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優しい月のトリニティクロス~My dear elder brother~  作者: F/L
二章・氷上の平穏
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42.誓いの呪い

 データ採取が完了し、いよいよここからが本番となる。

 藤原自身が執刀するのは、かなり久しい。いつもは技術開発の方に徹しているからだ。

 今までは彼抜きでもどうにかこなせる範囲であったが、流石にこの最終調整の段階ともなると藤原の力に頼わざるを得ない。

 後少しとは言ったものの、もしここで藤原を外すとなると、別のスタッフの技術訓練や技術・設備開発などで半年近くは遅れることになる筈なので、やはりどうあっても藤原を外すということは出来ない。

「先ずは右眼の義眼ちゃちなおもちゃから入れ替えるぞ」

 藤原が他のメンバーに指揮をとる。

 おもちゃなどと称しているが、それも以前藤原自身が手掛けた、当時の最高傑作である。現時点でも、その眼に金額を付けるなら3億円は下らない代物だ。

 スタッフの一人が注射を打とうとする。しかし、

「おいっ!! 何しようとしてる」

 藤原がそのスタッフを咎めた。

「はいっ? いや、普通に麻酔ですけど……」

「必要ない。無駄だ、止めろ」

「しかし!! それ――

「必要ない」

 藤原が鋭くいい放ち、まだ若いスタッフは気おされて身を引いた。

 別室でそれを見ていた神埜がそれを黙って見過ごす筈がない。

 自分の前にあるガラスの壁を割れない程度の力で殴りつけた。そのとたんに、ラボ側の部屋全体に大きな衝撃が駆け抜ける。

 大抵の者ならば、その顔を見た瞬間におののくであろう形相で、神埜がガラス越しに藤原を見降ろす。藤原以外のスタッフたちは、恐怖に震える他にない。

「藤原さん、それはどういう事か説明して貰えますか?」

 傍聴室からの声は本来有線回線でしか届かないが、そんな手間を掛けていられる様な状況ではないので、神埜は魔法で隣の部屋に直接声を響かせた。

 藤原はいかにも面倒だという態度を全面に出して答える。

「お嬢さんだって知ってるでしょう、こいつの体質からだのことは? 麻酔をするだけ無駄ですよ。金の無駄だ」

 彼の体質は知っている。あらゆる毒素というものを排除する特殊な血液。例えどれ程の猛毒であろうと、5分もあれば浄化出来るという効能を持つ。

 しかし、彼の場合、この血の力が常に効果的とは限らない。

 今という場合がそれに当たる。麻酔の効果が5分と持たずに消えてしまうのだ。

 確かに途方もない麻酔の量が必要となる。

「この施設に関わる全てが蒼縁の出資によってまかなわれています。金銭のことを貴方が気に病むことはないでしょう?」

「やれやれ、これだからお嬢様は……。その金はお嬢さん自身で稼いだものじゃあないでしょう。そうやって、あんたら裕福層が――

「藤原先生」

 藤原の言葉に徐々に感情がこもり始めたのを感じて、途中で言葉を遮った。

「そのままお願いします。神埜ももういい、これは、僕が選んだことだ。文句は言わせない。暫くアストラルとのラインを切っておけば、激痛で苦しむこともないから、大丈夫だよ」

 そんなことが何の気休めにもならないのは知っている。しかし、彼がそう言う以上、最早自分からはどうすることも出来ない神埜は、にがにがしく顔を歪めながら、席についた。

 確かに苦しむことはない。だが、それはそれだけの話であって、痛みが消えるわけではない。

 苦しみという感覚がなければ、どれ程の痛みを伴おうとも、ただ痛いと感じるだけだ。だが、だからなんだというのだろう、痛みを感じているのであれば、結局同じことではないか……なんの解決にも、なんの慰めにも、なんの救いもありはしないのだから。


※※※※


「いつか……いつか、二人で桜を見に行かないか? それがいつになるかは分からないし、必ず出来るという保証もないけど、どうかな?」

 会話の無かった車内で、彼の方から神埜に、今までの無言の時間の気まずさなどなかったかの様に、訊いてきた。

 謝罪も感謝も労いの言葉も、どれを言ったところで今の神埜に届きはしないことを、誰よりも知っている。故に、過ぎた時間かこに対することではなく、これからの可能性みらいについての話を繰り出した。

「――っ!!」

 神埜は息を呑んだ。

「知って……いたの、ですか…………」

 神埜の声は震えていた。

 それはいつかの約束。彼のとではない、“彼の所為”で果されることのなかった些細な約束。

 しかし、今なら分かる。彼自身がそれをどれ程望んでいなかったのかを。

「まあね……、僕が言うのもおこがましい話なのかも知れないけど、今の神埜なら僕と、そうしてくれると思ったから」

 自惚れ過ぎかな? と、おどけてみせる。

 当時自分はどれ程彼を攻め立てただろう……幼いながらに、知りえる限り全ての蔑みの言葉を叩き付けた筈だ。そんな自分に対して、どうしてこの人はこれ程までに、優しくあれるのか……

 そして、その優しさがあまりにも温かく、嬉しすぎて……また、痛かった。

「貴方が……兄様がそれを望んで下さるのなら、私の心は決まっています」

「そうか。なら、いつか行けるといいね」

 そう言って、左手を縦にして差し出した。

 神埜も左手を、しかし神埜は横にして差し出した。そして、お互いの薬指を絡め合い、拳を握る。

 心許しあえた者同士が交わす誓いのまじない。その誓いを違えるときは、死を持ってしかあり得ないという、生涯を掛けたの誓い方だ。

「結婚するわけでもないのに、何かこども見たいですね」

「そうだね」

 こんな誓い方をするのは、それこそ真剣な付き合いをする大人か、何事も大げさに騒ぎ立てるこどものどちらかでしかない。

 自分たちの間柄を考えれば、児戯の様にしか感じられずに、神埜は思わず笑ってしまった。

 よく言われる台詞ではあるが、どうしても言わずにはいられなかった。

「やっと、笑ってくれたね」

 そう指摘されて、神埜は俯き恥ずかしげに頬を染めていた。

 彼女の笑顔は、7年前から失われたままだった。

 そして、彼女の自分に向けられた笑顔というものが、実のところこれが初めてなので、喜びも一入というものだ。

 神埜にもいつか、その笑顔でいることが当たり前である様なときが来ることを、誰よりも強く願った。

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