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72.放っておけない、諦め切れない浪漫が多過ぎる(三)


 ヴァンスは手のひらに載せた白いもの――米粒をじっと見つめていた。

 丸みを帯びた粒で、硬くて少し透き通っており、鼻を近づけると穀物の香りがほんのりする。


「うーむ、全く知らン穀物ですなァ。大麦に似てるが。エールを仕込む要領でやってみるかぁ」


 見たことも聞いたこともなかった未知の穀物――「こめ」とやらで酒を造るのが、勇者トールことイナサーク辺境伯と家臣達からの依頼である。

 全力を尽くさねばならンなあ、とヴァンスは気合を入れていた。



 ヴァンスは流浪の酒造職人である。

 あちこちの街や村へ赴いて、その地の産物で酒を仕込む。

 腕の良い職人が醸造魔法を駆使すれば、長くても半年ほどで出来上がる。

 完成した酒を引き渡して金をもらう。

 そしてまた、他の土地へ流れていく。

 そういう職人だ。


 醸造魔法はなかなか複雑で、誰にでも使えるものではない。

 だから、うまい酒を造れる職人は重宝される――ただし、それは酒が完成するまでの話だ。

 出来上がった後は、次の原料となる作物が実るまで仕事がない。原料は大麦や葡萄、林檎が多く、酒造りはほぼ一年に一回やれば十分なのである。

 その間、酒造以外の仕事に従事する職人も少なくないが、ヴァンスはどうも性に合わなかった。それで新しい仕事、新しい酒を求めてフラフラする生活を送っていたのだ。


 酒は嗜好品だから、食料の余剰がなければ造れない。

 戦が終わって景気は良くなってきたが、地方都市はまだ厳しい。

 いつかは自分の工房を持ちたいが、難しいだろう――

 諦めかけていたところに降って湧いた仕事であったから、ヴァンスのやる気が暴走するのも無理はなかった。



 少々無茶が過ぎて田に落ちるという失態を演じたものの、勇者屋敷に辿り着いたので良しとしよう。

 泥まみれになった服を着替えて早速、勇者に謁見させてもらう。

 ……謁見という言葉が場違いなほど、場の空気は砕けたものだった。

 トールその人からして、先程と変わらない普段着でニコニコしており、領主らしさも貴族らしさも勇者らしさもなく、人の好さそうな青年にしか見えない。


 どんな酒を造りたいんで? と訊くと、勇者はちょっと困った顔をした。


「俺の故郷にあった米の酒を目指したいところなんだけど。素材がちょっと違って、酒を造る専用の米じゃないんだ。でも、できない訳じゃないと思う」


 酒米、または酒造好適米と呼ばれる米が、勇者の祖国にはあったそうだ。


「酒の造りやすさや、できた酒の味に違いが出るんでしょうなァ」


 ヴァンスも専門家。理解が早い。


「たぶんな……だけど俺ね、元の世界では未成年扱いで、酒を呑んじゃいけなかったんだ。飲酒したことないから味の良し悪しとか、再現できてるかとか分かんないんだよな」


「おいおい。難易度が高いですぜ」


「だろ? だからさ、元の世界のことは気にしなくていいよ。勇者の体質だと、いくら呑んでも酔わないっぽいし……俺が、じゃなくてシャダルム達やヴァンスが呑んで美味いと思う酒ができれば、それでいいかな」


 勇者は、隣に座っている大男に目をやった。

 こちらも有名人、英雄の一人である騎士……元騎士のシャダルムだ。

 騎士団を引退し、今は家臣としてトールに仕えている。

 トールと、ついでにヴァンスの視線を受けてシャダルムはうなずいた。


「うむ。私や、他の者もそこまで味にうるさくはないぞ。ひとまず、造ってみるところから頼みたい」


 何とも鷹揚な話である。

 が、何しろ未知数の酒造りだ。ヴァンスの腕と舌に任せてもらえるなら、職人冥利に尽きる。


「もちろん全力でやらせていただきますぜ。あとは……水をどうするのか、ですな」


「水? 魔法で出すんじゃないのか?」


「エール酒造りでは大量の水を使うんで、〈水生成〉だと魔力が追っつかねえんでさ。井戸水や湧き水に清浄魔法を掛けて……ついでに造りたい酒に合わせて水の性質もいくらか調整するって訳です」


 麦で仕込むエール酒に準じて米の酒を仕込むなら、綺麗な水が潤沢に必要だ。

 ヴァンスはそこそこの魔力を持っているものの、醸造魔法を使うと他に回す余力がなくなってしまう。

 水は別口で調達して魔法で水質の浄化・調整をし、酒造りに利用するのが普通であった。


「特に……硬い水と、軟らかい水。どっちを使うかで酒の味わいや色が変わるんで。決め手の一つですなァ」


「へー、硬水と軟水って、こっちにもあるんだ」


「勇者様もご存知でしたか」


「一応ね。日本は軟水が多いって言われてたかな」


「ほお。ならば米の酒も、それでやってみましょうや」


「分かった。田んぼを見回ってから井戸掘っとくよ」


 さらっと、とんでもないことを勇者は言った。


「井戸ってえのは、んな簡単にできるもんじゃないと思ってたんですがね……」


 魔法使いが多いラクサ王国でも、井戸の建設はそれなりに魔力を食う一大事業である。


聖剣(イクス)でズバーッてやったら、すぐだろ?」


 大地を穿つ勇者の一撃なら、できそうではあるが――

 シャダルムが、むぅんと唸った。


「待てトール。色々と影響が大きくなり過ぎそうだ。フェンに頼んだ方がいい、聖剣は自重してくれ」


「えー、信用ないな?」


「いつだったか……トールの故郷には、甘い果実水が湧く不思議な井戸の伝説がある――と言っていたではないか。果実水や温泉や、ひょっとして酒そのものが湧き出る奇跡の井戸になりかねん」


「……それはミカンジュースが出る都市伝説の蛇口だよ! おとぎ話みたいなやつで実在じゃない! だいたい、なんで軽い雑談の内容を覚えてるんだよ?!」


「ぬう。あまりに奇天烈な話だったからだが。それに、向こうで井戸は一般的ではなくスイドウというものを使っていたとも言っていたはずだな? イメージが大雑把過ぎて非常に不安だ。ただでさえトールだと斜め上になるからな……」


「……ちくしょー、反論できない……」


 うなだれるトール。勇者の偉大さはどこへ行ったのか。


「……おぉう……反論できんって、どーゆーこった。さすが勇者様って言やぁいいンか……?」


 何となくヴァンスも察した。

 本来の勇者トールはこういう人柄なんだな、と。

 しかし……みかんじゅーす、とは何だ?

 勇者の言葉には時々、不思議な響きが混じる。

 大いにヴァンスは戸惑ったが、とにかく水関連の整備に関しては魔術師のフェンに依頼する……そしてフェンは今日、開拓で外出しているため詳細は後日――ということで話はまとまった。


「――それとですな。こいつぁ完全にこっちの我儘なんですが、二人ほど仲間を呼び寄せても構わんですかね?」


 ヴァンスは気を取り直し、頼み事をした。


「酒造職人ってことか?」


「ですなァ。同じ工房にいた……まあ、おれの舎弟のようなもんでして。どっかで職にありつけていりゃあ問題はねえンですが、苦労してるようなら何とかしてやりてえ」


「……工房を離れた理由による。聞かせてもらっても?」


「ええまあ。よくある下らん話ですがね。工房主のせがれとそりが合わなかったンでさ」


 ヴァンスは大手の酒造工房で技術を学んだ。工房の親方は厳しいながらも優れた職人で、びしばし弟子をしごいたという。

 しかし親方の後継ぎである彼の息子は、腕は悪くないのだが、ヴァンスと仲が良くなかった。


「そういう時に、親方がまだ若いのに急死しまして。せがれが新しい親方になって、おれぁ余計に居づらくなった。もう何人か合わん奴がいまして、一緒に出てきたって訳です」


 その中でも特に気心の知れた二人を、本人のやる気次第ではあるが呼び寄せたい。

 よっぽど幸運を掴んだのでもなければ、ヴァンスと同様に苦労しているはずなのである。


「ふむ……手癖や酒癖が悪い者ではないのだな。問題はないか。トールはどうだ?」


「別にいいんじゃないか? もし〈伝書〉で連絡するんだったら、フェンかセレストに頼んでくれ」


「ありがてえ! ご恩は酒で返しますぜ! 出来上がったら、勇者様も味見くらいはしてくださいよ?」


「碌な感想が言えないと思うけど、それでよければ?」


「トール。逆に酔いで誤魔化されずに、味の判定ができるのではないか?」


「あーそうか。そういや利酒(ききざけ)って、酔うと味覚が鈍っちゃうから味見だけして吐き出すってテレビで……ええと、そういう話を聞いたことある。もったいないなーって、うちのじいちゃんは言ってたっけ」


「そんなモン、酔い覚ましの魔法を……って、そういや魔法が無いんでしたかね、勇者様のお国は」


 酔い覚ましの魔法は、正式には〈澄明〉と言って回復魔法の一種であり、酔いや眠気を覚ます効果がある。

 神官ならば泥酔している相手でもシャッキリさせることが可能で、一般庶民も二日酔いくらいはこの魔法で解決しているのだ。

 だが、勇者の住んでいた異世界には――


「うん、ないなー。シジミの味噌汁、えーと小さい貝を入れたスープの一種だけど、二日酔いの時に飲むとちょっとマシになるって言われてたくらいじゃないかな。基本は気休め?」


「ほほぅ。興味深いですが、だからと言って酒を吐き出すなんざぁ誠にもったいないですな」


「全くだ。トールなら飲み込んでも大丈夫だな、頼んだぞ」


「えええ……やってはみるけど、俺が食レポなんて無理じゃね?」


「んあ? しょくれーぽとは?」


 また意味の分からない単語が出た。


「トールの故郷の言葉か? こちらにないものだと、女神の恩恵たる自動翻訳が効かないのだが」


 事情を知るシャダルムが、さりげなく教えてくれる。


「食べたり飲んだりして味の感想を細かく言うやつだけど……俺はコクがどうとかキレや喉越しがどうとか言われても分かんないって。期待しないでくれよ」


 適当にやればいいのに、妙なところで律儀な勇者であった。



 そんなこんなで、しばらく話し合った後――



「……しかし、なんですな。勇者様ってのは、ああ見えて案外に不自由なんですなァ」


 改めて農作業に行く、と勇者が部屋を出ていったのを見送って、ヴァンスは独り言のように本音をつぶやいた。


「うむ……分かるか? 魔力とスキルが強過ぎるのだ」


 同意するシャダルム。


「雨も降り過ぎれば麦が腐ると言うでしょう。楽しいことがあっても呑んで騒げん、嫌なことがあっても呑んで忘れられンってのは気の毒ですわ」


 過ぎたるは尚及ばざるが如し、を意味するラクサの言い回しをヴァンスは口にした。

 飲兵衛(のんべえ)丸出しの言い方だが、一面の真実である。

 シャダルムも再びうなずく。


「本人があまり気にしない性格で良かったというところだ。……トールも単純に酒がうまいと思えるようになってくれればいいのだがな」


「ははぁ、そいつが本命の理由ですか。責任重大ですなぁ」


「うむ。逃げ出したくなったか?」


「まさか!」


 ヴァンスはふてぶてしく笑ってみせた。


「勇者様にうまいと言わせる。……職人の浪漫でしょうよ」



✳︎✳︎✳︎



 シファーは手のひらに載せた白いもの――勇者から譲り受けた異世界の紙をじっと見つめていた。

 薄いのに丈夫で、つるりとしていて、書き物に使うための横線が等間隔に……全く同じ幅で真っ直ぐ、何本も引かれている紙。

 その横線に指の腹を当てて、こすってみてもインクがつかない。

 この線はどうやって付けてあるのか。

 そもそも、紙の材質は……


「見たことも聞いたこともありません……こ、これは本当に一体全体……」


 ひそかに唸っていると、正面にいる相手から声がかかった。


「そんなもんで足りるかい? トールが気にしてたよ」


 向かい合って座っている、その人の名はマーシェ。

 女性ながら勇者パーティーに加わっていた英雄の一人、元・特級冒険者の弓使いである。

 今は冒険者を引退し、家臣としてトールに仕えている。

 シファーは急いで顔を上げた。


「十分過ぎるほどです! このたびは厚かましいお願いを聞いていただきまして……」



 ――そもそもの話、シファーは呼ばれてもいないのに押し掛けた身である。

 寛大な勇者と仲間達のおかげで、職人として住まわせてもらえることになった。

 それだけでもありがたい話なのだが、実はもう一つ必要なものがあった。

 それが作りたいものの見本――勇者トールが所有する異世界の紙である。

 以前、魔術師マイカに見せてもらっただけでは心許ない。再現に挑むならば実物がほしい。

 だが、これ以上の要求をするなんて図々しいのでは……ただでさえ世話になっておきながら。

 悶々としつつも背に腹は変えられず、コルトを通じて申し出たところ、こうして呼び出され……あっさりとトールのノートの白紙をもらってしまったのである。二枚も。


「まあまあ、そんな畏まらなくていいから。この場にはあたししかいないんだ、もっと楽にしておくれ」


「は、はい。申し訳ありません」


 シファーは男性が少し苦手だ。

 それを見て取ったマーシェは、女性同士で気を使わせないよう取りはからってくれたようだった。


「シファーがいた工房は、女性職人が多かったのかい?」


「そうです、工房主の大姐(おおねえ)さんをはじめ、紙漉きの仕事は女が中心で。大姐さんの旦那さんや、一族の男性が主に仕入れや売買の仕事を受け持っていたんです」


 シファーは王都ラクサミレスにほど近い、紙漉きの盛んな村に生まれた。

 大人しく真面目な性格の彼女は、ひたすら毎日のように紙を漉いていたのだが……少し前、研究塔の魔術師マイカ・ハウストから「見てほしいものがある」と言われて久しぶりに外出した。

 そしてマイカに見せられた紙飛行機に驚愕し、この紙のことをぜひ知りたいと思い詰めてイナサーク領へやってきたのである。


「あたしが言うのもアレだが、思い切ったね。女の一人旅だろ?」


「ええ、まあ。大姐さんは、新しい紙を作りたいという気持ちを理解してくれて餞別も頂きましたが、一族には反対する人もいて……」


「まあ、そうだろうねえ」


「女に何ができる、と叔父や従兄弟に言われてしまいまして……『私一人でも何とかしてみせる!』と意固地になってしまったところはあります……運良く無事に拾っていただいたので、大姐さんに今度便りを出そうかと」


「うん、了解だよ。女一人で心細いかもしれないけど、何でも相談しとくれ。野郎どもに言いにくいんなら、あたしやセレストでもいい……後で、シャダルムの奥方のリンテ夫人も紹介するよ」


「あ、ありがとうございます……!」


 恐縮するシファーに対し、マーシェはニコッと笑った。


「……トールはね。女の癖にとか、女が出しゃばるな、とか、あたしの記憶にある限り一度も言ったことがないんだ。自分より年下のセレストにだって意見を聞くし、分かんないことがあったら教えてくれって、素直に頼んでくる」


「そ……そうなのですか」


「うんうん。あたしも女冒険者なんてやってたから、最初は新鮮だったねえ。あいつの得難いところだって思ってる。で、これは物凄く大きなお世話ってやつなんだけど……トールは誰にでも、そうなんだよ。親切で優しくてお人好し。そこだけ分かっておいてほしいのさ」


「…………」


 シファーも伊達に、女の園で育ってきていない。すぐ、うなずいた。


「勘違いしてはいけないということですね」


「小姑みたいな言い方で悪いねえ。でも実際問題、旅の間もあったんだよ。そういうの」


 マーシェは、シファーの手にある白い紙に目を向けた。


「その紙もさ……トールの国ではありふれた品だったとかで、ちっとも頓着しないんだよね。こっちだと、ぶっ飛んだ高級品だけど」


「ええ、値段もつけられないでしょう。あくまで研究用に頂く方が、私も気が楽です。お気付きでしょうが、私は男性の方が少し苦手で。仕事でないと、ろくに口もきけないほどです」


 シファーは、すっと紙を目の前にかざした。


「なので、これは職人として申し上げるのですが……この紙には二枚とも、隅に寸分違わぬ模様もしくは文字のようなものが入っています。これは何なのか、勇者様にお伺いすることは可能でしょうか?」


「ああ、気付いたかい? 実はコルト達にも紙を見せたら、同じ質問をされてね。トールによれば、この紙を作った工房の屋号だそうだよ」


 日本風に言えば、メーカーのロゴマーク。それがページの片隅に小さくプリントされている。

 シファーは感心した様子を見せた。


「魔法を使わずとも、ぴったりに描き入れることができるものなのですね」


 ――魔術大国たるラクサには〈転写〉と呼ばれる魔法がある。

 魔力に反応する特殊な紙に、これも魔力の篭った特殊なインクで文字を書く。そして転写魔法を使うと、別の魔法紙に全く同じ内容を複製することができる。

 しかし転写する枚数が増えるほど、非常に魔力を消費する。また、原本の紙やインクの魔力が抜けると転写できなくなってしまう。そのため重要書類の副本や契約書の作成で使われる場合が多い。

 本の大量生産にはあまり向かないが、ルリヤ神殿では多数の神官を動員して一斉に転写魔法を使うという、一種の荒技で書物を制作している。


 だが、勇者の祖国に魔法は存在しない。


「うん、そこも聞いたよ。それでトールの話を色々聞きほじって、コルト達が試しに作ってくれたのが……こいつさね」


ぶつ切りですみません。

まだ続きます。

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