9.すべては言葉通り sideアルベルト
sideアルベルト
クロエに呼び出され、しぶしぶ指定された邸へと向かう。
馬車の車輪が石畳を軽やかに叩き、滑るように止まった。扉が開いた瞬間、ひやりとした風が頬を撫でる。外に足を出した途端、思わず眉が跳ねた。
――なんだ、この邸は。
目の前に広がる光景に、言葉を失う。
荘厳な門構え、緻密に整えられた庭園。噴水は陽光を受けて宝石のように煌めき、建物は貴族の本邸のように威容を誇っている。
磨き上げられた扉、黄金の取っ手。その前には背筋をぴんと伸ばした使用人たちがずらりと並び、制服の皺ひとつない立ち姿からは、異様なまでの気品が滲み出ていた。
――だが、それ以上に、視線を釘づけにしたものがあった。
使用人たちの顔ぶれ。見覚えのある者たち。
……私の屋敷で、かつて仕えていた者たちだ。
背筋に冷たいものが走る。だが、平静を装い、屋敷の扉へと歩を進める。
その時だった。
「お待ちしておりましたわ」
鈴を鳴らすような声が、空気を揺らした。
見上げた先――玄関前の階段を、優雅に降りてくる女の姿。淡いラベンダー色のドレスを身に纏い、絹の手袋を指先まで整えながら、しなやかに扇を広げる。
――クロエ。
その涼しげな微笑みに、一瞬だけ言葉を失った。記憶にある彼女とは、明らかに違う。纏う雰囲気も、眼差しも――すべてが。
「この邸は……なんだ? 費用はどうした。まさか、金を持ち出したのか!」
思わず、声が荒くなる。
だがクロエは、ふっと微笑んだ。その余裕に満ちた笑みは、私の動揺を楽しんでいた。
「いいえ、持ち出しておりませんわ。置いてきた帳簿をご確認くだされば、すぐにお分かりになります」
ではどうやって? この規模の屋敷をクロエが簡単に用意できるとは到底思えない。
「じゃあ、なぜこんなものが?」
「秘密ですわ。アルベルト様、女の秘密を暴こうとするのは、紳士のすることではありませんよ」
……くっ。
言葉の端々に滲む余裕が、苛立ちを煽る。だが、これ以上追及しても無駄だ。歯を噛みしめながら、屋敷の中へ足を踏み入れた。
案内される廊下。目に入るすべてが、上質だった。壁には高価な装飾、床には弾力のある絨毯。歩くだけで優雅さが演出されていく。
すれ違う使用人たち――やはり、あの顔も、この顔も。
知っている者ばかりだった。
合点がいった。
「……つまり、使用人たちは裏切ったということか」
案内された客室に入り、ソファに座り低く呟くと、クロエがくすりと笑った。
「裏切った? それは少し違うと思いますわ」
「使用人たちと組んで、私から引き抜いたのだろう! だが残念だったな。あいつらが辞めても、痛くも痒くもない。マリーが優秀な者を集めてくれた」
「まぁ、語弊を招く言い方はやめてください。アルベルト様が紹介状も持たせずに、ぽいと放り出したのでしょう? ……あの時点で、どちらに問題があるのかと、噂になるのは時間の問題でしたわ」
言葉に詰まる。
確かに、不要となった使用人たちに紹介状を持たせず追い出した。何の配慮もなく。だが、それすらもクロエは利用したというのか……。
「……悪評が立つ前に雇ったとでも言いたいのか」
「ええ、感謝してほしいくらいですわ」
ちっ!
「ふん……それで、今日は一体、何の用だ?」
「商会の話をしようかと思いまして」
――商会。
それはこちらから切り出すつもりだった。
「まさか、自分が男爵だからといって、商会まで自分のものだと主張するつもりではないだろうな?」
「まあ、その通りなのですが」
クロエは、こともなげに頷いた。
「ですが、私には不要ですので。お譲りしようかと。邸の件で、少し反省しましたのよ」
その一言に、思わず笑いが漏れる。
「はは、それでこそ分を弁えた発言だ。お前では、どうせ荷が重かろう。……待て。契約も従業員も取引先も、そのままなんだろうな?」
「勿論です。名義だけ、そっくり変更いたしましょう」
用意された書類を、慎重に確認する。隅から隅まで目を通したが、不備も罠も見当たらない。私は静かにサインを入れた。
「……よし。本当にそのままかどうか、確かめに行ってくる。これから商会に向かう」
「どうぞ、お好きに」
そう言いながらも立ち上がろうとした時、不意にある疑念が脳裏をかすめ、ふと足を止めた。
「……ところで、うちの馬が一頭もおらず、紋付の馬車までなかったが。何か知らないか?」
紅茶を口に含みながら、クロエはさらりと答える。あまりにも悠然たる態度で。
「ああ、それでしたら。あなたが使用人に“あげた”と仰ったものを、私が譲り受けましたの。もちろん、代金は払いましたわ」
その瞬間、胸の奥に火がついた。
「……やはり、そうか。返せ!」
怒りと、裏切られたという痛みが声ににじむ。しかし、クロエはまったく動じない。むしろ微笑を深める。
「おかしなことをおっしゃるわ。『馬も持って行っていい』と仰ったと、聞いておりますけれど?」
こめかみがぴくりと引きつる。拳を握りしめても、この苛立ちは押さえきれない。
「馬については記憶がある……だが、馬を全部とは言っていない。それに、まさか紋付の馬車まで持ち出すとは……あれは男爵家の象徴だぞ」
扇を静かに閉じたクロエが、にこりと笑う。
「私も男爵家の人間ですもの。必要でしたので、使用人から買い取りましたわ。アルベルト様は気前がよいと思いましたのに、返せとは……使用人たちに一筆書いたのでしょう?『文句は言わない』と」
奥歯が軋む音が、自分の耳にすらはっきりと届いた。
クロエはさらに首を傾げ、問いかける。
「ちなみに……ここまで、どうやって来られたのですか?」
‥‥‥。
「……マリーの家の馬車を借りた」
「まぁ、紋章の付かない馬車で? ふふふ。貴族が使う馬車とは、持ち主の格を示すもの……と聞いておりますけれど?」
嘲るような声音が、胸を突き刺す。屈辱と怒りが一気にこみ上げた。こいつ、わかっていて!
「それでは、お気をつけて」
早く帰れと言わんばかりに扉を開けられ、促される。
肩には、重く、苦々しい思いだけがのしかかっていた。




