番外編:兄の祈り1
お立ち寄り下さりありがとうございます。
ゆっくりと妹の手から転がり落ちた薬湯の椀――
幽鬼のようにやせ細り生気の抜け落ちた僧形の友―
思い出したくもない、けれども忘れることなどできない記憶と共にアンソニーは目を覚まし、溜息を零した。
清々しい朝に、全く似合わない目覚めだ。
早く身支度を整え、彼の天使―、彼の「ただ一人の」妹の顔を見に行こうと思いたち、ふと麗しい美を持つ顔をしかめた。
今日は王城に行き、王太子と初めて対面する予定となっていたのだ。
愛しい妹との時間が減ってしまうことに、アンソニーは、まだ見ぬ王太子に対して、八つ当たりと承知しながら腹立たしい思いを抱いていた。
◇
「お兄様。いってらっしゃい」
妹と離れたくない、王城になど行かない、と幼い自分よりもさらに小さな愛しい妹を抱きしめ、父と執事に冷たい視線を向けられていたアンソニーは、天使のように愛らしい笑顔と声で、はっきりと、きっぱりと送り出されてしまった。
抱きしめた妹から、僅かな呆れた思念が伝わってきたが、それはもちろん気のせいだろう。
そして、今、アンソニーはお茶を味わっている。
クロシア国の王太子の執務室には、バルコニーも設けられている。
晴れた日には、日差しを浴び、眼下に広がる庭を眺めることもでき、招かれた客の心を開放するバルコニーはお茶には打って受けの場所であった。
しかし、今日お茶に招待された幼い子どもたちに、バルコニーの素晴らしさを楽しむ余裕はなかった。
まぁ、それも仕方のないことか。
アンソニーはお茶の香りを楽しみながら、他の招待されている令息たちにさりげなく視線を遣った。
彼らの思念は当然アンソニーに伝わっているが、そもそも思念を読む必要もなかった。
まだ、冷静を装う術にも乏しい令息たちは、一様に威儀を正して、いや、素直に表現するなら、固まっている。
どの令息たちも、家では愛され、多くの使用人に傅かれる立場であるが、幼いながらも両親から王太子に対する立場は叩き込まれ、常とは違う立場に緊張を隠せない。
お茶に手を伸ばしているのは、王太子とアンソニーだけだった。
王太子の学友に見込まれる令息たちだ。将来、もちろん遠い、かなり遠い将来、愛しい妹の伴侶になる可能性がないこともない。
けれども令息たちの人となりを見定めるには、あまりにも早すぎる状態だった。
つまり、アンソニーのお茶会の目的は終わってしまったということだ。
せめて、お茶とお菓子を楽しむぐらいはしないと、この時間が意味のないものになってしまう。
しかし、この王太子ではこの国の行く末が思いやられる…
アンソニーはカップ越しに、華やかな美を持つ王太子エドワードに視線を向けた。
日を受けて煌めく金の髪に見合う華やかな美は、持ち主の表情のなさから冷たいものになっている。
王族として弱みにつながりかねない自分の感情を相手に読み取らせないためならば、それも少しは認めるところがあったが、アンソニーにはエドワードが感情そのものを持っていないことが分かっていた。
アンソニーがエドワードに認めることがあるとすれば、ここまで感情を持っていないということぐらいであった。
感情が希薄な人間に会ったことはあるが、ここまでの人間はいなかった。
招待客の緊張に気づきもしない、というよりも何の関心も払っていない。
まるで置物が増えたかのような、――置物にも関心を持ってもらいたいが――、存在すら気に留めていない。
これで国政を預かる立場になれば、この王太子はどのように舵を取るのか恐ろしいものがあった。
よほど優秀な側近をつけなければ、この国の未来はないだろう。
場合によっては妹の為に別の国に移住する準備をしなければいけないとアンソニーは暗鬱な思いに囚われた。
自身の気鬱と、哀れを誘うまでに高まった周りの緊張をほぐすために、アンソニーは話題を振った。
「殿下は、香草や香木に関心がおありなのだそうですね」
公爵家の力をもってしても、王太子の好みで把握できた唯一のものを口にしたとき、
――!
押し寄せた一瞬の思考が、アンソニーの呼吸を止めた。
光のような、そして闇のような激しい想いだった。
そしてその中に、鮮明に「妹」の笑顔と香りが浮かび上がった。
瞬く間にかき消えてしまった思念だったが、アンソニーが見過ごすはずも、見誤るはずもない、懐かしい愛しい「妹」だった。
全精力を傾けて平静を装ったアンソニーは、儀礼的にエドワードに向けた笑顔の下で一つの事実を噛みしめていた。
君もこの世に生まれてきていたんだな。
アンソニーの笑顔に気づきもせず、凍り付いたままの美しい顔は、夢で見た幽鬼のようにやせ細り生気の抜け落ちた僧を思い起こさせた。
君はまだあのままなんだね。
アンソニーはカップに目を落とし、そして自分に浮かんだ思いをお茶と共に飲み下した。
お読みいただきありがとうございました。
続きをいつ書き上げられるか不明なため、一度ここで完結とさせていただきます。
申し訳ございません。




