66.晴れ渡る空、翔べたなら(四)
異世界ニホンから召喚された勇者トールと、魔術師フェニックスが初めて顔を合わせたのは、もう四年も前の話になる。
その日、フェニックスは師団長ロジオンに呼び戻され、久しぶりに王都の土を踏んだ。
「すっかり一人前の顔になりましたね、フェン。君の活躍は聞いていますよ」
魔術師団本部では、ロジオンが穏やかに彼を迎える。
長命のロジオンは全く容姿が変わらない。
一方、成人してすぐにスピノエス戦線へ送り出され、三年ぶりに帰ってきたフェニックスはこの時十九歳。背が伸びて子供っぽさが抜け――元から可愛げなどは欠片もなかったが――、誰もが一目置く魔術師になっていた。
「……悪運が強いだけです」
彼が改まった言葉遣いをする相手は師ロジオンをはじめ、ごくわずかだ。
ロジオンはにこりと笑って、おもむろに切り出した。
「君を呼んだ理由は分かりますか?」
「何となくでしたら。勇者が召喚された件、と思ってますが?」
ひと月ほど前に、勇者召喚が行われ――成功した。
異世界から勇者の素質を持つ一人の青年がやってきたのだ。
だが実力ある魔術師でありながら、フェニックスは召喚の儀式に呼ばれなかった。
その時点で察するものはあった。ロジオンはフェニックスを勇者に同行させるつもりなのだ、と。
「ええ、そうです……やってくれますか、フェン」
師団長として命じればいいものを、ロジオンはあえて尋ねてくる。
「オレは構いませんが。お偉い勇者様とやらを怒らせるんじゃあないですかね? なに考えてるんですか」
フェニックスは無愛想に言った。
魔術師団でも十指に入る攻撃魔術の使い手、フェニックス。
だが彼には協調性というものがなかった。
人付き合いの悪い自覚はある。とにかく彼は他の人間……特に魔力持ちが嫌いだった。どうしても神経に障るのだ。魔力が高い者に、稀に見られる弊害だった。
「私の見立てでは『彼』……トール君なら大丈夫だと思うのですけどね。しかし万が一という可能性もありますから、非公式に顔合わせをしてもらおうかと思っています。合わないとお互い不幸ですからね、君とトラスみたいに」
「…………」
フェニックスは無言で顔をしかめ、ロジオンは小さく笑う。
「今、彼は修練室で魔法の練習をしています。ちょっと苦戦しているようですから、教えてあげてください。その結果で判断します」
意外なことを言われて瞬きをした。
「勇者スキルがあるのに高度な魔法は必要ないでしょうが」
「いえ、初級魔法です。勇者は魔法のない世界から召喚されますので、彼にとって魔法は空想の産物で見たことも触ったこともなかったそうですよ」
ロジオンは楽しそうであった。魔法のない異世界というものに、好奇心を刺激されているのだろう。
「私が教えてあげたいところですけども。このところ忙しくて、まとまった時間が取れそうにありません」
言って初級魔法なら誰でもできる、はずだった。
最初は王城の使用人が勇者の魔法習得を手伝っていたものの、思ったように身に付かないという理由で今日から師団本部に来ているという。
もちろん偶然ではなく、ロジオンが弟子の帰還する日に合わせたのだろう。
「先程、君も言った通りです。勇者にとって魔法の優先順位は高くありません。後回しになりがちで、あまり進んでいない模様です」
「は、大した勇者様ですね。まあ、やりますよ」
フェニックスは取り立てて仕事の選り好みはしない。言われればやる。三年前、最も過酷と言われたスピノエス方面へ派遣された時もそうだった。
勇者に同行するのは、名誉ある役割とは言える。
だがフェニックスは単に面倒そうな任務だな、としか思わなかった。
相手が師であるロジオンで、自分に回ってくる理由も分かるから断らないだけだ。
「頼みましたよ。ああ、どう頑張っても合わない、できないと思ったら言ってください。義務感だけで何とかなるほど甘いものではありませんからね、魔王に挑むというのは」
――王の御前会議に出るというロジオンを見送ってから、フェニックスは修練室へ向かった。
師団には魔術師達が技を磨くために、修練室が設けられている。
壁や天井には魔力を弾く特殊な塗料が使われており、魔法や魔術に対する防御力があった。
その上に魔力の操作を助ける魔術陣が描かれており、いくらか魔法を使いやすくしてくれる。
とは言え、強過ぎる魔力をぶつけると壊れるので万能ではない。候補生だった頃のフェニックスがよくやっていたように。
ただし今は――魔王軍との戦いで多くの魔術師が戦地へ派遣されている。修練室の利用者はまばらだった。
(――アイツか)
入室してぐるりと見渡せば、窓際に二つの影がある。
片方は魔術師とは異なる、知らない魔力をまとっている。
あれが勇者だろう。
しかし、どう見てもフェニックスよりも若く、背もいくらか低い。ひ弱そうでさえある。
(まさか未成年じゃねえだろうな……)
そんな勇者の隣には、中級魔術師らしき女がいる。たぶん顔を見たことはあるが名前は忘れた――と言うか覚えていない。
女は甘ったるい声で勇者に話し掛けている。魔法を教えているという雰囲気ではない。
勇者の方は、と見れば態度に困惑がありありと出ているものの、女がしつこいので追い出せない模様である。
「――おい」
近寄って声を掛けると、ぎくっと女の肩が跳ねた。
フェニックスの接近に気付かないのだから、中級は中級でも程度が知れる。
「フェニックス?! なんでここに……スピノエスにいたんじゃ」
「居て悪かったな。師団長の指示だ、魔法のご指導とやらはオレが代わる。使えねェやつは消えろ」
「なっ……!」
女は口をぱくぱくさせていたが、魔法の練習はそっちのけで勇者に粉を掛けているところを見られてしまった訳で、言い逃れしようがない。フェニックスが軽く睨むと顔色を青くし、小走りに修練室を出ていった。
「――あんたもあんただ。本気で魔法を身に付ける気があるんですか、勇者様?」
言い方はぎりぎり丁寧にしているが、内容は侮辱とも取られかねない暴言であった。
かなりの皮肉を聞かされても勇者は怒らず、へにょりと眉を下げる。
「ある。こっちじゃ魔法が使えないとすごく不便だし。でも、さっきの人やんわり断っても離れてくれないからさ、どうしようかと思ってた。ありがとう」
全く頼りない返答である。
「……命じればいいでしょうが。勇者に逆らえるやつなんていない」
「命令するのって好きじゃない」
寝ぼけたことを言っている。フェニックスはフンと息を吐いた。
「オレはフェニックス。師団長に言われて勇者様の修練のご様子を見に伺いましたよっと。――で? 魔法が分からないってのはどの辺りが?」
簡単に挨拶を済ませた後、勇者に尋ねる。
「ああ。うーん。申し訳ないんだけど全部?」
「全部ね……」
――説明させようにも埒が開かないので、実際に簡単な魔法として〈水生成〉を使わせてみる。
深い意図はなかった。
この〈水生成〉は最初に習得する魔法として最も一般的だ。
誰でも使える簡単な構造であり、また人間の生命維持に必須な飲み水を得る魔法でもある。
火魔法と違って制御を誤ったから火傷をするということもない。
だが勇者の〈水生成〉は、実に豪快だった。
ぶわっ、と膨れ上がる魔力。
それが端の方から水へ変わっていくのを見て、フェニックスは己れの失敗を悟った。
(――ふざけてやがる!)
やり過ぎだ、これでは水塊に押し潰されてしまう。
杖を持ち直し、問答無用で魔法の制御を奪い取った。
勇者が「あれ?」と間抜けな声を出すのも構わず、風の魔術で窓を開ける。
一層、巨大化する水魔法を強引に外へ追い出した。
が、そのまま放ると階下で圧死する者が出かねない。修練室は三階にある。
小さな水滴に細分化して風に乗せ、ばら撒いた。
どばっしゃーん、と派手派手しい轟音が響き渡る。
超局地的な豪雨と化した魔法が降り注いだためである。
「うえっ?! なんだ今の?!」
理解できていない勇者。
「溺死させる気か! 初級魔法で!」
凶相になるフェニックス。
「どういうこと?」
「……どうもこうも」
怒鳴りつけてやりたいが、相手は勇者。国王に匹敵する……否、それ以上に身分の高い人間だ。フェニックスはどうにか激情を抑えた。
「その、本当にいま何が起きたか分からないんだ。説明、してもらえるか?」
「……魔法が暴発して全員溺れるところだったんですが?」
「ご、ごめん。それは申し訳ない」
勇者が即座に謝った。一瞬のためらいもなかったので、フェニックスは逆に面食らう。
身分の高い者は、そう簡単に謝罪をしない。
してはいけないとも言う。
この場合、勇者ではなくフェニックスの教え方が悪かったということになる、のだが。普通は。
「俺が間違ったのを何とかしてくれたんだよな?」
「……時間がなかったんで制御を奪って、魔法は部屋の外へ出しました」
「じゃあ外から凄い悲鳴が聞こえたのは……」
「ずぶ濡れになったやつでもいたんでしょう」
たまたま修練室の近くにいただけで、頭上から時ならぬ土砂降りに襲われたことになる。
巻き込まれた者には災難としか言えないが、フェニックスにもあれ以上の対応は難しかった。
他人の魔法を横から奪い取るのは、それなりに高等技術である。
勇者は魔法の素人で操作は拙かったものの、魔力量は凄まじい。かなり苦労した。
さらに窓をこじ開けるのも、水塊を刻んで小さく分けるのも、広範囲に撒くのも同時並行だ。
フェニックスだったから、被害がこの程度で済んだと言える。
「今まで無かったんですかね、こういう事故は」
「そもそも魔法が発動したことがなかったんだ」
「……なるほど?」
これまで発動したことがなかったので、勇者本人を含めて誰も知らなかった。
修練室では魔法の行使に補助が働くため、皮肉にも暴発に至ったということか。
そう考えると、さっきの女が勇者の邪魔をしていたのは結果的に正解だったのかもしれない。
感謝はしたくないが。
「こ、こういう場合どうしたら……土下座して謝る? 異世界で通じるかな」
「ドゲザがなんだか知りませんが結構。下にいたやつだって死にはしねえ。魔術師ならこの程度、対処できなきゃ魔物と戦えないんでね。済まないと思ってくれるんでしたら、さっさと魔法の制御を身に付けてもらいましょうか」
「うう。分かった……」
勇者は大人しくうなずいた。
真面目で人の好い性格なのだろう、良くも悪くもギラついたところがない。
そして魔力というものに対して非常に鈍感だ。
魔力のない異世界で生まれ育ったこと。
魔法と極めて相性の悪い勇者スキルを保有していること。
そういう仕方ない面はあるが、それにしても酷い。
(できるのかよ、こんなやつに? 魔王を倒すだなんて大それたことが)
何かの間違いで召喚されたのではないかと疑わしくなるほどだった。
そもそも未成年に見えるのが良くない。
年齢を訊いてみると十六歳だと言うのだが……
「俺の国だと成人は十八歳で、一人前って見なされるのは二十歳過ぎてからなんだ。でもこっちだと俺も一応、大人扱いなんだろ?」
勇者は元の世界で「ニホン」という国に住んでいた。他国人からは実年齢より若く見られる傾向があったという。
(……それを信じろってか。嘘ではなさそうだが)
考えていたことが顔に出ていたのだろうか、勇者が付け足す。
「召喚された日が誕生日だから間違いじゃないよ」
「……誕生日?」
「生まれた日のことだけど」
「生まれた日から年齢を計算してるのか?」
「もちろん。あれ? 異世界だと違うとか?」
「どこの国でも新年が明けると一つ年を取る。生まれた日が記録されるなんざ王族ぐらいだぜ……お前、今の話を誰かに言ったことはねえだろうな? 特に師団長」
「ロジオン師? いや、ないと思う」
「言うな」
「え?」
「召喚された日が誕生日だったのは言うんじゃねえ。偉大なる勇者様の降誕記念日を盛大に祝ってほしいんだったら、話は別だがな」
「ないって! 小さい子供じゃないんだから。恥ずい」
「じゃあ黙っとけ。……っと」
思わず地が出てしまっていたことに気付く。
ところが勇者は、ふっと表情を崩した。
「あ、いいよ、言葉遣いそのままで。俺の方が歳下だろ、魔法教えてもらうんだし」
「……しかし」
「ほんとは俺、自分がこういう偉そうな言葉遣いするのも嫌いなんだよな。勇者だから、簡単に頭を下げちゃいけないらしいけど」
「…………そうだな、調子が狂うわ」
フェニックスは赤毛をぐしゃぐしゃと掻き回す。
勇者は少し疲れたように笑った。
「悪いなー。でも俺がいた国って身分制度がなかったんだ。昔はあったけど今はない。急に自分が他の人より偉いって言われても正直慣れない。あとそんな傲慢な人間になりたくない」
「――変わったやつだな」
「やっぱりダメかな?」
「いや。まあいい。……魔法だが、注ぎ込む魔力をとりあえず半分にしろ」
いつもの口調で言い捨てると、相手の表情はむしろ明るくなった。
「そんな少なくていいのか?」
「うるせえ。とっととやれ、まだ発動させるなよ。終わったら、さらに半分」
「え。もっと下があった?!」
「そこから半分の半分」
「十六分の一じゃないか」
「計算だけはずいぶん早ぇな? 魔力の操作もそのぐらい熱心にやってほしいぜ」
「い、今やってる!」
勇者は四苦八苦して魔力を調節する。
真剣にやっているのは分かる。
ところが、その割に魔力の動きは戸惑い気味だ。のたのた、もたもたとしている。
ひと月もの間、ずっとこの調子だったのか。
さぼっていた風ではなさそうなので、壊滅的に向いていないのだろう――と考えつつ、フェニックスはその様子を眺めた。
「……よし。本当はその四割七部二厘と少々だが、何とかなるだろう」
ようやく魔力を整え終わった勇者は、不貞腐れた表情をする。
「魔法って魔力が多くても発動はするはずだって言われたんだけど」
「まあな、魔術と違って魔法は多少雑にやっても使えるは使える。だが基本量の二倍か三倍ってところだ。間違っても十六倍以上ぶっ込むのは想定外だっつぅの。限度ってものを理解しやがれ、勇者様」
「あのさ、その勇者様って呼び方もやめてくれないかな……」
そういうの苦手だ、と勇者はぼやいた。
悪ふざけや気まぐれではなく、心底から上位者の振る舞いが性に合わないのだと分かる。
「根本的に向いてねえな勇者に」
「知ってる。俺さ、将来の夢は農家だったんだぞ? 絶対に勇者じゃなかった」
「正気か。冗談きついぜ」
「いや、もちろんやるけど。自分で決めたんだから」
「そう願いたいもんだな。それはいいが、整えたはずの魔力が思い切り崩れてるぞ、やり直せ」
「うわ、しまった……!」
そんな具合で、フェニックスの教育的指導をもってしても勇者はなかなか魔法を覚えられなかったのだが――
「――楽しそうですね、フェン。奇跡が起きたと話題ですよ」
御前会議を終えたらしいロジオンが修練室に現れるなり言い出したので、フェニックスは不機嫌な顔に戻った。
あのフェニックスと会話が成立する奴がいる――それで騒ぎになっているようだが、ずいぶん安い奇跡もあったものだ。
「どこの話題ですか。こいつ一向に魔法が身に付かないんで、その点は奇跡的かもしれませんが」
「えー? こういう場合の奇跡って、俺が凄い難しかったり珍しかったりする魔法を一発でマスターするとかですよね? そういう劇的な展開は全然なかったですけど」
「いまだに水も明かりも満足に出せねえからな」
「残念だよなぁ勇者なのに」
「自分で言ってやがる」
「おやおや。本当に仲良くなったようで何よりです……魔法は地道にやれば初級ぐらい習得できるでしょうし、問題はなさそうですね、フェン?」
にこやかなロジオンの言葉には裏がある。
フェニックスが勇者の仲間としてやっていけるか――師団長として訊いているのだ。
「…………オレはありませんが」
やや不本意ながらも彼はうなずいた。
そう、勇者は近くにいても不愉快ではない。
副団長トラスのように、同じ部屋にいるだけで全身に栗のいがを押し付けられるような気分になったりはしない。
「ふむ、トール君はどうです? 彼が君の同行者になっても大丈夫ですか?」
「あれ? これ顔合わせだったんですか?」
勇者はまるで気付いていなかったようだ。
「ええ、実はそうです。フェン――フェニックスは不肖の弟子なんですよ。魔術の腕は良いのですが、何しろ口のきき方と態度と目つきが悪いのです。トール君も嫌な思いをしませんでしたか?」
「や、別に気にならないです。俺がちっとも魔法を覚えられないのは事実なんで……」
「ほう、心が広いのはトール君の大きな美点ですね。ではそのように進めますよ?」
ロジオンは大袈裟に、とんとんと自分の肩を叩いて見せた。重荷が降りたというように。
冗談めかした仕草だったが、本音でもあっただろう。
師団長として多忙を極めていながら、ロジオンはトールのことを気にかけている。
勇者という以上に――彼がまだ若く、世間知らずで善良な、ごく普通の青年だからだ。
いつもの笑顔に隠している苦悩が、フェニックスにも透けて見える。
(いっそ利用しても心が痛まないような、キラッキラでいけすかねえ自信満々なやつの方が良かったかもな)
だが、今さら召喚の儀式はやり直せない。
フェニックスはロジオンを見てから、ごく軽い口調で勇者に言い放った。
「師団長が決めたんならオレは構わねえ。お前も後からごちゃごちゃ言うんじゃねえぞ、トール」
「言わないって! よろしくな、フェニックス」
「――フェンでいい。魔王の前まで連れて行ってやる。真理と深淵と師の名にかけて、だ」
柄にもないことを言ったのは、師に聞かせるためだった。
……思ったより長引いて終わりませんでした。
まだ続きます。




