開戦前夜 ②
デルニエール。ティミドゥス公の居城。
最も高い位置にある城門の上から、ソーンは街の灯を見下ろしていた。生温い風が赤い髪を揺らし、少年らしい頬を撫でていく。
干し肉を咥え、しかし口は動かず。口内に漂う塩辛い肉の風味が、波立つ心を落ち着かせてくれる。
「若。このような所におられたか」
鎧の音と共にやって来たのは、老将ジークヴァルドだ。彼はすでに戦支度を終え、今すぐにでも出陣できるという気概を湛えていた。
「決戦は明日ですぞ。今夜はじっくりと英気を養われては」
胸壁に腕を乗せて夜景を眺めていたソーンは、ジークヴァルドの落ち着いた声を聞いて目線を上げる。
「できる限りの準備は整えた。これ以上はないってくらい入念に」
兵を鍛え、武器を作り、策を練って、豊富な糧食を用意した。金は使ったが、人材は集まり、人望もまた集まった。
「それでも、不安なんだよ」
不十分なのではないか。まだ何かできることがあるのではないか。その全てやったとしても、勝てないのではないか。
そんな不安が、拭いきれない。
「珍しいこともあるものですな。よもや、若の口から弱音を聞こうとは」
短い笑いを漏らして、ジークヴァルドは髭を弄る。
ソーンは勃然とした表情で干し肉を齧り始めた。子ども扱いされているようですこし癪だ。年少であると頭では分かっていても、心を制御することは難しい。
「これは失礼を。ご気分を害してしまわれたならば、謝罪いたします」
「いや」
敬礼をとったジークヴァルドを、ソーンは手で制した。
「腹を立てているのは僕自身に対してだ。この街には、僕を神童と称える人も多いと聞く。でも、本当にそうかな? 古に名を馳せた賢人達は、みな強き心の持ち主だったはず。敵と戦と、今から自分がやろうとしていることを目の前に、物思いに耽るなんて。真に知恵ある者の振る舞いとは言えないだろう?」
再び街の灯に目を落としたソーン。ジークヴァルドは目を閉じ、何度か小さく頷いた。
「私は戦うしか能がない男であります故、小難しい話はわかりませぬ。ですが、戦の心構えとして、とある賢人の言葉を胸に刻んでおります」
「誰だい?」
「かの名将チェキロス」
ああ、とソーンは呟く。
建国王に仕えた古の名将は、他国を遥かに凌駕する武力を持ちながら決して敵を侮らなかった。いかなる弱軍であろうと、全身全霊をもって叩き潰したという。
「自信は慢心に代わり敗北を呼び、不安は確信となって勝利をもたらす」
ソーンが諳んじた言葉に、ジークヴァルドは深く頷いた。
「私が歴戦の将軍でいられるのは、誰よりもその言葉の重みを理解しているからだと、そう自負しております」
力強い声にこめられていたのは、まさに確信であった。
齢六十を超えてなお最前線を牽引する老将軍の強さは、数多の勝利と敗北によって築かれたといえる。チェキロスの言葉を目で読んだからではない。古の名将が遺した哲学を、その身で読んだからである。
「ですから私は、若の胸の内を聞いて安心したのです。この戦、勝てますぞ」
デルニエールにおいて最も多くの戦を経験した彼の言葉だからこそ、ソーンは素直に聞くことができた。不安を消すのではなく肯定する。今感じている思いこそが勝利の種であると。
「歳の功っていうのは偉大だね。僕は自分が優秀だと信じてるけど、こういうことがあるとやっぱり未熟なんだと実感するよ」
「なに、私とて同じです。家には若と同年の娘がおりますが……いやはや、年頃の娘というのはどうにもわからないものでしてな」
「はは。百戦錬磨の老将軍も、愛娘には手を焼くのかい?」
「人生最大の難敵ですな」
深夜の城門に笑声が重なる。親子か、それ以上に年の離れた二人だが、彼らは心を一にする同志であった。デルニエールの未来を憂い、民を守る志を立てている。
ソーンは干し肉を噛みちぎり、口の中に放り込んだ。
「お父上はどうされている?」
「ぐっすりとお休みです。戦を前に眠れず、酒に浸り、酔い潰れておられましたな」
「相変わらずの愚図だな」
普段はふんぞり返っているくせに、いざとなるとこれっぽっちも頼りにならない。あれに比べれば折れた剣の方がまだ役に立つ。
「作戦が成功した暁には、デルニエールは今よりもっといい街になる。僕達の新しい門出を、魔族が祝福してくれていると捉えられなくもないね」
「なんとも剛毅なお考えですな」
ソーンにもはや不安はなかった。否、抱える不安を受け入れ、戦う力へと変えていた。
「戦が終わったら城でパーティを開催しよう。僕達の勝利と、新しいデルニエールの誕生を、みなで盛大に祝うんだ。ああ、もちろん奥さんと娘さんも連れてくるといい。お二人にいいドレスを贈ろう」
「ご厚意に感謝を。きっと喜びます」
改めて敬礼をとったジークヴァルド。
ソーンは胸壁から離れ、踵を返す。
「僕はもう休むよ。敵は夜明けに攻めてくるはずだ。メイホーンを連れ、迎撃準備を整えておいてほしい」
「御意」
ソーンは城門を後にする。
メイホーンと熟考し、魔族が取り得る策を何通りも模索した。その全てに対策を打ったが、正直なところ敵が緒戦から策を用いる可能性は低いと考えていた。
魔族は強い。仮に策を邪道と見なしていなかったとしても、彼らは正攻法を選ぶだろう。それだけで楽に勝てるのだから。
だが、ここは古くより難攻不落で知られるデルニエールだ。他の都市とは一味違うのだと思い知ることになろう。
灰の乙女や国家の命運など些末なこと。
生まれ育ったこのデルニエールこそが、ソーンにとって世界のすべてだった。
一人の民として故郷を守る。為政者として民を守る。
彼が戦う理由は、ただそれだけだ。




