく微笑むと、握り締めていた拳をそっと解き、一良の下へと足を向けた。




