53.再びの邂逅、黎明の紫(六)
黎明編、お付き合いありがとうございました。
朝。
ネイは野菜を刻んでいた。
朝食の汁物を作っているところだ。
もうすぐセレストかトールがやってくる時間になる。
神官のセレストは朝が早い。食事の支度をネイ達に任せるようになってからは、自室で女神に祈りを捧げたり菜園の世話をしたりして過ごしている。
トールもぴたりと同じ時刻に目が覚めるそうで、早く起きる。以前はいつも田んぼへ行って、簡単な農作業をして帰ってきていた。稲刈りという収穫が終わって以降は、セレストの菜園の手伝いや屋敷周辺の見回りをやっている。
寝起きが悪い、と仲間達に言われているフェンことフェニックスも、貴族のように昼近くまで寝ているなどということはない。やや眠そうにはしながらも、朝食には間に合うように来る。
ただし昨日は、三人で夜遅くまで話し合いをしていたようだ。
ネイとしては、朝食はいつも通り用意しておき、もし彼等の起床が遅れれば温め直すつもりだった。
(何かあったんだろうな……)
使用人に過ぎないネイにさえ察せられる。
彼や妹は屋内に閉じこもっていたから、詳細は見ていない。
だがフェンが出ていった後、屋敷の上空がにわかに騒がしくなりーー魔物がばさばさと羽音をたて、耳障りな叫びを上げながら飛んでいった。その騒がしさからみて、かなり数が多かったのが分かる。
それらを迎え撃ったであろうフェンとセレストは夕方に差し掛かった頃、ようやく戻ってきた。
二人とも砂埃だらけで、装備もあちこち血で汚れていた。目立った外傷こそなかったけれど、魔法か何かで癒やしたのだろう。激戦であったことが窺える。
そしてイナサへ出掛けたはずのトールまで、なぜか屋敷にいるのだ。
ランは無邪気に「トール様達はスゴいよね」と言って済ませているがーー魔法を学んでいるネイにとっては、肌触りの良くない違和感があるのだった。
フェンとセレスト、彼等があんな状態で戻ってきたこと自体が異常だ。
あの二人が、どれだけ常人とは隔絶した魔法の持ち主であることか。
ネイは今、彼等のお陰でほんの少しだけれど魔法使いの領域に足を踏み入れているので、より明確にそれが感じ取れる。
トールだって、いかに勇者と言えど時空を飛び越えるような能力はない。ない、はずだ。あれば、もっと前から使っていたと思う。
加えてトールは魔法が苦手で、魔法使いにもできないような魔法を使える訳がない。
あり得ないことが起きた。
凄腕の魔術師と聖女がいても、手に余るような。
だから勇者が、どうやったのかは分からないが、非常の手段を用いてイナサから帰ってきた。
それしか考えられない。
事情が気にならない、と言えば嘘になる。
しかしネイとランは使用人だ。勇者達が秘密にしていることを、わざわざ探ろうとは思わない。
(トール様達はみんな帰ってきた。それで十分だ)
この屋敷は兄妹にとって、天国のようなところ。トールもその仲間達も皆、恩人である。
ネイは、くるりと風を動かして芋の皮を剥き、さいの目に切り、ふつふつと沸いてきた鍋の底へ沈めていった。
一連の調理は全て魔法で賄われている。前はとても、こんな真似はできなかった。風魔法と火魔法の精密な制御を身に付けたことで、ネイにも可能になったのだ。
このまま修練を積んでいけば、彼が目標としている〈伝書〉の魔法に届く日も、そう遠くはないだろう。
これも、きちんとした手解きを受けられたからだ。
使用人の子供に過ぎないネイが、正式な魔法を習う機会など皆無であった。魔力が多い方と言っても魔法使いになれるほどではなく、日々の仕事に追われて修練をする時間もなかった。
周囲に教えてくれる者もいなかった。下級貴族家の使用人など、そんなものだ。
簡単な魔法は、自己流ながら誰でもできる。
だが細かい操作が行える者は稀であり、そういう者は多くが己れの生命線である魔法の技を秘密にしている。家族や徒弟のような、裏切らないと見込んだ相手に明かすのがせいぜいである。
亡くなった両親は、特に魔法技能を持っていなかった。
そんなネイがもし魔法を習いたいと言ってみたところで、できる訳がないと馬鹿にされて終わりだっただろう。望むこと自体が不相応だった。
今は恵まれている。
ネイの申し出は当然のように受け入れられ、魔法使い二人は、彼等にとっては児戯に等しい基礎から教えてくれた。
一度、火魔法が暴発して周囲に飛び散りそうになった時もフェンが指先の動き一つで消火し、真っ青になって謝るネイには「ま、トールよりマシだな」と言って怒らなかった。
勇者と比較されるなんて内容がどうあれ、それだけで身が縮む心地がする。
だが、たまたま居合わせたトールもトールで「俺の扱い、酷くない?」と苦笑いするだけで咎めない。
魔法に限らず一事が万事、ここはそういうところなのだ。
ーーもっとも「トールよりマシ」が冗談でも誇張でもない事実だと、この時のネイは思いもしなかったのだが。
ネイが材料を全て刻み終え、鍋に入れて蓋を閉めたところで、厨房の入り口にトールが顔を出した。
「おはよう、ネイ」
「トール様、おはようございます」
丁寧にネイは頭を下げた。
「昨日はあんまりネイ達の話が聞けなかったな。魔物の被害はなかった?」
「突っ込んできた魔物が二、三匹いたようですけど、結界で全部跳ね返したみたいです」
勇者の屋敷は、魔法と魔術で防衛されている。
基本はセレストの結界魔法、もし破られればフェンが敷いた防御魔術と、さらに反撃・捕縛用の攻撃魔術が動くという念を入れた構造である。
かつて代官ユージェーーより正確には通行証と魔術師イヴのせいだがーーに突破された経緯があり、二人が一切の自重を止めて構築し直した。その影響でのちに訪れたエレイシャが「何と戦っているつもりなのですか? 近寄りたくないのですが」と愚痴を吐くレベルに至っている。
なお魔法に鈍感なトールは、自分の家がそんな有り様になっていることを知らない。
このたびの襲撃でも数回、何かぶつかったような物音がしたものの、侵入してきた魔物はいなかった。壊れたものはなく、ネイもランも無傷だ。
「怖くなかった?」
「少しだけ。でも大丈夫です」
実際に刃を交えたトール達の方が、大変だったに決まっている。
「俺の故郷には、ああいうデカい生き物いなかったからなー。見た目もあれだし凶暴だし怖いよな」
「トール様でも怖いんですか?」
「そりゃあね。勇者の力を使えば倒せるって分かってるから、やるけど。そんなもんだよ」
「十分凄いと思います」
「うーん、どうかな」
勇者は首を傾げた。
「俺が強い訳じゃないんだよな、勇者のスキルが凄いんだ」
戦士や魔法使いが己れの技を磨いて強くなるのと、全く違うというのである。
「女神様にスキルをもらった時、つまり最初から強いってこと。ただ俺がさ、使い方の正解が分かるのに三年も掛かっちゃっただけ」
トールの故郷には魔法がなく、魔物もいない。平和な国で、武器を持ったこともなかった。普通に考えて、子供の頃から修行を積んできたラクサの戦士や魔法使いにかなうはずがない。
だが現在のトールは、彼等を軽く凌駕する力を持っている。
努力らしい努力を全部すっ飛ばして、あっという間に最強へ成り上がれるーーそれが勇者のスキルの特徴だとトールは言う。
「俺が頑張ったっていうより女神様の加護だろ? ちゃんと練習して魔法が上手になってるネイの方が偉いと思うけど」
「えっ? いえ、その、トール様も正解が分かるように色々試したんですよね? それは努力なのでは?」
「いや? どっちかっていうと無駄な回り道」
「そんなことないですよ」
ネイは本心から言ったのだが、トールは照れているという風でもなく、曖昧な顔をして頬をかいた。
「……まあいいや。食事の時間になるまで、家の周りを確認しに行ってくるよ。昨日、フェンとセレストがやってくれたみたいだけど念のため」
「はい。お気を付けて」
「ん、ありがとな」
手を振ってトールは出掛けていった。
勇者はネイのような身分の低い使用人にも、ありがとう、という言葉を惜しまない。
人によっては威厳がない、貴族らしくないと非難するに違いない。勇者にして辺境伯ともあろう者が、下々に示しが付かない、と。
ネイも最初は戸惑った。
まるで対等な人間のように扱われる、ということに。
だが、ひとたび受け入れてしまえば、これほど安心して仕えられる主人も滅多にいない。
トールの仲間達があれこれ言いつつも彼から離れようとしない、その理由も似たようなものなのだろう。
(変わらないでほしいな……トール様には)
あり得なかったはずの、さまざまな出来事。
それらが細い糸でつながって、絡み合い、目に見えないうねりに成長していくーー当事者ではない、傍らにいるだけのネイにすら、そういう予感が生まれている。
だが、願わくば。
奇跡は奇跡のままで在ってほしい。
朝陽が白く差し込む中で、ネイは祈ったのだった。
✳︎✳︎✳︎
ーー朝飯だぞと伝えに来ただけのはずが、何がどうなっているのか。
「朝からうるせえぞ、トール。見回りは終わったのか」
「ああ。特におかしなことはなかったよ」
「じゃあ、この状況は何だ?」
「精霊が遊びに来てるだけだろ?」
「それが異常だと言ってるんだ、馬鹿勇者が! また雑なことをしやがって」
目を覚まして食堂へ行ってみると、手回しの良いネイが朝食の支度を整えていた。
セレストとランは菜園の世話をやっている。
トールは最初に起きてきたが、屋敷周辺の見回りからまだ戻ってこない。
もういつでも食事を出せるというので、フェンが呼んでくることにした。
特大の魔力を辿ればトールがいる。探すのは難しくない。欠伸を噛み殺しつつ向かったのだが、到着と同時に眠気が吹っ飛んだ。
「ゆーしゃー! もっとあそんでーー!」
「なげてー」
「ぼーるなげてー!」
「うわーい! こっちこっち!」
トールは田んぼの隣にいた。
精霊を山盛りにくっつけた状態で。
「増えてねえか?」
稲刈りの際は十人くらい、幼な子の姿をした精霊がいた。
今回はもっと多いように見える。
ただし目を凝らしても、精霊達はふっと明滅して姿を消したり、また現れたりと変幻自在であった。ともかく、たくさんの精霊が勇者に群がっているのは間違いない。
「はいはい、じゃあ投げるぞー」
トールは気にした様子もなく、手にしたものを軽く放り投げた。もちろん本気であるはずがなく手加減している。
球体は少し離れた地面へ落ち、ぽてぽてと転がっていく。
「わぁーーーー!」
精霊達がひと塊になって追い掛ける。
一人が取ろうとした瞬間に別の精霊が割り込み、手が滑り、球が弾かれて再び宙を舞い……。
にぎやかな取り合いが始まった。
「何やってやがるんだ……」
フェンは半眼になってトールへ近付いた、という訳だ。
「一回りして戻ってきたら、精霊がいてさ。仲間になりたそうにこっち見てくるから」
「そいつはまあ分かった。あの丸いのは?」
「ん、ボールのこと?」
「ああ。どこであんなもん手に入れた」
「昔、俺が作って忘れてたやつ。イナサで暇な時間ができちゃって、空間収納の整頓してたら出てきた」
「作っただと?」
「召喚されて半年くらいの頃かな? 山奥の村に派遣されたことがあったじゃん」
村の近くに厄介な魔物が棲みついたため、勇者パーティーが赴いた。正直そこまで強い敵ではなかったが、当時はトールがまだ戦闘に不慣れだったため、あえて派遣された地の一つである。
討伐自体は滞りなく済み、一行は村長の家に泊めてもらった。
翌朝、トールが散歩に行くと、村の子供達が数人、後ろにくっついてきた。勇者が、と言うより田舎であるから、客そのものが珍しかったと思われる。
しかしトールが近寄ろうとすると、恥ずかしいのか逃げてしまう。
遊び道具でもあれば仲良くなれるかな、と思いーー。
「その辺にあった石に、つる草を巻き付けて適当に作ったんだ」
「ほー。草もその辺に生えてたのかよ?」
「そうそう。意外とうまくできてるだろ。真っ直ぐ飛ぶし、弾力あるし」
「まぁ、そうだろうよ。魔物の素材だからな」
「……えっ?」
トールが固まった。
「い、一応、イクスがコレなら採っても怒られないって言った草だったんだけど?」
「姐さんの言い分を真に受けやがったか。なるほどな?」
「俺、イクスに騙されたのか」
「さあな。ちなみに吸血樹の一種だ。成長すれば星四」
「やばいやつじゃないか」
「やられると死に方はえぐい。まあ小せえうちなら大したことはねえ、村人でも倒せる。だが、村の中に入り込んでたってのがな。ガキどもは命拾いしたな」
吸血樹は数種類が知られている。
中でも、つる性のものは植物の割に動きが機敏で、攻撃的だ。強靭なつるをしならせて獲物を絡め取り、抵抗を封じてから血を吸う。
狙うのは小動物から大型の魔物まで多様で、人間も含まれる。
襲われた場合は振りほどくか魔法で燃やすか、すぐに対処しないと致命的である。
絞め殺されるか失血死か、いずれにしろ無残な最期となるのだ。さらに死体もゆっくりと吸収され、養分にされてしまうとか。
「うわ、危ない! イクス達、何で言ってくれなかったんだ?!」
「魔物の気配が分からねえお前がどうかしてるんだろうが」
「無理だよ! あの頃は俺、結構大変だったんだぞ。覚えることだらけで」
勇者が無自覚に成敗した吸血樹は人の背丈の半分くらいしかなく、魔力も弱かった。
異世界知らずで魔法に疎いトールには、全く無害な雑草に思えたらしい。
だが、小さくとも魔物は魔物。特に子供や老人には脅威である。
村の子供達は幼さゆえか、無邪気に出来上がったボールでしばらく勇者と遊んでいたというが。
「暢気過ぎるぜ。特にお前が」
「……吸血樹はあの一本だけだったから、騒ぎになるのが面倒で言わなかったってイクスが……」
三年越しに、脳内で聖なる武具から種明かしをされたようで、トールが頭を押さえる。
当時の彼は、戦闘になると余計な力が入ってしまい、敵以外の色々をまとめて消し飛ばしていたものである。
村のど真ん中でそれをやらせると、かえって危険。その辺の草を採ってくる程度の感覚で十分だというイクスカリバーの判断はーー遺憾ながら間違ってはいなかったと言える。
「うわああ……でも時効だよな、とっくに……」
「今さらと言えば今さらだな」
吸血樹も小型の一本しかなかったなら仲間を持たない、はぐれ個体だったのだろう。
村人に伝えても、無闇に怯えさせるだけ。
危険な魔物は勇者によって密かに処分され、こうして精霊達の遊び道具になっているーーそれでいいのかもしれない。
「ゆーしゃ! もってきたよー!」
ボールを抱えた精霊が一人、とことこと駆け寄ってきた。
なお、吸血樹のつるは一見、ありふれた茶色だ。普通の植物のふりをして、油断させて襲ってくるのである。
倒されて素材になった後も見た目こそ地味だが、頑丈でかつ適度な弾性があり、マーシェが使う魔力弓の他、ロープや吊り橋の素材などにも重宝される。
おもちゃに加工するのは、贅沢と言えなくもない。
ごく平凡で素朴に見えるそれを、トールは苦笑と共に受け取って再び投げてやった。
きゃー、と精霊達の歓声が上がる。
「ーーあれ? 君は遊ばないの?」
ボールを持ってきた精霊が、その場に残っていた。
「ん、お前ひょっとして」
フェンがつぶやく。
実体化した精霊達の容姿はみんな似通っており、見分けるのは難しい。しかし、その黒髪に覚えがある。
「多頭蛇のことを言いに来た精霊か?」
フェンの前に現れて、ここはだめ、と教えてくれたーーその精霊だと気付いたのだ。
「そんなことがあったんだ」
「色々あり過ぎて端折っちまったが、実はな。あれが無かったら不味いことになってた」
精霊の警告があったからこそ、セレストが多頭蛇に喰われる寸前で助けることができた。
礼の一つも言おうかと思ったが、精霊はフェンと視線が合った途端、しゅぱっとトールの後ろに隠れてしまった。
と言ってもトールは大柄ではないため、幼な子の身体は半分ほどはみ出ている。これがシャダルムなら、完全に隠れられたかもしれない。
極度の人見知りは直っていなかった模様だ。
「そっか。本当にありがとうな。お陰で助かったよ」
代わってトールがひょいと精霊を抱き上げ、目を合わせる。
「ーーうん! ゆーしゃ、せーれーがんばったよ。だから……」
精霊はにこにこと微笑み、トールの首筋に抱きついて、
「だからもう、ないちゃだめだよ!」
無邪気にそう言った。
トールが一瞬、言葉に詰まる。
「……子供じゃないんだから大丈夫だよ」
精霊はとても臆病だ。
数少ない気に入った人間には助力を惜しまないけれど、その他大勢に対してはびびり散らかして出てこない。
それが、迫り来る魔物の前で、精霊使いでもないフェンに力を貸してくれた。
破格の対応だったと言えるが、そこまでやってくれた理由が気になってはいた。
今、分かった。
精霊はトールが大好き。
つまり。
ーーこいつのせいだ。
というか、泣いたのか。勇者の癖に。
魔族を信用して誓約まで立てて、正気かと久しぶりに怒鳴ったことを思い出した。
昨夜の話し合いでセレストと事情を聞き出して、あまりの内容に二人して散々に説教したのだが、トールは絶対に譲らなかった。
ーーだって、そうしないと間に合わなかったじゃないか。俺は後悔してない。
それを言われてしまうと反論しにくい。
限度があると思うのだが……。
「いたいことも、だめだよ」
「あー、うん。平気平気」
「うそはだめー。せーれー、いたいのとんでけーしてあげる」
精霊は小さな手を伸ばし、トールの額にくっつけた。
「とんでけー」
ふわっと魔力が動き、精霊の手のひらからトールへ流れ込んだ。
白く光る、雪のようなものが周囲に散った。
「もういたくないよ。おしまーい」
「え? あ、うん、ええと、ありがと……?」
目を瞬かせているトールの腕から、黒髪の精霊が抜け出して地面に降りる。
「ゆーしゃ!」
「ゆーしゃ、じゃあねー」
他の精霊達も集まり、機嫌よく手を振ってくる。
「またねー」
「こんど、またあそぼー」
「らいねんー」
「やくそくだよー」
「せーれーとやくそくだよ!」
口々に、かつ一方的にしゃべって、精霊達はすっと風へ溶けて消えた。
「神出鬼没だなぁ」
遊び相手を失ったボールが転がってきた。
トールが拾って、空間収納へしまう。
「そういや、フェンは何で居るんだっけ?」
「……飯の時間だと言いに来たんだが」
すっかり巻き込まれている。
「マズい、ネイに怒られそう。戻ろう」
ネイなら心配はしても怒らないに決まっているが、トールは早足で来た道を戻り始めた。
フェンもその後に続く。
「おい、トール。隠し事はもうねえだろうな」
「全部話したよ」
「魔族に渡されたものも、ねえな?」
「ないって」
トールは信じがたいことに、魔族メルギアスから通信用だと言って謎のマジックアイテムをもらってきた。
素直に受け取るなと言いたい。
罠があったらどうするのか。
盗聴される、毒を撒かれる、時限式で爆発する、いくらでも思い付くのに。
勇者は何も考えていない。
セレストと協力して、分かりやすい仕掛けがないことは確認したが。
「なら、さっき精霊がやったのは何だ? 今ならセレストには黙っておいてもいいぜ、とっとと吐け」
隣にいた魔術師にさえ、魔力が動いたことしか掴めなかった。
精霊達が勇者に害をなすことはない、とは言え。
「俺だって、精霊が考えることなんか見当つかないよ。心当たりはなくも無いけど」
「あるじゃねえか」
「まあね……」
トールは観念したようで、足を進めつつ、ぽつりと言った。
「〈献身〉てさ、反動がキツい時あるんだよね。それを回復してもらったっぽい」
「……どのぐらいだ」
「んー。普通は百のダメージを引き受けたら、俺に返ってくるのも百前後なんだ。でも、回復魔法が効かないような場合とか……言いたくないけど瀕死の場合とかだと、三倍から五倍ってところかな。体感だけど」
「この野郎……」
フェンはうなった。
「知ってて使いやがったな。オレとセレストと二人分」
「当然だろ。あとメルギアスもかなり酷かった」
「よりによって魔族かよ」
「自分の命を差し出す代わりに力を貸してくれって感じだった。ストレート過ぎて逆にめんどくさい性格」
「で、やつの分も引き受けたと。お人好しが」
トールが〈献身〉で肩代わりしたダメージには、元から回復魔法が効かない。大抵は自動回復スキルとの合わせ技で解決できるものの、このスキルは危険と表裏一体の仕様なのだ。
精霊が痛いの飛んでけをやってくれたとは言えーー。
「お前以外なら十回近くは死んでる訳だな? どこが隠し事じゃねえんだ」
「自動回復の効きが悪くて少し時間食うだけで、あとはいつも通りだし」
「ほう? お前が一晩掛けて全回復してなかったのが? 寸分違わずいつも通りってか?」
「う。悪かったよ」
やっぱり一番無謀なのはトールだった。
魔王を倒した後でもーー否、討伐の功労者だからこそ、大陸の命運を左右する立場だという自覚がない。勇者の役目は終わったとすら思っている。
(お前に何かあると全部ひっくり返って、混沌の時代に逆戻りするかもしれねえんだぞ。分かってんのか)
精霊と言い魔族と言い、実にとんでもない存在ばかり引き連れてきたものだ。
ーーそういう連中も、勇者の農業に巻き込まれていくのだろうか。
トールを見ると、黙って何か考えている。
「まだあるなら言え」
「大したことじゃない」
「良いから言ってみろ」
「ーーいや、醤油の試作品どうしようかなって。結局見ないで帰ってきちゃった」
「平和なやつめ」
トールらしさがあふれる悩みだった。
が、本人には大問題だろう。
「さすがに、この状況でもう一回出掛けるのはちょっと。ディーリには悪いけど、こっちまで来てもらおうかな」
「マーシェと相談だろうな」
「だよな。あ、でもさ、精米は何とかなりそう。イナサの城館の料理長さんが凄く良い人で、やってくれるって」
「また無意識にたらし込んだか」
「人聞きが悪いぞ。とにかく、これでようやくだ」
そう話すトールの表情は明るい。
「米さえあれば大丈夫!」
そう言い切った。
「何だその、謎の信頼感の高さは」
「そりゃもう別格だし。届いたら炊くの手伝ってくれ。火加減が重要なんだ」
「……超絶魔法音痴にやらせると、何が起きるか分かったもんじゃねえな。仕方ねえ、その時は呼べ」
「そのうち自分でも覚えたいけどなー」
「冗談も大概にしろ」
トールは魔力が無いどころか余るほどあって、さらに本人にやる気がないということもなく、真面目かつ地道に、魔法の練習に取り組んでいる。
なのに、ここまで身に付かない人間も珍しい。
勇者のスキルが強く出てしまったのであって、トールが悪い訳ではない。
が、だからと言って、彼に魔法の制御を覚えさせようとするのは……。
「ドラゴンに芸を仕込むより面倒なんだが……?」
「えー、俺だってやる時はやるぞ?」
トールは勇者であり、折れない心の持ち主である。
あらゆる不可能を可能に変えてきた者でもある。
女神が課したであろう能力値の限界も、何でもない顔をして押し通るかもしれない。
「うまい飯のためだから!」
原因はコレなのだが。
勇者は絶対に(米を食べるまで)諦めない。
そういうことなのであった。
米の名は…「朝紫」
玄米が濃い紫色を呈する紫黒米品種。もち性。完全に精米すると白米同等の白さだが、七分づきなどで炊飯すると赤飯のような色合いとなる。




