56.含み笑いして、食卓を囲んで(後編)
第1部完結します。
この作品に触れてくださった全ての皆様に感謝を。
人間、感動し過ぎると声が出ないらしい。
トールの場合、喋る暇がなかったとも言う。
器に盛られた艶やかな白米を見た途端、反射的に箸を取って、すくい上げ、口の中へ放り込んでしまったためだ。
「……残像しか見えない早業ですね、トール様」
「あたしはかろうじて見えたけど。一瞬だったねえ」
「よく棒切れ二本で、あんなちまちました食い物が掴めるな」
「むぅ……あれは食器か。なぜ暗器のようなものを持っているのかと思ったが」
「そっか、シャダルムは知らないよね。ニホンだと、あのハシってやつで食事をするみたいで、少し前にトールがこしらえたんだよ」
「向こうの風習なのだな。器用なものだ」
仲間達がささやき合う中、トールは秒で茶碗を空にする。
簡易かまどの横に椅子やテーブルを持ち出して、出来上がった米飯の試食をしたところーー。
「……ヤバい。ちょっと泣きそう……」
味見のつもりがそのまま完食してしまった。
「しょうがない勇者サマだね。まあ気持ちは分かるさ、好きなだけおかわりしなよ」
「そうだな、とりあえず食っとけ」
「わたくし達のことは気になさらず」
「うむ。トールが腹を満たすのが先だ」
仲間達が気を使ってくれた。
トールは無言でもう三杯食べる。
「こんなに食べたの久しぶりかも……」
ようやく箸を置いた。
勇者はかなり燃費の良い存在で、魔力をバカスカ消費して強力なスキルを放てる割に、食事量は人並みか、むしろ少ない。
魔力は生命力とつながっている「力」であり、女神に与えられた加護。保有する魔力が多ければ多いほど生命体として強靭であり、少食を苦にせず暑さ寒さもある程度は平気で、病気にも罹りにくい。
ラクサ王国に昼食をとる習慣がないのも人が皆、多かれ少なかれ魔力を持っているから……と言えるだろう。
「よし、落ち着いた。みんなも食べてみる? おかずも作ってもらったんだ」
トールはご飯大好きな日本人であり、白米のままでも行ける。
が、やはり米はおかずと合わせるのが一般的だ。
特に仲間達は米を見たこともないので、初めて食べてもらうなら何かしら要るだろう。トールも頭をひねって考えたのだった。
候補は色々とあった。カレーや唐揚げ、ハンバーグ……
しかし、イナサーク辺境伯領は物流がまだ整っていない地であり、生鮮品やスパイス類が手に入りにくい。
おまけにトールは自炊厳禁だ。
イナサ城の料理長にした話、つまり彼が調理をしようとすると、魔法を使っても使わなくても、あらゆる意味で危険過ぎるというアレーーが、いつの間にかマーシェやネイにも伝わっていた。
そして当然の帰結ながら「絶対ダメ。屋外でもダメ。論外」となってしまったのだ。
つまりネイやランに頼んで作ってもらう必要があり、あまり複雑な、説明の難しい料理は無理だった。
「ほんと、俺って無い無い尽くしの勇者で不便だよな……! マジで魔王を倒す時しか役に立たないじゃないか」
ぼやくトールに対して、仲間達が一様に何とも言えない顔をしたのである。
「あんたにしかできないことをやったんだ、って前から言ってるんだけどね?」
「そりゃ勇者のスキルは凄いからなー。でもバランス悪過ぎる。やっぱり女神様って割と適当だよな」
「……これは不敬だと言って怒ればいいのか呆れればいいのか、どちらでしょうか」
「何でこう分かってねえんだろうな」
それはともかく、さまざまな事情を加味した上でトールがおかずに選んだのは、
「単純だけど肉かな?」
であった。
ラクサ王国でも、分かりやすいご馳走と言えば肉だ。
肉用の家畜は主に豚か羊、鶏で、牛はもっぱら乳を取るために飼われる。
魔法があるので、牛を使って農業や力仕事をさせるという発想が薄く、交通手段にも使える馬の方が重宝される。
乳を出さなくなった乳牛を潰して肉にすることはある。また、ごく一部の地方では肉用に牛を育てているが、特産品のような扱いらしい。和牛のようなものかもしれない。いつかは食べてみたい。
あとは魔物にも食べられる種類がいる。
ウサギや鹿、猪型が有名だ。中には地球感覚で言うと、どんな生き物にも似ていないゲテモノに見えるものもある。
トールはナマコもタコもウナギも食べられる日本人。平気な方だったものの、初見ではドン引きということもあった。
いずれにせよ、これは養殖できない。
冒険者が狩ってくるレアな部類だ。通常の流通ルートには乗らない。
幸い、今のトールには、ディーリにもらった醤油の試作品がある。故郷のものに比べれば塩味がきつく、香りが薄いという欠点はあるが、だいたい醤油と言っていい。
これと砂糖。さらにセレストが育てているニンニクや生姜、唐辛子を分けてもらったものを刻んだり、すりおろしたりして合わせ、タレを作り、一口大に切った豚肉と絡めて焼く。
炊きたてご飯の上へ載せれば、豚丼の完成となる。
「うん。こっちもうまい。間違いない」
醤油と砂糖とニンニク類で濃いめに味を付けた豚肉。
それから白米。
不味いはずがない。
「コメは一緒に食べるの?」
マーシェが訊く。
「ああ。同時にすくって口に入れるものなんだ」
いわゆる口中調味だ。
「ふうん。なるほど、それで肉は味を強くするのか。贅沢だね」
言いながら、マーシェはフォークで肉と米を持ち上げて口へ運ぶ。
「ショーユは少し焦がすと風味が増しますね」
「コメというものが進むな。腹に溜まる感じがあって好ましい」
セレストが上品に味わっている一方で、シャダルムはぺろりと一杯平らげた。
「うまいと思うぞ。だが呑みたくなるぜ」
フェンの一言で、マーシェとシャダルムがにやりと悪い笑顔をつくる。
「言えてるね」
「その通りだな」
年長三人は、いける口である。
「何がそんなに良いのやら、ですね」
「そうだなぁ」
セレストは旅の間、未成年だったため、飲酒はしなかった。成人した今も苦手のようで、付き合い程度にしか口をつけない。
勇者の体質で一切酔わないトールも同様である。
楽しそうな仲間達を見ているのは悪くないので、酒盛りに混ぜてもらう場合はある……が、そうすると正気の彼が大抵は後片付けをやる羽目になる。損な役回りだ。
「そういやコメも酒になるのか?」
「一応できると思うけど。どうだろ? 酒は専用の品種があるって、じいちゃんが言ってたような。米の表面は削って内側だけ使うんだったかな?」
トールの祖父も晩酌が好きであった。いつだったか、米で仕込んだ日本酒がいかに素晴らしい和の発明なのかを、龍造には珍しく滔々と語ってくれたことがあったーー。
「……んだけど、めちゃくちゃ酔っ払ってて、呂律が怪しかったんだ。内容をイマイチ覚えてない」
ありがちな落ちであった。
「むぅう。それは惜しい話だな」
「それだけ極上ってことかねえ」
「肝心なところで役に立たねえな、お前はよ」
「無茶言うなって。当時の俺、完全に子供だったんだぞ? これだから酒関係は嫌なんだ」
トールが栽培した普通の米でも醸造できるのか、未知数だ。異世界の一般的な酒造りがどうなっているのかも知らない。醸造魔法なのだろうとは思うが。
「へえ、でも呑んでみたいねえ。コメの酒」
「できるか分からないのに?」
「そこがイイんじゃないかい。まだ誰も呑んだことない酒! 燃えるね」
「むぅ、確かに浪漫がある」
「試す価値はあるんじゃねえか」
「酒飲みの理屈だなー。まあ良いけど」
いつもの感じでトールは承諾する。
「許可が出たぜ、マーシェ」
「手配しとくよ」
「うむ、私も王都でツテを探しておこう」
「何この流れるような連携」
「放っておきましょう。トール様、もう少し頂いてもよろしいですか? イヴさんもいかがです?」
澄まし顔でおかわりを所望するセレスト。
その横で、存在感を薄くしていたイヴがフォークを置き、こくりとうなずく。
「イヴさん、たくさん食べてよ」
「え、その、嬉しいですけど私なんかが……」
「良いから良いから」
彼女の器もきれいに空になっているので、気に入ってくれたようだ。
「あ、ネイとランも遠慮しないで」
「はーい! 匂いがもう美味しそうですぅ!」
「ラン! ちょっと!」
「トール様が言ってるんじゃん、お兄ちゃんのケチ!」
「うん、そうだぞ。ネイもガッツリ大盛りな」
「え?!」
「いっぱい食べないと大きくなれないぞー」
目を輝かせるラン、あわあわするネイ、そして、にぎやかな最近の光景。
微笑ましく思いながら、ご飯を盛り付けるトールだった。
✳︎✳︎✳︎
時は過ぎる。
季節が巡る。
冬のイナサーク辺境伯領には時々、風花が舞うようになっていた。
元々、多少の積雪がある地域らしい。
自然の魔力がいくらかは回復し、雨や雪も少しずつ戻ってきた。今はまだ積もるほどではないが、年が明ければもっと降るかもしれない。
話がある、とフェンがやってきたのは、そんなある日のことだった。
「どうしたんだ、改まって」
「まあ、ちょっとな」
もう夜だ。トールは自室にいて、寝るところだったのだが。
用があるなら仕方ない。
部屋の隅から、小さなテーブルと椅子を引っ張り出す。
フェンはトールの向かいに腰掛ける。酒瓶とグラスを二つ持ってきていた。
「お前も堂々と呑めるようになったんだろう? 付き合え」
ラクサ王国には誕生日の概念がない。生後すぐ亡くなる赤ん坊もいるからか、普通は生まれて数日してから神官の祝福を受けに行く。辺境では、巡礼神官がやってくるまで待つこともある。
だから人はみんな、新年が明けると一つ年齢を重ねる。フェンの場合は二十三歳、セレストは十七歳、マーシェは二十八歳、シャダルムは二十九歳になるのだ。
トールもラクサの風習は心得ている。自分一人が誕生日を祝ってもらうなど恥ずかしいから、仲間達にも教えていない。フェンにも昔、雑談のついでに言っただけだ。
ところがフェンは律儀に覚えていたらしい。日本では飲酒が何歳からなのか、というのも。
四年前の今日はトールが十六歳になった日でありーー同時に、この異世界へ召喚された日だ。
「そうだな、せっかくだから」
トールの勇者体質はアルコールをも跳ね返してしまう。これは以前、王城の宴席で間違えて、強い酒入りのカクテルのようなものを呑んでしまった時に発覚した。
ラクサ王国の基準では既に成人しているので、飲酒をしても構わないと言えば構わない。
が、同じ物を口にしているのに自分は素面、となるのも面白くないものがあり、普段は嗜まない。
そんなトールも二十歳になった。
(召喚されてなければ、成人式に行ったり飲み会したりしたかもな)
たまには良いかと、グラスを取った。
「乾杯」
「乾杯」
互いに中身を空にした。
フェンが持ってきたのはワインーーあるいはシャンパン的な酒だろうか。しかし爽やかな外観や風味と裏腹に、度数は高そうだ。
(ま、フェンは酒に強いし)
呑んで前後不覚になるのを見た試しがない。
平気だろうと思うことにした。
「話って?」
尋ねると、フェンはグラスを置いた。
「お前が農家になるとか言い出して、一年ぐらい経った。概ね当初の目的は達成したと考えて良いな?」
「ああ。色々あったけど、米を収穫して食べるところまで行ったから」
「だろうな。だから訊いとくんだが……オレの力は、まだ必要か?」
言われてトールも思い出した。
フェンは辺境伯領の開拓と農業の立ち上げを手伝うために、王国から派遣されている魔術師だということを。
言うまでもなく魔術師は貴重な人材である。ラクサ王国でも数は少なく、上級はさらに一握りだ。魔王軍との戦で戦死した者もかなりいて、希少性は増している。
その中でも無二の天才と呼ばれるのがフェンだ。こんな辺境に居なくても、どこにでも活躍の場はあるだろう。
「俺の答えは決まってるけど……フェンは、どうしたい?」
この友人は自己主張が激しいように見えて、実はあまり自分のしたいことを言わない。頼まれれば手を抜かずに、何でも軽くやってのけるが。
マーシェに言わせれば、
「魔術師って多かれ少なかれ、あんなんだよ。どっか浮世離れしてるって言うか。大事にしてるもの……大概は自分の魔法だけど、その他の細かいもんはどうでも良いって感じなのさ」
ということになる。
が、この時のフェンはあっさりと答えた。
「オレはここがいい。構わねえか、トール?」
「断る訳ないだろ」
「それなら、魔族の動きに備えるとか何とか報告しておくか。手間を掛けたな」
二杯目が注がれた。
話はそれで終わったようだ。
フェンも、今度は少しずつ呑んでいる。トールもそれに付き合う。
「まあ良かったじゃねえか。最初は魔王の呪いでも喰らったのかと思ったもんだ」
「俺にそういうの無いって。似たようなのはあったけど、もう大丈夫だって思えるようになってきた」
「……その話は初耳だが?」
「口に出して万が一、現実になったら嫌だったんだよ」
トールはグラスの中で揺れる酒を眺め、それからフェンへ視線を移した。
「もしかしてフェン、それを聞きにきたのか?」
「お前、まさか自分は隠し事が上手だとか勘違いしてねえだろうな? 明らかに不自然だったぜ」
「じゃ、みんなも?」
「当たり前だろうが」
「気付かれてたのか……そうだな、相談しろって言われてたっけ」
一息にトールは酒を呷った。
勇者は酔わない、しかし呑みたい気分というものがあるとすれば、今がそうだ。
「じゃあ話した方がいいってことか?」
「オレは元から、お前が『吐く』まで呑ませるつもりだが」
「効かないのに何言ってるんだよ……分かった」
フェンは本気のようで、無造作に次の酒を注いできた。
やり方が無茶苦茶だ。
トールは一口、喉を潤す。
ようやく言うことにした。
「……魔法的な呪いじゃないよ、単に精神攻撃だけど。心を折りに来るんだよね、魔王は」
泥沼化する最終決戦の中で、魔王はいくつもの未来を見せてきた。
そして常にささやいてきた。勇者にしか聞こえない声で。
魔王が消えれば勇者も要らない。
必要とされなくなった世界で、たった一人、どうやって生きていくのだ、と。
日本に帰る?
帰れると思っているのか。
勇者として強くなり過ぎた貴様が?
王になる?
統治者になれると思っているのか。
ただの高校生だった貴様が?
愛する女を見つけて共に過ごすか?
それで幸せになれると思っているなら愚かだ。
姫君も、聖女も、村娘でも、娼婦でも。
どんな女も皆、愛をささやくだろう。
だが知っているだろう、愛されているのは勇者であって、決して貴様自身ではない。
そのように疑い続け、満たされないのだ。
先の勇者がそうであったように。
大陸の調和を乱すものは魔王のみではない。
人族は魔物を狩り、また人族同士でも争う。
勇者でも全ては守れない。
仲間が一人ずつ死んでいくさまを見せてやろうか?
そうやって、見せられた幻は。
酷いものだった。
こればかりは、具体的な内容は口にしたくない。
「ロクでもない不幸の見本市でさ……うん、頭では分かってるんだ。アレは魔王が都合よく創った幻で、本当に起こることじゃないって。でも、やっぱり気にしないのは無理だった」
「それで農業か?」
「ああ。俺が農家になる未来は出てこなかった。それもある」
「さすがに魔王も思い付かなかったか」
「かもな。だから、じいちゃんとの約束のお陰だよ」
……一度決めたことは最後までやり通せ、徹。
あの言葉がなかったら、トールは魔王に勝てなかったしーー今、ここに居なかった。
「で、そろそろバッドエンドを回避できたかなって油断してたところで、あの多頭蛇だろ。焦ったよ」
そう告げると、フェンも「それはオレもだ」とつぶやく。
「二度と御免だぜ、あんなのは。しかもセレストのやつ、平気な顔して自分に即死魔法を掛けたとか抜かしやがって」
「ヤバそうな名前の魔法だな」
「禁忌の魔法の一つだ。使いようによっては物凄くえげつねえ。あいつは知らねえでやったんだと思うが。全く、人の寿命を縮めてくれる」
「珍しいな、フェンがそこまで言うの。自分だって危なかった癖に」
「いつどこで野垂れ死のうが、オレは別にいい」
「いや良くないだろ。セレストに泣かれるぞ」
一瞬、フェンの挙動が止まった。
「トール、お前な」
「ん?」
「勇者は聖女と結婚するのが、こっちの物語の定番なんだが。そうと知って言ってるのか」
「ベタな設定だなぁ、初めて聞いたよ。日本にはそう言うストーリーもあったけどさ」
「……魔王も勇者も居ねえのに、何でそんな話があるんだ。意味が分からん」
「人間の想像力を生かした色んな娯楽があったんだって」
「見てみたい気もするが、魔法が無い世界じゃオレは役立たずだろうな」
「どうだろ? 意外と適応できるんじゃないか?」
「言ってろ」
話しているうちに、酒が尽きる。
ささやかな酒宴はもう終わりだった。
完全な空になったグラスは、フェンが清浄魔法を掛け、瞬く間にきれいに片付けてしまう。
「ーーこんなもんか。邪魔したな」
「こっちこそ、ありがとな。おやすみ」
「ああ。また明日」
フェンは酔っている風も見せず、部屋を出ていった。
足音が遠ざかってから、トールは立ち上がって窓を開け、こもった空気と酒の匂いを追い出した。
代わりに冬の冷気が流れ込んでくる。吐いた息がほのかに白い。
ーー話ができて良かったと思う。
言っていないことはあるけれど。
トールにとって、セレストは大切な仲間の一人だ。
しかし、それ以上にはならなかった。
日本に帰る気でいた時は、こちらの世界に心残りを作りたくなかった。どんな女性とも特別に親密になるつもりはなく、セレストも同様だった。
そこから旅の後半に入ったある時、フェンとセレストを見ていて気が付いた。
(ああ、そうか。俺が日本に帰っても、フェンが居ればセレストは大丈夫だな)
なぜ、そう思ったのかは説明しにくい。二人は普通の会話をしていただけだった。
ただトールの裡にあった、小さな染みのようなものが消えて、むしろ安心したのを覚えている。
結果としてトールの勘は半ば的中し、半ばは外れた。
魔王が見せる、悪意に塗り潰された幻影のどこかで。
無数にうごめく魔物の群を前にして、フェンは最期までセレストと共に、己れの生命と魔法が続く限り戦った。
消えたはずの、あり得なかった未来だ。
だが現実に多頭蛇が現れた時、彼等は躊躇わずに同じ道を選んだ。
ーーちっとも大丈夫ではなかった。
二人とも本当に居なくなってしまうところだった。
かろうじてトールは間に合った、その瞬間にどれだけ安堵したことか。
「……それはさすがに言えないな。少なくとも、まだ。このぐらいの隠し事は良いだろ」
窓を閉め、暗くなった室内に独り言が落とされる。
微かな念話で答えがあった。
『安心せい。汝はようやっておる』
『我等は知っておるぞ。勇者トールよ』
異空間に眠る、聖なる武具達であった。
「そうだなーーどうなるかな、これから」
農業を始めて未来を変えた。
その先はーー。
✳︎✳︎✳︎
晴れた空は、この季節に特有の澄んだ青色をしている。
風もなく穏やかな日だ。太陽はごく控えめながらも、地上へ明るさと暖かさを届けてくる。
だが、そこに時ならぬ雷光が幾筋も瞬いて、虹色の輝きと共に、理不尽と衝撃波と爆音が湧き上がった。
勇者がそこそこ本気で放ったスキルである。
知らぬ者が見れば腰を抜かす天変地異だが、この地では日常の光景と化している。
最早、馬さえ驚かない有り様だ。軍馬の訓練ができるかもしれないと、シャダルムが笑っていたほどである。
「ちょいと気合を入れ過ぎじゃないかい?」
開拓地へ赴いたマーシェは、苦笑を浮かべて馬上から周囲を見渡す。
何もない荒野であるから視界は良い。
弓使いの鋭い目で人影を見つけ、馬を走らせた。
「フェン! 悪いけど少し良いかい」
魔術師のローブをまとった男が振り返る。
土属性魔術で水路を造っている最中のフェンだ。
「マーシェか。どうした?」
「頼みがあって……って、あんたも何やってるのさ、これ。普通の開拓じゃなくてタンボだよね? トールが造成するんじゃなかった?」
稲作において、冬は一般に農閑期である。
つまり農作業らしい農作業は少ない。日本の農家は資機材をそろえたり点検したり、栽培技術を学びに行ったり、稲以外の作物に手を出してみたり、副業や休養に充てたりして過ごすという。
ところが異世界、イナサーク辺境伯領では。
「急いで田んぼを拡張しなきゃ。ほら、精霊と約束しちゃったからさ」
そう、トールが安易な契約を結んだせいで、新たな開墾が始まっていた。
その影響で、勇者の力が天地を震撼させているのだ。
屋敷の増改築とシャダルムの受け入れ準備も同時並行で急速に進められており、のどかさの欠片もないほど忙しい。
勇者と仲間達も分担を決めて、それぞれの役割を果たしているのだが。
フェンは予定にないことをやっているように見える。
「こっちはセレスト用だ。トールのスキルと農業魔法でイネの成長に違いが出るのか、比べて確かめるんだとよ」
「おやおや。随分と手の込んだ真似をするんだね」
「あいつ、こないだの件だの何だので魔力が増えて、持て余し気味らしい。まあオレもそうなんだが」
「さらに増えたのかい、あんたらも半端ないね。それで地平線の向こうまで新しいタンボになってる訳だ」
やれやれ、と遠くを眺めるマーシェ。
フェンは悪びれず肩をすくめる。
「そう言うことだな。マーシェは何の用だ」
「ああ、屋敷の工事がね。向こうの魔法使いさんが魔力切れになっちゃって止まってるんだ。手伝ってくれる?」
「魔力管理がなってない三流じゃねえか」
「本人には言わないでやっておくれよ? 見るからにヒヨッコって感じの若いやつだから」
「年齢と魔法は関係ねえんだよ」
「あんた本当に容赦ないね。とにかく頼めるかい?」
「構わんが、そいつがどうなっても知らねえぞ」
屋敷へ戻ったフェンは、頼まれた仕事を速攻で処理してみせたが。
その様子を目の当たりにした若き魔法使いはしばらくの間、魂を粉々に砕かれたような顔で灰になっていたという。
一方ーー。
「こんなものでしょうか」
セレストは形が整った田んぼの中へ踏み入り、農業魔法〈マギ・カルチュア〉を行使していた。
聖印を切って女神に祈りを捧げると、柔らかな光が生まれ、大地に降り注ぎ奇跡を起こしていく。
土地を癒やしてゆくのは本来、このような神聖さと静けさに包まれて行うものだ。
間違っても聖女の背後で炸裂した爆撃のように、非常識な破壊力を伴うのはおかしい。
セレストは厳かな面持ちのまま、杖を掲げて大規模かつ最上級の結界魔法を展開し、襲い来る土埃と爆風から自身と田んぼを防御した。
「ふう。あれはあれで、精霊もお祭り騒ぎを楽しんでいるのかもしれませんね。少しばかり……いえ、非常にはた迷惑ですけれど」
はしゃぎ回る幼な子の幻聴が、遠く聞こえてくるようであった。
「あー、セレスト! 悪い、ちょっと手が滑ったーー! 大丈夫かーー?!」
能天気な勇者の声がする。
駆け付けてきた彼に向かって、セレストは慈愛に満ちた微笑を浮かべた。
「トール様。わたくしなら防げるから大丈夫、などというお考えではありませんよね?」
「うっ」
トールが「しまった」と顔を引きつらせる。
「だ、だから、ゴメンって……」
「勇者たるあなたが簡単に謝ってはなりません」
「こう言う時は仕方ないだろ?! だいたい俺、勇者は引退して農家になりたいんだからさ」
「兼任するのは構いませんが、あなたが勇者でないと困ります。わたくしもフェンもみんな」
「えー……そうか、逃げられないのか……」
「いかなる艱難辛苦にも立ち向かうのが、トール様ですよね?」
「買い被りだよ。でも、農家になるためだから頑張るしかないか」
「でしょう?」
セレストはトールと顔を見合わせて笑った。
「ですが一旦、この辺りで切り上げましょう。適度な休憩も必要ですので」
「そうだな。帰ろう」
トールは歩き出そうとして、ふと足を止めて振り返った。
「どうかされましたか?」
「いや。今、精霊の声がしたような」
「まあ、何と?」
「『まってる』って」
「開拓したばかりなのに、もう遊びに来たのでしょうか」
「生えるの早過ぎないか?」
「トール様は本当に愛されていますね」
「遊ばれてるの間違いだろ……」
セレストはくすくす笑った。
未だに自覚がないのがおかしかった。
そしてトールは、肉眼ではまだ見えない者達に向かって声を掛ける。
「ありがとう。もうすぐだから、またな!」
それは勇者の、約束の言葉だ。
勇者は引退して農家になりたい 第1部完
米の名は…「福、笑い」(福島県)
同県が十四年の歳月をかけて開発。大粒で強い甘味と香りを持つ。




