砕け散る幻想
「ほら!」
一向に動かないカイトに痺れを切らしたソーニャは、きんと響く声を放つ。
それでも動かない。いや、動けないのだ。腰が抜けるなんて、ただの大袈裟な例えだと思っていた。まさか本当に立てなくなるなんて。
そんなカイトのすぐ傍に、バレーボール大の何かが転がってきた。
獣達が食い殺した看守の成れの果て。その頭部。形容するのも憚られる無惨な状態のそれは、カイトの喉を引きつらせるには十分すぎた。
「あはっ。もう食べちゃったの? まったくこの子達ったら食いしん坊さんなんだから」
考えるより先に身体は動いていた。飛び起きるように立ち上がって壁に空いた大穴に駆けこむ。体を竦ませた恐怖は、より強い恐怖によって塗り潰されていた。
「ばいばーい」
背中に投げかけられた暢気な声色も、どうしようもなく気味が悪い。
涙目になりながら、カイトは走った。
未熟な心を埋め尽くす絶望的なまでの恐怖。間違いなく人生で最大の戦慄。
けれど、それとは別に、カイトの胸には正体不明の感情が渦を巻いていた。
もしチートがあれば。力があれば。魔族を撃退して、称賛を得られたはずなのに。
自分の力を証明して、満ち足りた人生の一歩を踏み出せたはずなのに。
逃げるなんて。弱い者のすることじゃないか。
「俺は……弱くない!」
呑み込めない激情を吐き出す。
「弱くないんだ!」
いくら叫んでも覆しようのない、あまりにも情けない事実。
目に浮かんだ涙が、仄暗い地下道に散って消える。
「異世界なら、最強なんだ!」
夢見ていたのだ。
意気揚々と異世界に乗り込み、どこからともなく強大な力を手に入れて、思うがままに生きる人生を。
退屈でくだらない日常を抜け出せば、それが叶うと信じていた。
異世界でならば、戦場で名を馳せ、英雄として称えられるはずだった。
今の自分を見ろ。
惨めに泣き叫び、逃げ出す自分を。
「くそっ! くそぉっ!」
涙が止まらない。
異世界に来ても、自分は自分だ。
何も、変わりはしない。




