6.去りゆく背に告げる言葉はなく sideアルベルト
sideアルベルト
「ご理解いただけましたか?」
クロエの静かな声が、ひやりと空気を震わせた。室内の温度が一気に下がったように感じる。
「……証拠は?」
喉がひりつく。言葉を発するたびに、砂を噛むような感覚がする。震えを押し殺しながら問い返すと、クロエは変わらぬ無表情のまま、一枚の書類を差し出した。
「こちらが爵位譲渡証明書です」
白い指が、淡々とした仕草で書類を押し出す。乾いた音を立てて紙を手に取る。指先に力が入らない。
薄く黄ばんだ紙の上に並ぶ文字を追うほどに、胸の奥が冷えていく。心臓がひとつ鼓動するたび、氷の刃が突き刺さるように痛い。
間違いない。——母上が、本当に爵位をクロエに譲ったのだ。
視界が揺れる。
現実が滲んで、遠のくような感覚に襲われた。水底に引きずり込まれるような——。頭の中で何度否定しても、目の前の事実は変わらない。
「……邸は売らずに、私に譲渡でもよかったのではないか? 義兄、か、家族なのだろう」
必死に言葉を絞り出す。声はかすれ、自分のものとは思えないほど弱々しい。
クロエは涼やかに微笑んだ。その微笑みは、優雅でありながら、どこか冷たい。
「あら、そういう手もありましたわね。でも、あなたが欲しがっているとは気づきませんでしたもの。大変失礼をいたしましたわ」
何も悪びれた様子はない。
「アルベルト様、お急ぎになった方がよろしいかと」
クロエの声は、静かで淡々としているのに、無慈悲に現実を突きつける。
「邸はすでに売却済みです。でも、調度品等の売却の手配はしておりませんので、必要なものがあれば運び出さないといけませんね。お忙しくなりますわ」
全身の血が冷たくなるのを感じる。指先が痺れる。どこまで準備を進めていたのか。どれほど前から計画していたのか。
この家は、もう俺のものではない。
「それでは、失礼いたします」
クロエは優雅に一礼すると、踵を返した。
その背は、隙がないほどに美しく、元平民とは思えない高貴な淑女そのものだった。
音もなく歩き去る彼女を、呆然と見送るしかなかった。
——終わった。すべてを失った。
現実味がない。そんなはずはない。だが、どう足掻いてもこの事態は変わらない。じわじわと、足元から崩れ落ちるような感覚に囚われる。
長年立っていた場所が、突然消え去ったように——。
屋敷の静寂が、余計に耳を刺す。昔からいた執事も、使用人も、すでにいない。壁に掛けられていたはずの家族の肖像画も、いつの間にか外されている。
自分がここに存在した証すら、すべて消し去られたかのようだった。
何も考えられない。心が空っぽになったまま、足を引きずるように歩き出す。
行く先はただひとつ——。
マリーが待つ部屋へ。
扉を開くと、彼女はすでにこちらを見ていた。
爵位を失ったなど、そんな話をこれからされるとは思っていない穏やかな顔だ——。
「クロエとの話は、どうなったの?」
静かに問いかける声が、広い部屋の中に染み渡る。
喉が詰まった。
どう伝えればいい? 爵位が奪われたことを話したら、マリーはどう思うだろうか。
驚くだろうか。怒るだろうか。泣くだろうか。
それとも——。
だが、言わねばならない。
頭の中はまだ混乱したままだったが、目の前で起こった現実味のない出来事を、事細かく話し始めた。
マリーは、じっと黙って聞いていた。
そして、私が語り終えたとき——。
「まあ、そうなの」
え? それだけ?
思っていた反応とは違った。
「……あなたの母とクロエなら、やりそうなことね」
呆れるでもなく、怒るでもなく、まるで予想していたかのように淡々としている。
「ふふ、大丈夫よ、アル」
マリーは微笑んだ。
その笑顔に、張り詰めていた何かが、ほんの少し緩む。
「取り返す方法なんて、いくつもあるのですもの。まずは現状を何とかしないとね。私の家にこの邸の大きな家具は入らないのだから、とりあえず私の実家のバルト商会にすべて預けるということでいいかしら?」
「……本当か?」
思いがけない提案に、わずかな希望が差し込む。
「そうしてくれると……助かる」
「ええ、ならさっそく商会の者を呼んで、荷物を運び出させるわ」
テキパキと話を進めるマリーを見ながら、彼女の強さに驚かされる。
こんな状況でも、彼女は動じない。
「そうね——」
彼女は少し考え込み、それからふっと口角を上げた。
「古い屋敷をあてがわれるより、広くてきれいなタウンハウスの方がいいわ。使用人も減ったし、ちょうどいいじゃない」
「タウンハウス……?」
呆然とその言葉を繰り返す。
そんな発想はなかった。
今すぐ何かを考える余裕もないというのに、マリーはもう次の一歩を見据えている。
なんてポジティブなんだろう。
「……ああ、素敵なタウンハウスに住もう」
ぽつりと呟くと、マリーは微笑んだ。
「じゃあ、私、探しておくわね」
「私にはマリーがいてくれる。それだけでいい」
「ふふ。わたしもよ。でも——やられっぱなしは性に合わないわ。爵位を取り戻す意志はあるのよね? このまま引き下がらず、手を考えましょう」
「ああ、もちろんだ」
彼女の赤い唇がわずかに上がる。
失ったものは大きい。それでも——マリーとなら、まだ終わりではない。なんて心強いんだ。




