>懐疑論は結局行き止まりなのでは
>懐疑論は結局行き止まりなのでは
懐疑論は、判断の一時停止で戦争などの争いの場や危急の場では愚行です。
救急救命で悠長にはしていられませんから医師は考える間もなく
迅速に診断し判断をして、災害現場などでの救急救命のタグつけなど、場合によっては命を切り捨てなければなりませんからね。
けれど、そうでない場でゆっくり考えもせず
診断をくだされるのは怖ろしい話です。
二つとも迅速な判断ではあっても別物ですが
時に
周囲に煽られたり
雰囲気に流されたり
そういう状況であるかのように騙され
戦場の理屈で日常の理論を破壊して
拙速な判断へと人は誘導されます。
操られず
欲望に溺れず
疑った末の結論を出すというのは
「信じる者は救われる」という妄信の否定で
科学的な思考の第一歩ですから
文明人としては必要な姿勢だという事ですね。
宗教のオカルトとフィクションから逃れようとしていた
ルネッサンス期に懐疑論が生れたのはそういう事なのでしょう。
そして行き止まりかどうかは
また別の話です。
一時判断を停止して科学的な思考で熟考した後に
誰かに用意された選択肢でない自分の生き方を選べるかどうかの話で
懐疑論は最終的に判断を下すのを止めようという論ではありません。
フィクションでいうなら
「全てを疑う。それが刑事(探偵)の性」
というアレです。
自分がトリックに引っかかってミスリードされてるという事まで考える。
判断に至るまでの方法論というやつです。
判断の結果、自分や周りの人々が、どうなるのかや
広い視野で社会や国家や人類全体にとって
自分の決断がどんな方向性を持つものなのかを考え
間違ったと気づいた時に、どうすべきかも含めて考え
その末に決めるのなら
どんな決断も自分の決断で
「誰かや何かに操られたりした結果ではない」ということです。
もちろん、騙される場合はありますが
結果を誰かや何かのせいにできないのが社会的責任です。
国家が不公正だと抗うのも含めての自由という
争いを根幹とした不公正な欧米型現代社会で
その欧米型現代社会に抗うのも自由というのが
アメリカのいう「革命する権利」
まるで「争いあえと定めたような常識」です。
フィクションの言葉を借りるなら
「嫌だねー、正しい事をするのに決意や強い意志が必要な社会ってのは」
というやつとかでしょう。
つまり
欧米型現代社会で生きていくには
個人的な決断に、意思ではなく意志が必要とされる
という話ですね。
行き止まりと思えるのなら、何かが決断には足りないのでしょう。
判断基準を構築できないか、判断材料が足りないか
考え続けて選ばないという選択も選択の一つ。
それを選べるのが、心の自由で。
選挙でいうなら投票する価値のある者なしと考えて
投票用紙にそう記載して投票するのも選択という事ですね。
ただ
この「争いあえと定めたような常識」で動く世界には
「自由と独立のために」という口先だけの綺麗事で
どうしても当選させたくない議員を殺害する
なんて選択肢も存在していて
世界に負の連鎖を撒き散らしていますので
何もしないという‘ 甘え ’は、危険ではあります。
負の連鎖への参入は自由ではなく混沌で
自由とはもっと綺麗な事。
自由と同じで悪用され続けた言葉でいうなら
民主主義の「理想」ですので
間違えないためにも懐疑論は必要という話になります。




