51.再びの邂逅、黎明の紫(四)
先日、評価を頂きました。ありがとうございます。
人族の魂が至高なる女神ルリヤに招かれ、その御許へ還る時、現世の記憶は全て洗い流され、無垢なる純白に戻るという。
喜ばしきも疎ましきも、愛しさも憎しみも、あまねく色を喪って、静寂なる無の一色になる。
ーー意識を保っておかなくてはいけない。
この景色に同化してしまったら、二度と戻って来られない。
セレストは地面にうずくまったまま、目には見えない戦いを続けていた。
……油断したつもりはなかったけれど、後から考えれば、やはり慢心だったのだ。
魔物の群を蹴散らすように現れた、巨大な多頭蛇。
最初に戦ったのは彼女だった。
強敵ではあった。
だが結界魔法や支援魔法を駆使すれば、フェンが来るまで持ち堪えることは可能ーーセレストはそう考えた。
多数の敵を一気に殲滅するのは彼が得意とするところで、さほど時間は掛からないだろう、と。
それが、まさか。
自らの結界魔法が破られる、あるいは無効化されるなど、思ってもみなかった。
多頭蛇の攻撃が毒の吐息であったのは、幸運だったとさえ言える。
もし炎や氷の吐息、咬みつきだったなら、即死でも不思議ではなかった。
毒なら解毒をすればいい。
しかし、その時は分からなかった。
自分に掛けた解毒魔法が失敗し、
(なぜーー)
数瞬の硬直が命取りになり、気付いた時には多頭蛇の顔が眼前にあった。
たまたまフェンが駆け付けて、引っ張り出してくれたので生き延びた。
だが彼の魔術さえ弾き返されている。
魔法が効かない。
つまり、魔法使いが何人いても敵わない。
(もしかして解毒魔法も、無効化される?)
ぞっとするような可能性だがーー多分そうだ。
セレストは意識を集中し、さまざまな魔法を試してみたが、効き目はなかった。
多頭蛇の毒は刻一刻と彼女を蝕んでいく。
どうすればいい。
フェンがイージィスに何かを告げて、立ち去った。
ーー何をする気なんですか。
魔法が効かない相手なのに。
止めなければ。
フェンは考えがあるようだが、絶対にろくなものではない。
賭けても良い。無茶をするつもりだ。
もしも止めるのが不可能なら、せめて支援と回復魔法を掛ける必要がある。
こんなところで倒れている猶予など、ありはしない。
(普通の魔法が効かないのなら……)
心を決めた。
セレストは深呼吸をし、自分自身に向かって詠唱をした。
死の魔法を掛けるために。
人の身体の治し方を知っている、ということは。
壊し方を知っているのと同じだ。
だから毒によって壊される前に、自分で身体の組織を一旦、壊す。そして再生する。
多頭蛇の毒は既に、セレストの全身に回っている。一度にやると本当に死ぬので死の魔法を少しずつ掛け、壊しては癒やす。
毒の効果で痛覚もかなり薄れているが、それでも耐えがたい痛みがある。歯を食いしばって魔法を使い続ける。
(ですが、いたちごっこですね)
毒が浸透していく速度と、セレストが壊しては再生する速度を比べると、前者の方が僅かに上。
つまり毒を完全に駆逐することはできない。
諦めたくない。
だが、徐々に四肢から力が失われていき、最初に音が聞こえなくなった。
目の前はかすみ、色が抜けて白く染まっていく。
(女神よ、愚かな選択だったでしょうか)
息が苦しい。
すぐそばに死神がいる。
毒が回って心肺機能が麻痺してしまうと、呼吸困難に陥って死へ至るのだ。
諦めたくない。
でも、もう駄目かもしれない。
そう思った時、ふと身体が軽くなった。
「……!」
セレストは目を見開いた。
それから、もう一度だけ渾身の魔力を投じて解毒魔法を行使した。
ーーセレストには見えていなかったが、それはイクスカリバーが毒持ちの頭を斬り砕いた瞬間だった。
多頭蛇の毒は魔力をたっぷり含んでいる。だから、これほど強力なのだ。だが今、その魔力は酷く揺らいでいる。セレストは体内で自分の魔力を集め、多頭蛇の毒と魔力を包んで押し潰していった。魔法と言うよりは、死神とセレストで魔力をぶつけ合うようなーー力比べだ。
どれだけ時間が経っただろう。
長かったようであり短かったようでもある。
「けほっ」
咳き込みながらセレストは起き上がった。
ようやく色や音が戻ってくる。
「セレストよ」
落ち着いた女声が聞こえた。
「……イースさん?」
「左様。我が分かるか?」
「どうにか……」
顔を向けると、ぼんやりとした人影がある。イージィスが障壁を作って守ってくれていた。
セレストは頭を振り、瞬きを繰り返す。
「無事に生き返ったようだな?」
ようやくイージィスの姿がはっきりと見えた。
「状況は、変わりませんか?」
「一難去って、というところであろうな」
「でしょう、ね」
セレストは努めて息を落ち着ける。
「解毒は、できたと……思います」
多頭蛇の毒は跡形もなかった。だが、体力と魔力をかなり消耗してしまった。
残った魔力をかき集めて、ちまちまと回復魔法を自身に行使しながら、セレストはイージィスの言葉に耳を傾ける。
ーー魔法が効かないのなら魔法にしない。
フェンが言った理屈を聞いてセレストは呆れた。
言うのは簡単だ。
実行は至難と言える。
「フェンでなければ無理でしょうね……本当にやったのですか」
「うむ」
トールのスキルに似たものを構築して多頭蛇に浴びせたらしい。
一度だけのまぐれではなく、毒持ちの頭が動けなくなるまで繰り返した。その上でイクスカリバーが加勢し、首を斬り落としたという。
そのおかげで、セレストも危険な賭けに勝ったのではあるが。
「トール様は?」
「イナサも相当な数の魔物に襲われているようでな。まだ動けん」
「……わたくしの失態ですね」
セレストは唇を噛む。
彼女が毒を受けて倒れたために、フェンが多頭蛇の相手を引き受け、他に手が回らなくなった。結果、殲滅できなかった魔物がイナサへ押し寄せ、トールとマーシェが足止めされている。
「あの多頭蛇は初見殺しと言えよう。貴公の責ではあるまい」
「そうかもしれませんが……いえ、今はやめましょう。支援に入ります」
ふらつく足を叱咤して立ち上がった。杖を握り直し、頭巾を下ろす。
「イースさん。あなたは……」
振り返ってイージィスを見る。
聖鎧装は、薄く笑んで首を横に振った。
「行ってやりたいのだがな。残念ながら、もう魔力が残っておらぬ」
イージィスの人間形態が、さらさらと崩れ始めた。
セレストが動けない間も多頭蛇の攻撃を防ぎ続け、限界を迎えてしまったのだ。
「イースさん……ありがとうございました」
「なに、そんな顔をするでない。この騒ぎが落ち着いた時は、また茶でも共にしようぞ」
「はい」
イージィスは光の粒子になって虚空へ消えた。
存在が滅びてしまった訳ではない。トールの下へ帰ったのであるから、後で会える。
(問題はわたくし達の方)
イージィスもイクスカリバーも去ってしまった。
魔法が効かない敵に、魔法が取り柄の二人で立ち向かうーー改めてその困難さを思う。
(一人では無理ですね)
セレスト一人では、どうにもならない。
フェン一人でも、遠からず詰む。
二人で連携を取る以外に活路はない。
トールが不在でもマーシェやシャダルム辺りが入ってくれれば、もう少しは余裕があったのだが。
(いないものは仕方ありません。生き延びたら考えましょう)
そのフェンは多頭蛇を挟んで反対側にいる。
いつも通りの顔をしていたから、セレストも常と同じようにしてみせた。
(迷惑をかけてしまいました)
イクスカリバーの助けがあったとは言え、あんな強敵と孤立無援で戦わせてしまった。
せめて、ここからは。
全力を尽くそう。
多頭蛇がぞろりと動き、フェンが身体強化を使って踏み込み、セレストは支援魔法を続けて放つ。
新たな戦闘が幕を開けた。
決して勝つことのできない削り合いが。
✳︎✳︎✳︎
フェンもセレストも身体強化と支援魔法を駆使して高速で動き回り、多頭蛇を翻弄する。
セレストが狙われればフェンが、逆にフェンが狙われればセレストが前へ出て、位置を入れ替えながら魔物の目を逸らさせる。
魔法攻撃には意味がないが、フェンは時折、目くらましと牽制を込めて光属性の魔術を撃ち込む。
負傷すればセレストが癒やす。
互いに口はきかなかった。必要がなかった。信頼があった。
だがーーだからこそ、長続きしないことも分かっていた。
刃の縁で複雑なダンスを踊るような時間が過ぎる。
少なくなっていた魔力が加速度的にこぼれ落ちていく。
多頭蛇が尻尾で大地を叩き、跳躍した。そして空中で長大な蛇身を伸ばし、セレストへ体当たりする。
「……っ」
セレストの回避が遅れる。
身体強化を最大にして自分から後ろへ跳んだが、地面へ叩き付けられた。全身を砕かれそうな衝撃が襲う。
多頭蛇は七つの首をもたげ、一斉に牙を剥く。
フェンが眼前へ飛び込んできた。杖を構えて真紅の閃光をーートールのスキルを再現したそれを撃った。
だが、恐らく時間も魔力も足りなかったからだろう、多頭蛇の首を全て退けることはできず、魔物は半分以上の首をのけ反らせながらも、残った首の一つで咬みついた。フェンが避け損ねて鮮血が散った。
「女神よ! 癒やしの奇跡を!!」
セレストは叫んだ。
「ーーふざけるな!!」
フェンが再び雷光を叩き込み、多頭蛇を下がらせた。
「なんで自分を回復しねえ!」
大声で怒鳴られた。
「決まっているでしょう……魔力が残り少ないからです」
限りある回復魔法をフェンに回した。
単純な話だった。
詠唱を省略することも最早難しい。
「大丈夫。ちょっと痛いだけです。魔法も、あと何回かは」
骨は折れていない。内臓も無事で、擦り傷と打身を作った程度。見た目ほど酷くはない。
「だけ、じゃねえんだよ!!」
怒りつつもフェンが魔術を構築する。
多頭蛇が体勢を立て直し、口を開けた。鋭い氷の飛礫が無数に吐き出された。
フェンは逃げられたはずだが、そうしなかった。
魔法防御力を持つローブの内側にセレストは抱え込まれ、放してくださいと言う間もなく極低温の吐息に晒される。フェンは熱の壁を作って相殺しているが、防ぎ切れない氷の破片が跳ね回って傷が増えていく。
(魔法をーー)
ところが、フェンが彼女の手首をきつく掴んでいて力が入らない。
「フェン! 回復します、手を」
「使うな」
「え」
「魔法はもういい」
「どうしてです!」
いつものセレストなら、振りほどくことが多分できた。周囲の魔力をたどって、どこに、どんな魔法が必要か判断することもできた。
今は難しい。
魔力が枯渇しかかっている。
いや、既に並みの魔法使いなら気絶している頃合いと言えた。セレストの魔力の残りは二割を切っている。
ここから先は生命力と引き換えになる。しかし、やらなければ死ぬのは同じだ。
「お前が倒れたら意味がねえ。黙ってろ!」
そのくらいフェンも分かっているだろうに、手を緩めてくれなかった。
「あなたが倒れても一緒ですよ?!」
「うるせえぞ! 絶対に要らねえからな!!」
フェンは本気で言っている。
回復魔法や支援魔法は原則として、相手が受け入れてくれなければ掛けられない。魔法抵抗ーー自分に不要とみなした魔法から身を守る能力は人族誰しも持っているが、魔法使いは特に強い抵抗力がある。
(普通、回復魔法を拒絶する人なんていませんけど)
この捻くれ者なら、やりかねない。
だが魔法を掛けなくても、状況は悪化していく。
氷の吐息がようやく止んだ。
魔物は口を閉じ、ゆっくりと這い寄ってきた。
ちっぽけな獲物、無駄な足掻きを繰り返した二人の魔法使いを、どう思っているだろう。
蛇に表情はないはずだが、細い目で嗤っているように見えなくもない。狡猾で残忍な性格であり、喰う前に獲物をいたぶることもあるという。
そんな多頭蛇を見詰めて。
「セレスト。お前、まだ動けるか?」
フェンが訊いた。
表情は普段通りに戻っているが、顔色が悪い。恐らく魔力は二割以下……ほぼ限界の一割に近いかもしれない。
セレストは彼の肩に掴まったまま、首を横に振った。
「ろくでもないことを考えていますね、フェン? でも残念ながら無理です」
「正直に言え」
「無理なものは無理だと言っています。仮にあなたを犠牲にして逃げたとして、差はほんの僅かですよ。多頭蛇って口もたくさんあって、咬まずに丸呑みするから一瞬ですし」
「トールの真似がな、あと一回ぐらいは何とかなる」
「またそういう無茶苦茶を……ええ、もうやめましょう」
フェンの背中をそっと叩いてから、セレストは顔を上げて、
「終わりましたね」
と言った。
フェンは黙っていたが、ややあって顔をしかめ、
「ーーもう少し他の手はなかったのか、あの馬鹿」
いつもの悪口を言い捨てた。
地に影が差し、ごう、と風がうなった。
多頭蛇の首がしなって、上を向く。
直前まで気付かなかった。
高高度から一気に降下し、音さえ置き去りにしたからだった。
嵐のように落ちてきたもの、それは淡い紫色をした、異形の翼竜であった。
四枚の翼を広げて制動をかけ、宙を舞う。
その背から人影が飛び降りてきた。
「ーー何で二人ともボロボロになってるんだ?! 死に掛けるの禁止って、前から言ってるだろ!!」
随分と久しぶりに、その声を聞いたような気がした。
セレストは安堵の微笑をこぼした。
勇者が帰ってきたのだ。
✳︎✳︎✳︎
「間に合わないかと思って心臓止まりそうだったんだぞ! 逃げなきゃダメじゃないか」
トールが珍しく説教をしながら、セレストとフェンを見た。
フェンが無言でセレストの肩を押し、トールも心得たもので順番に〈献身〉のスキルを使ってくれる。
「……で、後ろのは何事だ。説明しやがれ」
「ああ、怪獣大決戦になってるよな」
多頭蛇と翼竜が互いに巨体をくねらせ、激しい肉弾戦に入っている。
蛇身を巻き付けようとする多頭蛇。
咆哮と共に旋回飛行しつつ、牙と鉤爪を突き立てる翼竜。
フェンは両者をにらんでいるが、トールはけろりとした表情で言った。
「あの紫色の竜みたいなのは、俺がこないだ会った魔族。多頭蛇は共通の敵だから一時的に……かは分からないけど、とりあえず協力関係だ」
説明を聞いたのに理解しがたい、ということが世の中にはあるものだ。
「どうしてそうなった……」
セレストの言いたいことを、一足早くフェンが口にする。
「うーん、長くなるな。その話は後でいいか? メルギアスも多分、単独だと厳しい」
トールがそう言うからには、色々と……実にあれこれの常識を灰にしてきたのであろう。嫌でもそれが察せられる。
「……仕方ありませんね」
「だな……」
セレストもフェンもうなずいた。不本意だったが。
「悪い。じゃあ行ってくるよ」
トールは異空間からイクスカリバーとイージィスの本体を出し、地面を蹴って風の速さでいなくなった。
「ーーはあ。説明が雑でしたけれど、トール様はどんな無茶をしたんでしょう」
「マーシェのやつ、止めなかったのか」
「止められなかったのかもしれませんね」
勇者の本領発揮で、慌てふためく周囲の姿が目に見えるようだ。
「でも良かった。わたくしもフェンも生きていますもの」
「トールに甘いな、セレストは」
「女神に招かれた者は癒やせませんから。何もできないんですよ? 聖女だなんて呼ばれていても」
セレストは魔法の才能を持って生まれ、幼い頃から研鑽を積み、若くして高位の神官になった。
数え切れないほどの人を癒やした。
それと同じくらい、女神に招かれて旅立つ人を見送った。
手を尽くしても届かずに、救えなかった命の方がーー多いかもしれない。
「聖女とか言う呼び方は気に入らねえが……お前はオレが知ってる中で、一番優秀な回復魔法の使い手だからな。その言い方はよせ」
不意に言われて、セレストは瞬きをした。
フェンは魔法に関して嘘をつかない。
思わず、傍らにいる彼を見上げた。
「何だ、その顔は。そんなに意外か?」
「意外ですよ。フェンにはいつも、子供扱いされていると思っていたので」
「年齢と魔法は関係ねえだろう。ま、お前って最初に会った時は、正しくガキだった訳だが」
「そうでしたね」
セレストとフェンが初めて顔を合わせたのは四年ほど前。トールよりも付き合いは古い。
だが、仲が良かったとは到底言えない。
腐れ縁だ。
そのフェンと、こうして他愛ない話ができる。思えば不思議なことだった。
(昔はもっと近寄りがたい人でしたし。変わったんですよね、フェンも……わたくしも)
セレストは、先程まで死闘を演じていた多頭蛇を見た。
勇者の参戦で形勢は逆転している。
トールのスキルは魔法と異なる。〈全属性魔法無効〉を持っていようとも、聖剣から逃れるすべはない。
渦巻く雷光の合間を縫って、翼竜が飛翔する。
その姿は途中から紫色の輝きと化し、素早く収束して人型をとった。
姿かたちを変えるのは魔族の特徴である。人に似て非なる怪物、ラクサ人にとっておぞましき悪である証と言える。
しかしトールの顔に嫌悪や恐怖は見当たらなかった。
(トール様の故郷では普通なんでしょうか。人が、人ならぬ姿になることも)
勇者と魔族が、共に魔物と戦っている。
この目で見ても、まだ幻ではないかと思う。
一方で、妙に納得している自分もいる。
トールがいるから、きっと再び、何かが変わる。
そこに黎明があった。
✳︎✳︎✳︎
世界は広い。
まさか一部とは言え、魔王と同じスキルを併せ持つ魔物が存在するとは。
多頭蛇が種族の特性として生来、保有する〈自動回復〉。
特殊個体としての〈全属性魔法無効〉。
この組み合わせが厄介極まりない。
魔法で傷つくことがなく、仮にダメージを与えても即座に回復してしまう。体力の自動回復は魔力によって運用されるが、その魔力もまた速やかに自動回復する。
つまり間断なく、魔法以外の手段を用いて自動回復量を上回る強攻撃を浴びせ続け、魔力を削り切った上で命をも刈り取るーーそういう泥沼の消耗戦を強いられる。
とてもよく魔王に似ている。
大陸最高峰の魔法使いであるフェンとセレストでも太刀打ちできない。
物理特化であろうメルギアスも、自動回復を超えてダメージを与え続けるのが難しい。
斃せない敵。
魔族達が奈落の蛇と呼ぶ魔物。
しかし、所詮は劣化版であった。
魔王さえ滅ぼした勇者にとっては。
「手間は掛かるけどな。魔王に比べたらザコだし。精霊が暴れまくった稲刈りよりマシ?」
農作業より下に置かれる多頭蛇であった。
根拠はある。ループを続けた収穫と違って終わりが見えている。
このまま押し切るだけだ。
メルギアスも協力している。翼竜の姿は取りやめ、例の阿修羅像を思わせる戦闘形態をとっていた。複数の腕と翼を生やし、空中を舞うように動きながら、鋭い爪を振るっている。
(俺をここへ運んでくれる契約は完了したはずだけどーー)
案外に義理堅い。
それにしても、飛び交う稲妻の只中へ怖れもなく殴り込みを掛けるのだから、度胸が座っている。
トールもスキルを呼び出した。無数の稲光で多頭蛇を押し潰す。同時にジグザグに走り、聖剣で首を次々と斬り落とす。
魔物も死物狂いで抵抗する。落とした首どもは斬り口から見る間に肉が盛り上がり、再生していく。
メルギアスやフェン達が与えた傷をすぐに再生しなかったのは、魔力を温存していたのだろう。恐らくフェンとセレストを片付けた後で、ゆっくりと回復をするつもりだったと思われる。
しかし今、多頭蛇も本能で理解しているに違いない。出し惜しみをしていると勝てない、と。
ダメージを受けた途端、時間を巻き戻すかのように復活する。斬られた傷も、雷光に引き裂かれた骨や筋肉も、魔力が途切れない限り回帰し続ける。
それをまたトールが叩き斬り、塵に変えていく。
祝福なのか。
あるいは終わりのない責苦なのか。
「結果的に三倍返しみたいになるんだよな、っと!」
三つの首が一斉に吐息を放った。
毒持ちの首も蘇っている。猛毒の嵐が吹き荒れ、火と氷のそれも合わさって地上を舐め尽くす。
トールは聖鎧装の力を展開して押さえ込んだ。
メルギアスも急上昇して逃れ、多頭蛇の背後へ回り込む。宙で加速し、火と氷を吐き出している頭に向かって、後ろから蹴りを入れた。
しかし、毒持ちの頭には近付けないでいる。
「……あの毒が嫌だな、やっぱり」
セレストの解毒魔法すら弾かれる。
トールは女神の加護で大概の毒を無効にできるが、この場にはメルギアスやフェン達もいる。初見ならまだしも、ここへ来て巻き込まれるほど三人とも迂闊ではないだろうが、万一ということもある。
トールは聖剣の持ち方を変えた。
『……トールよ。まさかと思うが、この我を投げ付けようなどと考えておるまいな?』
『悪いな、イクス。そのまさかだ』
『ーー何だと?!』
イクスカリバーの抗議も虚しく、トールの手から聖剣が飛ぶ。
そして毒持ちの頭がメルギアスに咬みつこうと開いた口の内側に、深々と突き刺さった。
太い首が暴れ出す。しきりに頭を振りたくっているが、刺さっているのは最強の斬れ味を誇る聖剣である。喉の奥から後頭部へ貫かれている状態で、そう簡単には抜けない。
『扱いが雑であるぞ?! 蛇の涎まみれではないか』
『ちゃんと複製にしただろ。怒るなよ』
『むう……つくづく非常識な奴め』
トールも主武装であるイクスカリバーを手放すつもりはない。投じた聖剣は、魔力を分けて作り出した複製だった。
本体と人間形態を別々に顕現させることができるなら、本体と複製の聖剣を同時に生み出すことも可能。そういう発想であった。
多頭蛇は首を落としても再生するが、この場合は喉に刺さった複製聖剣が自動回復を封じている。トールが複製を大剣サイズにしておいたこともあり、取り除くこともできなければ、毒の吐息を放つこともできない。
欠点は、トールが持つ本体の斬れ味が少し落ちること。
それに、
『いきなり特殊なぷれいをしおって……』
イクスカリバーにぼやかれることだろうか。
『違うよ?! ぜんっぜん俺の趣味じゃないからな?! 逃がす訳にいかないんだ、しょうがないだろ』
くだらない弁解をさせられる勇者であった。
しかしながら事実として、多頭蛇はここで討たなければならない。
あと数分でも、到着が遅れたら危なかった。
〈献身〉を使った感覚で分かる。
フェンにせよセレストにせよ、限界を超えて魔法を行使し、無理を押して戦っていた。
毒を受けたセレストがしばらく動けなかったことや、多頭蛇の性質から言って逃げるのも難しい面はあったのだろうがーー。
〈全属性魔法無効〉は、魔法を基本とするこの異世界において最悪のスキルだ。フェンとセレストだからここまで粘れたのであって、その辺の魔法使いでは瞬殺されていただろう。
魔術師として、聖女として、勇者パーティーの一員として、ここで仕留めるべきだと二人とも考えたに違いない。
(間違ってはいないな、間違っては。でも、責任感があり過ぎるのも困るというか)
ラグリス各国には「力ある者の責務」という概念がある。地球で言うノブレス・オブリージュに近い。
魔法使いも騎士も戦士も、それゆえに魔物や魔王軍と戦う。
もちろん勇者も。
その敵である魔族さえ、どうやら似たような考えを持っている風に思える。
メルギアスも負傷を隠して普段通りに見せていたが、立っていられたのが不思議なほど追い詰められていた。
多分、最初は自分で事を収めようとしていたのだろう。しかし多頭蛇を斃すことができず、最後の手段としてトールを頼った。
(俺を信用してくれてる、のかもしれないけど……もうちょっと自分を大事にしてほしいよ)
そのメルギアスが、イクスカリバーを振るうトールの傍らへ着地した。
「大丈夫かメルギアス。俺一人でも何とかなるぞ、だいぶ再生速度も落ちてきてる」
自動回復を上回る攻撃を浴びせ続けた結果だ。
「余計だと言うのか?」
「いや、手伝いは助かる」
「手伝い? 違う。奈落の蛇、狩るのは我の使命だ。全て押し付けたりはしない」
「俺の敵でもあるんだぞ? 勇者のスキルって、こういう時でもないと役に立たないからな。まあ良いけどさ」
「……フン」
メルギアスは再度、飛び立った。多頭蛇の首の一つに取り付き、猛攻を加える。
なぜだか知れないが、八つ当たりのようにも見えた。
「あー、マジで脳筋だなメルギアス。あんなボコボコにしちゃって」
トールの口から、場違いな感想が飛び出す。
言いながらも聖剣を振り抜いて、もう何度目か数えてもいないが蛇の尾を両断する。切り口には雷光を放って焼き払う。
魔物の身体がうぞうぞと動く。まだ再生は止まらないものの、先程までの勢いはない。
斬り離された尾も別の生き物のように跳ねていたが、降下してきたメルギアスが爪を伸ばして縦横に閃かせ、細切れにした。頬に返り血が付くのも構わず、肉片に変えていく。
「危ないじゃないか、血にも毒がありそうなのに。何で俺の仲間とか知り合いって、ああいう人、というか魔族というか、無茶するのが多いんだ?」
『やれやれ、ニホン語で「類友」とやら言うものではないのか? 暢気な奴であるのぅ』
イクスカリバーが呆れ果てたような声で言う。
『全くよな。それ、笑っておらんで疾く、蹴りをつけるぞ。トールよ』
これはイージィスの念話である。
『分かってるよ。色んな話し合いも待ってるし』
フェンとセレストに事情を説明しないといけない。
今後こそメルギアスに訊きたいことも、たくさんある。
イナサに残したマーシェも心配だ。
時間を無駄にはできない。
「メルギアス! 一旦退がってくれ」
魔族に声を掛け、退避したのを確かめてから聖なる武具を構え直す。
「そろそろ終わりにさせてもらうーー」
地を蹴って高く跳んだ。
逆巻く風の中から一筋の蒼雷と化して斬り掛かる。
かつて魔王と雌雄を決したのも、この技だった。
多頭蛇は暴虐の光に呑まれる。
強烈な生命力は根源から破壊され、あれほど暴れ狂った頭も胴も尾も硬直し、死を受け容れるより他にない。
時ならぬ吹雪と化したように、魔物の身体は粉々に砕け散った。
再生は起こらなかった。
奈落の蛇は完全に消滅したのである。
わざわざ勇者を異世界召喚して魔王を倒してもらうって、すごく手間が掛かりそうですよね。よっぽどの理由があるだろうなと思ってます。
ヒュドラも例のスキルがなければ、フェンが特大火力を連発して倒せたはず、というお話でした。




