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21.結びの神は、悪戯がお好き(後編)

前後編の後編となります。

※5月4日 一部加筆しました。ストーリーに大きな変更はありません。

 トールは代官ユージェの一行……ではなく、共に出発するシャダルムを見送りに行った。


 だがタイミングが合わなかったようで、まだ誰もいない。

 屋敷の前にはヨーバル家の馬車が停められ、ユージェの従者や侍女等が忙しなく動き回っている。


 少し離れた場所に、イヴがぽつんと立っていた。


 人目があるので、トールは自分からは声を掛けなかった。これが貴族社会の厄介なところで、下手にイヴと二人で話してしまうと、彼女と親しい仲だとか、女性として気に入っただとか、そういうことにされかねないのだ。

 ラクサの上流階級は日本より男女関係に厳しい。異性と二人きりになるだけで、いかがわしい関係と見なされたり、女性は手袋を取るだけで、ふしだらと言われたりする。日本人からすれば、罠や地雷としか言えないような風習がたくさんあるのだった。


 イヴもこちらに気付いて目礼したものの、やはり声は掛けてこない。

 だが、不意にふわりと風が吹いて、耳元で彼女の小さな声がした。

『……色々とお世話になりました』

 これは声だけ遠くに飛ばす魔術だ。フェンも時々使っていたので、トールにも分かる。

 トールもイヴの方は見ずに、小さく唇を動かして喋った。イヴの魔術が、声を拾ってくれるはずだ。

『イヴさん。抜け出してたことはバレなかった?』

『はい。みんな、私のことなんて大して気にしませんから……』

『どうするのかは決めた? セレストが心配してたよ。あとフェンも』

『魔術師団へ……行こうと思います』

 イヴの声は震えていたが、はっきりしていた。

『そっか。助けは要るかな?』

『……いいえ。ご迷惑になりますから。それにスピノエスまでは、お嬢様の護衛をします』

 その時、ユージェの侍女の一人がやってきて、イヴに何か用事を言い付けた。

 魔力の気配がすうっと溶けるように消え、イヴの声は聞こえなくなる。


 トールの背後でも物音がして、セレスト、フェン、マーシェが顔を見せた。

「何だ、トール。早かったな」

「たまたま誰もいなかったんだ」

「何か変わったことはなかったかい?」

 こういう時のマーシェは鋭い。

「イヴさんが魔術を使ってくれたから、ちょっと喋った。……師団へ行くってさ」

「決心がついたのですね。良かった」

「ふん。ってことは、あいつの出番か」

「だと思う」


 低い声で話し合っていると、バロックのいななきと共にシャダルムがやってきた。

「シャダルム、支度は終わったのか」

「うむ。さほど荷物がある訳でもないのでな」

 彼も旅装を整え、バロックの手綱をひいている。

「バロックともお別れだな」

 トールが言うと、バロックは小さく鼻を鳴らした。

 頭の良いこの馬は空気を読んだのか、いつになく大人しい。

「バロックも淋しがっているようだ。一番構ってくれたのはトールだからな……」

「まあ、他のみんなだと大怪我しかねないからだけど」

 トールは苦笑いした。


「……トール。それに皆も」

 シャダルムはぽつりと言った。


「いつ、どういう形になるかは分からないが。いずれまた、ここへ戻って来るつもりだ」

「そうか。楽しみにしてるよ」


 そう答えはしたが、トールは正直、どちらでも構わないと思っている。

 シャダルムはもともと貴族の出身であり、スキル持ちゆえの問題もほぼ解決して喋れるようになった。もう普通の貴族として生きていくこともできるのだ。

 だが、どうなるか不透明だというのに、律義に言ってくる辺りがシャダルムらしいとも思う。


「あなたに女神の御加護が在りますように」

「次は家出すんなよ」


 セレストとフェンがそれぞれ言う。

「あたし一人じゃ大変だからね。早めに頼むよ。それから」

 マーシェはヨーバル伯爵家の馬車を見て、意味有りげに目配せをする。

「あっちのお嬢様がたの護衛もしっかりね。辺境は何が起こっても不思議じゃないから」

「うむ。きちんと送り届けよう」

 シャダルムは、ただ王都の実家へ行くだけではない。

 ユージェらに同行し、一行が確実にスピノエスへ戻るよう目を光らせること。

 それがシャダルムの隠れた役割である。

 実はスピノエスに着いた後にも、もう一つあるのだがーーマーシェは人目を気にして、ぼかした話し方をしている。シャダルムも承知の上であった。


「あのぅ、トールさん……じゃない、勇者様」

 イヴが、今度は肉声で話し掛けてきた。


「イヴさん、出発できそう?」

 トールも何食わぬ顔で応える。

「はい。ですが、その。お嬢様が最後にもう一度だけ、勇者様とお話をしたいと」

「話すことあったかなぁ。イヴさんには悪いけど」

「そ、そこを何とか……」

「トール。最後の挨拶くらいは受けてやりな。こっちが礼儀知らずにされちまうよ」

「仕方ないか。分かった」

 マーシェも口添えしたため、トールは渋々と了承した。




 ユージェは今日も着飾って、しずしずとした足取りで現れた。

 内心は伺い知れないが、口許には変わらず微笑がある。


「お目に掛かれて嬉しゅうございましたわぁ……勇者さま。とても名残惜しいのですけれど、お暇しないといけませんわぁ。侍女達がうるさく言うんですの。あたくし、嫁入り前の身ですものねぇ」

 甘くとろけた声でユージェは言った。

 トールは黙って聞いている。

 それをどう取ったのか、ユージェは嫣然と微笑んだ。


「ねえ、勇者さま。お願いがございますの。ーーあたくしを、勇者さまのお側に置いていただけませんかしらぁ……?」


 思ったより直球が来た。

 貴族的な遠回しのやり方ではうまくいかない、とユージェも気付いたのかもしれない。

 その背後で、イヴや侍女、従者等が挙動不審になっている。彼等も、ユージェがこんなことを言うと思っていなかったらしい。


「代官の仕事は?」

「能力のある者に任せますわぁ。貴族たる者の務めですもの」

 一応訊いてみると、ユージェは当然のように答えた。

 人に仕事を与えるのも、上に立つ者の役割。

 それ自体は、間違ってはいないが……。

「うふふ。勇者さまも領主のお仕事はなさらないから、代官が必要なのでしょう……?」

「まあね」

「でしたら、あたくしだって同じようにしてもよろしいでしょう? 問題はありませんわぁ。いかがかしらぁ……?」

 ユージェがじっとこちらを見詰めてくる。


 トールの答えは決まっていた。


「ーー良いけど。条件がある」



✳︎✳︎✳︎



「ト、トール様?!」

 セレストが驚く声が聞こえる。

 トールは手を上げて彼女を制し、そして続けた。

「見ての通り、俺は勇者を辞めて農家になってるんだ。綺麗なドレスを着て、お茶を飲んでるだけの人は要らないかな。でもユージェさんも、俺の仲間になって農業をやってくれるっていうなら、考えてもいい。他人に何でもやらせるんじゃなくってね」


 トールも最初は断るつもりだった。

 だがイクスカリバーやネイの話を聞いて、色々と考えた。

 今は遠い地で、聖騎士を目指しているという王女リディア。

 お姫様に農業なんてできる訳がない、と切り捨ててしまった彼女のことも。


「お姫様やお嬢様でも、やりたいことをやったらいいと思う。俺はまだ奥さんなんて要らないし、お姫様扱いもしないけど。それでもここに残りたいかどうか、かな」


 かつて、稲作農家だった祖父が口癖のように言っていた。


『徹。稲をよく見るのが一番大事だ。水を欲しがっとるのか。肥料を欲しがっとるのか。虫や病気が付いとって、農薬を掛けなきゃならんのか。必要ないものをやっても稲は育たんし、逆に駄目になるからなぁ』


 求めずとも与えられ過ぎて、まともになれなかった者。


 勇者(じぶん)も一つ間違えば、そうなっていたかもしれない。

 だから、甘いのは承知の上で、この提案をしたのである。

 

「き、きさま! お嬢様に何という侮辱を! いくら勇者でも許さんぞ」

 従者の一人が怒鳴った。

 昨日、イクスカリバー等を脅そうとしたあの男だ。


「俺はユージェさんと話してるんだ。そっちには聞いてない」

「な、な。私はお嬢様のために」

「ユージェさんのため? 自分のための間違いだろ」

「何だと?!」

「黙っててくれないか?」

 トールは男をにらんだ。少し本気が漏れたかもしれない。

 ユージェが連れてきた使用人の中で、最も態度が悪いのはこの男であった。

 使用人達も問題なのだ。名門貴族に仕えているという自尊心が、逆に害悪になっている。最初の一件もあり、特にこの男には好き勝手をさせない、とトールは決めている。

「う、ぐ……」

 男は帯剣しているので、ユージェ一行の護衛でもあるはずだ。

 だがトールがにらみつけていると、次第に顔色が青ざめていき、身体が細かく震え始めた。

「トール、その辺にしといてやれ。死にそうになってるぞ」

 フェンに肩をつつかれた。

「まあ良いけどね。二度と余計なことをしないんなら。で、ユージェさん、どうする?」

 視線の温度を元に戻してから、トールは改めて待った。


 彼女がどう答えるのかを。


「このあたくしに、農民になれとおっしゃるの?」

「ここに居るつもりなら、そうだ」

「……手が汚れますわ」

「洗えばいいじゃないか。清浄魔法って優秀だよな。一瞬できれいになる」


 シャダルムが咳払いをした。


「……トール。高位の貴族は、自分で魔法を使うことはない……」

「え? それもお付きの人にやってもらうのか」

「うむ」

「不便そうだな。ま、練習したらできるようになるよ。俺でも習得できるくらいだし」


 トールは軽く答えて、再びユージェを見た。


「あたくしは伯爵家の者ですのよ?」

 ユージェは扇子で表情を隠したまま言う。

「俺の故郷は身分制度がなかったから、それのどこが駄目か分からないな。王様みたいな立場の人も農業をする国だった。ラクサでも、別に貴族が農業をしちゃいけないって法律は無いようだし」

「確かに無いっちゃ無いけどね……」

 マーシェがぼそっとつぶやく。

 それこそ男爵レベルだと事実上は農家という場合も多い。高位貴族だと普通は自ら農業をしない、というだけである。

「だったら問題ないだろ。やってみたら、案外楽しいかもしれない」

 例えばイージィスのようにだ。

 トールが笑ってみせると、ユージェは口を閉ざした。


 ユージェの美しい顔から、すっと表情が抜け落ちる。

 濡れたような目が伏せられ、長い睫毛が下りる。扇子が持ち上げられ、こんな時でさえ口許に浮かんでいた微笑を隠した。


 長いような短いような沈黙の後。

 彼女はささやくように言った。


「残念ですわぁ、勇者さま……」


 それが、ユージェの答えであった。



✳︎✳︎✳︎



 ユージェは無言で踵を返し、馬車へ乗り込んだ。

 トールに殺気を浴びせられた男もフラフラしながら、列の中へ戻っていく。他の者達も奇妙なほど静かに、かつ機械的に準備を終えた。


「……トールさん」

 イヴが丁寧に頭を下げてくる。


「……ありがとうございました。皆さんも、本当に……」


 イヴの表情は、やはり前髪に隠れて見えない。

 だが口許にだけ、透き通った静かな微笑が見えていた。

 イヴは最後にまた、ぺこりとお辞儀をすると、ユージェの後から馬車に乗り込む。

 扉は閉まり、馬車の列が動き出した。



 シャダルムもバロックに騎乗する。


「またな、シャダルム」

「皆も息災にな。ーーまた来る!」


 はっきりとした声で別れを告げ、シャダルムも去っていった。




「ーー美人の代官にフラれたな、トール」


 一行の姿が小さくなっていくのを見ながら、フェンがトールの背中をばしっと叩いた。


「フェンだってイヴさんにフラれた癖に」

「そんなんじゃねえって言ってるだろうが。全くお前はよ、ヒヤヒヤさせやがって」

「あー、ごめん。言ってなかった」

「結果としちゃ良かったけどね。それにしてもまあ、よく考えたよね、あんなこと」

「そうかな? 俺が農家になってるんだから、別に他の人だって就農しても良くないか?」

「非常識の沼に他人を引きずり込むな。あり得ねえのはお前だけで十分だ」

「今回は良い方に転んだけど、次はちゃんと相談しておくれ」

「……心臓が止まるかと思いました……」

 セレストはよほど驚いたのか、少し顔色が悪い。

「あ、うん。本当にごめん……」

 もしユージェが本気で農家になりたいと言ったなら、仲間達にも協力してもらわなければいけなかった。

 特にセレストの負担は大きかったであろう。

 ユージェに断られたから良い、という問題ではない。

「馬鹿は強火で燃やしとくか、セレスト?」

「……いえ、まさか。わたくしが勝手に驚いただけですから」

「なるほどな。分かった、半日くらい蒸し焼きにしといてやる」

「そんなことは言っていません。フェン、聞いているのですか?」

「火炙りは決定なのか……その前に田んぼを見に行っていい?」

「はいはい。悪ふざけはその辺にしな。とりあえずお客さんが帰ったところで、まず屋敷の中を片付けるよ。ネイ達だけじゃ追っ付かないからね」

「りょーかい」

「チッ、仕方ねえな」

「頑張りましょう」


 マーシェが号令を掛け、トール達はそれぞれ動き出した。


 日常へ帰還するために。



✳︎✳︎✳︎



 がらがらと音を立てて、馬車は進む。


「女神さまは悪戯がお好きなのねぇ……まさか勇者さまが、ああいう方だとは思わなかったわぁ……」


 ほとんど揺れのない、最高級の座席の上で、ユージェ・ヨーバルは少女のように笑った。


「このあたくしに、農民になれ、ですって。甘いようで厳しいお方ねぇ……イヴも、そう思わない?」

「わ、私はそのぅ、驚きましたが。意外ではないです」

 同乗を許されていながら、小さくなって座っているイヴが答える。

「公正な人、だと思いました」

「ふふ……。敵に回すと怖い方でもあるわぁ。あんな目で見られるなんて、ねぇ……?」

「皆さん、さすがに不味いと気付いたでしょうか……」

「あたくしのために頑張ってくれているのに、ちょっと可哀想だったわねぇ」

 ユージェは他人事(ひとごと)のように言った。

「それを捨てて身一つで嫁ぐのは、さすがに難しいわぁ……。お父さまやフリード伯父さまも、どうお思いになるかしらぁ」

「嫁いでこいとは、言われていないような気がしますが……」

「うふふ、些細な違いだわぁ。少しでも気に入られれば、いいの。それも、誰でもいい……そうよイヴ、貴女でもいいの」

「いえ、私は、その」

「勇者さまと、いくらかでもお話ができたのは貴女だけだったでしょう……? 少しくらいはお近付きになれたのではなくて?」

「そんなことは……」

 イヴは口ごもった。

 ユージェはくすくすと笑い続け、ふいに手を伸ばしてイヴの前髪を持ち上げた。


「貴女はお父さまが侍女に生ませた子だけれど。勇者さまに気に入られたのなら、正式にヨーバルの家名を名乗れるわ。遠慮しなくていいのよ、イヴ……? あたくしの可愛い妹」


「…………」

 イヴは眩しそうに瞬きをして、ユージェを見た。

 異母姉妹の二人が共に受け継いだ、すみれ色の目で。

 痩せていて化粧っ気がなく、頬に少しそばかすが散っているのを除けば、その顔立ちは思いの外ユージェに似ている。


 だが、イヴは首を振り、そっとユージェの手を押しやった。ふわりと前髪が元に戻った。

「ご迷惑が掛かりますから……それはしません」

「あらぁ……あたくしに? それとも勇者さまに?」

「……両方です」

「使えない娘だと言われなくて済むのに?」

「私はもう、伯爵様に関心を持っていただこうとは思いませんので……」

「まぁ……」

 ユージェは深々と席に座り直し、溜息をついた。

「ーーお父さまに見限られたら、どうやって生きていくの? どこへ行くつもりなのかしらぁ……ヨーバルの名前も無しに、ただの小娘がやっていけるとでも……?」

「…………」

 イヴは黙った。

 しかし、ユージェには分かってしまったようだった。

 彼女は再び、悩ましい溜息をついた。

 それから思いがけないことを口にした。

「ーーでも、貴女は魔術師ですものねぇ。お父さまには言ってあったの。イヴはちゃんと掴まえておかないと、いつか居なくなってしまうんじゃないかって。お父さまは、聞き入れてくださらなかったけれど……」

「そう……でしたか」

「お父さまには、伯爵として考えなければならないことが山ほどお有りだから……仕方ないわぁ。でも、やっぱり、こうなってしまったわねぇ……」

「お嬢様……」

「もういいわぁ、イヴ。貴女の代わりぐらい、お父さまに探していただくもの。あたくしがお願いしたのに、何もしなかったお父さまのせいですものねぇ」

「……はい」


 イヴの代わりを見つけるのは、ユージェが言うほど簡単ではない。

 ヨーバル伯爵家は名家だが、お抱え魔術師の数は多くない。特に女性は数が少ない。

 初級登録であったイヴがユージェ付きになっているのは、守るだけなら得意だったからであり、貴重な女魔術師で、異母姉であるユージェを決して裏切らなかったからだ。

 魔術師として優れていても、例えばユージェの色香に迷って、良からぬことを考えるような輩には側付きは務まらない。

 イヴのように都合の良い者は、そうはいない。

 ユージェは恐らく、そのことに気付いているがーー誇り高い人であるから、気付かないふりをしている。

 そんな姉のことが、イヴは嫌いではない。

 だが、心はもう決まっている。


 イヴは、馬車が走る音に紛れるほどの、小さな声で別れを告げた。


「さようなら。おねえさま」


 ユージェは最早、イヴの方を見ることさえしない。

 ただ独り言のように言った。


「あたくしも、貴女のように何もかも捨てて……そうねぇ、農家にでもなる方が、幸せかもしれないわねぇ……」



✳︎✳︎✳︎



 一行は、七日ほどかけてスピノエスへ到着した。

 その間、ユージェはほとんどイヴと口をきかなかった。だが、居ない者のように扱われるのは、よくあることでありーーユージェの機嫌が悪い時は特にーー、他の者は不審に思わなかったようだ。


 滞在先であるスピノ伯爵邸に迎えられた後、わずかな私物だけを持って、イヴは密かに伯爵邸を出た。


 夜が明けたばかりで、薄暗い道を歩いていく。

 後ろから馬が一頭、着いてくる。


 馬は、ユージェがこっそりとくれた。今までの給金代わりだと言って。


 言われて初めて、イヴは自分が給金をもらったことが無いと気付いた。彼女は魔術師というより、辛うじてではあるがヨーバル伯爵家の血縁として扱われていた。これまでは食べるものも着るものも、全て用意してもらっていたのだ。

 馬に積まれた荷物を見てみると、路銀もいくらか入っていた。

 とは言え、足りるかは分からない。そもそも自分で買い物をしたこともない。


「だ、駄目だなぁ私……王都に着けるかな……」


 ーーフェニックスにはこう言われている。


 自分が推薦人になって再試験をし、その結果は〈伝書〉で連絡してあるが、一度はイヴ自身が王都にある魔術師団の本部へ行って、昇級の手続きを完了しなければならないと。

 その際に、師団へ入団したいか訊かれるが、入団は強制ではない。イヴが引き続きヨーバル伯爵家に仕えたいなら別に構わない。

 逆に入団を希望するなら、そう言えばいい。伯爵家がどんな横槍を入れてこようとも関係なく、魔術師団が保護に動く、と。


「それからな、王都へ行く気なら、スピノエスに着いて二、三日中に行動を起こした方がいい。理由はあとで分かる」


 時間が限られていて詳しく聞けなかったが、はい、とイヴは答えた。


 がーースピノエスを出て、肝心の王都までどうやって行くか。イヴがそこまで、具体的に考えていたとは言いがたい。

 本来、招かれざる客の一人であった彼女を、彼等は手助けしてくれた。何の見返りもなく。これ以上は迷惑を掛けたくなかった。

 だから、口には出せなかったのだが。


 イヴはユージェの側付きとして、いつも異母姉についていく形でしか外出したことがない。ユージェも高位貴族の娘で、出掛ける範囲は限られていた。王都を出たのも今回を含め、ほとんどなかった。

 考えれば考えるほどーー。


「うう。無理、かも……」


 イヴがついに足を止めてしまった、その時。

 前方から、ぬっと巨大な影が出現し、彼女は悲鳴を上げそうになった。


「イヴ殿、私だ」

「シャダルムさん? す、すみません」

「いや、いい。驚かれるのは慣れている」

 スピノ伯爵邸の前で別れたはずの、騎士シャダルム。

 彼がなぜか、大きな黒い馬と共に立っている。


「あのぅ、どうしてここに?」

「イヴ殿を待っていた」

「え?」

「女性の一人旅は危険だ。マーシェのように慣れていればまだしも、イヴ殿はな……。ちょうど私が王都へ行くのだから、送っていけという話になった」

「え、え?」

「本当はイヴ殿にも、スピノエスへ到着する前に伝えておきたかったのだが……人目があってうまく行かなくてな。待ち伏せのようで気は引けるが、王都方面の領門前ならば落ち合えるだろうから……ここでイヴ殿を待つことに……」

 言いながらシャダルムの眉が段々と下がっていき、情けない顔になる。

「うむ。やはり驚かせてしまったか。申し訳ない」

「ち、違います……」

 イヴは急いで、溢れてくる涙を拭いた。

 いきなり熊らしき何かに遭遇して、怖かったから泣いたという訳ではない。

 その逆だ。

「スピノエスに着いて二、三日で出発した方がいいって、フェニックスさんが言ってましたね。シャダルムさんが待っててくれるっていう意味だったんですか」

「うむ」

「どうして……」

 イヴはまた涙が出そうになった。

「どうして、皆さん、そんなに優しいんですか……」

「むぅ……これでイヴ殿を見捨てては、寝覚めが悪いからだが。余計なことをしてしまったかな」

「そ、そんなことはないです。驚いたけど、嬉しいし、助かります。でも私、何もしていないのに……」

「ふむ。確かに、今回の件は皆してトールのお人好しというか……影響を受けたのかもしれないな」

 トールが農家になったから、セレストやフェン、マーシェが着いていき、シャダルムもまた彼を頼った。

 ユージェとイヴがそこへ来てーー結果として、こうなった。

「運命を変える、などと言うと大袈裟だが、トールにはそういうところがある。イヴ殿も巻き込まれただけだと思う」

「あり得るんですか、そんなこと」

「あるとも。かく言う私だってそうだ」

 王都から逃げ出すようにトールの下へ行った時、まさかこうなるとは微塵も思っていなかったーー。シャダルムはそう言って笑った。

「そろそろ行こう。領門が開く刻限だ」

 シャダルムは馬の手綱を引いて歩き出し、イヴももう一度目許を擦ってから、その後に続く。


 そして。


「そのぅ、シャダルムさん」

「何かな」

「お礼にお返しできるものが何も無いんですけど、どうしたらいいですか」


 スピノエスを出たシャダルムとイヴは、馬の背に揺られながら移動している。

 イヴは一応馬に乗れるものの、あまり慣れていないので歩みは遅い。

 シャダルムに謝ったが、彼には「友人のためなのだから、少し遅れてもリンテ嬢は怒らないだろう」と言われてしまった。

 それで、彼等はゆっくりと前に進んでいる。


「気にしなくていいのだが……イヴ殿の性格からして、そうも行かんか」

 シャダルムは少し考えてから、にこりと笑った。

「そうだな。ではリンテ嬢の好きなものを知っていれば教えてもらえるか。詫びの品を持っていきたいが、何がいいか見当がつかない」

「わ、分かりました。頑張ります。リンテさんの好きなもの……好きなもの……ええと。く……」

「……く?」

「くまのぬいぐるみ?」

「それはこう……さすがに、妙齢の女性に贈る訳にはいかないのだが……」

「そ、そうですね? ええと、じゃあ他にリンテさんの好きなもの……」


 慣れない馬上で、イヴは懸命に考えた。

 大事な親友と、世話になっている人と。


 二人の仲を結べるものは、何だろうかと。



✳︎✳︎✳︎



「そろそろ水を抜く時期……だと思うんだけどなー」


 求めるものを与えるのは難しい。

 相手が、言葉を話せないなら尚更に。

 今日も水田で働くトールだが、稲の方は青々と葉を揺らしているばかり。

 何が足りていて何が足りていないのか、いま一つ掴めない。


 じいちゃんこと龍造の知恵によれば、分けつ期の終了と共に田んぼから一度水を抜き、乾かす作業があったはず。

 しかし、そんなことをして枯れてしまわないか、やはり気になってしまうものだ。


『汝は心配してばかりであるのぅ』


 イクスカリバーがいればそう言っただろうが、今日はここにはいない。

 トールは一日と少し訓練に費やして、聖なる武具達の基本形態と人間形態を並行して顕現させることができるようになった。

 だが、さすがに彼女等の意思までは二つに分けられないそうで、トールの手許に在る聖剣と聖鎧装は物言わぬ分身に過ぎない。

 本人達はメイドごっこの方が気に入っているようだ。


 勇者の力を振るうのに支障はないものの、

「結構、頼ってたんだな……イクスとイースに」

 彼女等の思念が聞こえてこないと、違和感がある。


『ラヴァエロは確かに、女好きではあったがのぅ。だが、あやつには実のところ、汝のように心を許せる仲間が少なかった。それゆえに、人型の我等を必要としたのであるよ』


 イクスカリバーがそう言っていたのを思い出す。


「そういう話なら、まあ分からなくもないけどね……」

 その人型に、あんな格好をさせるところからは理解不能ーー願望としてはともかく、それを実行に移せる神経の構造がーーではあるが。


 結局この日、トールは農作業を早めに切り上げて帰った。

 だが玄関前で足が止まった。


「お、お帰りなさいませですにゃん。ごひゅじんさま」


 ランが噛み噛み猫耳メイドになっていた。


 その横で、猫耳抜きの猫耳メイドを続けるイクスカリバーがにまにまと笑っており、イージィスは諦めたように半眼で腕組みをしている。


「イクス……イース……」

「我は止めたのだがな……」

「くふふ。我等がねこみみを求めても得られぬのなら、別の者にやってもらえばよいのだ。似合うぞランよ」

「そ、そうですかにゃん? 恥ずかしいれすぅ、にゃん」

 妙な語尾まで言わされている。

「ちっちゃい子に何やらせてるんだよ?! ランは余計に駄目に決まってるだろ!」

「小さくて可愛いではないか」

「俺を社会的に殺す気か?!」



 無自覚に常識と運命を破壊する男、勇者トール。

 そんな彼が農業をする、イナサーク辺境伯領は。


「猫耳は求めてない! 却下だって言っただろーーッ!」


 今日も、概ね平和であった。

米の名は…「結びの神」(三重県)

 伊勢神宮を擁する同県が育成。品種名は「三重23号」。栽培基準を満たす米だけが「結びの神」の名で流通する。

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