21.消えたジェラルド様
私はジェラルド様の指示で先に屋敷へ帰った。
彼は緊急時のために装備を持ってきていたらしく、私を馬車まで送るとそのまま仕事に行ってしまったから。久し振りに一人きりで――エスティーとジェリーに挟まれて、いつもより温かくないベッドで眠った。
朝起きてもジェラルド様はいない。
窓から見えた急ぎの馬車に慌てて玄関ホールへ駆け降りれば、騎士がヴァイオレット宛の緊急依頼を持ってきた。
妻が知り合いだから普段の依頼ルートより早いと、ジェラルド様が仰ったらしい。
耐火・物理・衝撃波の特級強度結界を最低一つ今すぐ、順次もう三つ、完成次第。
「郊外にドラゴンが出ました」
その一言で血の気が引いた。
一度現れれば死者の数が数万では足りぬと言われる災害級の魔物。他の魔物の大量発生はドラゴンから逃げるためであったようだ。
応接室の家具をどかしてもらい、騎士が持ってきてくれた五メートル四方の耐火布を重ねて敷くようクレマン達に命じる。私が魔力筆を取りに行く間にその準備と、二枚目以降をどこへ運ぶか確認しておいてもらった。
騎士には転移魔法陣でヴァイオレットを連れてくると言い、別室に待機させて作業にかかる。
一枚目を三十分で仕上げ、すぐ騎士に持ち帰らせた。
この緊急時、もはやクレマン達に正体を隠す事はない。必死で二枚目を書き上げ、用意してくれた軽食を魔力回復薬で流し込んで作業を続けた。魔力が無ければ書けないため、一枚仕上がるまでの時間は数時間にまで延びた。
指定範囲から察するに、私が任されたのは王都を守るための四方結界。
現場で戦う騎士団を守るための物では無い。きっとそれは別で用意されているのだと信じて筆を走らせた。
四枚目を書き上げた瞬間、私は倒れたらしい。
目覚めたらあの夜から三日経っていた。丸二日ほど寝ていたようだ。
診断は魔力欠乏、薬による回復を消費が上回った。これほど一気に大量の魔力を使う事などないから見誤ってしまったわね。
「ドラゴンは?」
「討伐されたそうでございます。今は事後処理を」
クレマンの言葉にほっと安堵の息をついた。
でも心臓が嫌な音を立てる。脅威は去ったと言うくせに、クレマンの表情が晴れない。彼は少しの間を置いて手を差し出し、何かをくるんでいるハンカチを解いた。
ぽっきりと折れた、金木犀のピンブローチ。
花も欠けてしまっている。
「これを先程、騎士団の方がお持ちくださいました。」
「………。」
「旦那様は行方不明だそうです。」
頭を殴られたような衝撃だった。
ジェラルド様はまだ戻っていないのだ。思わずごくりと唾を飲み込む。
詳細を聞かなければいけないのに、言葉が出てこなかった。部屋の隅でリディがきつく唇を引き結んでいる。
「夕方、騎士団の方が状況説明にいらっしゃるとの事です。お会いになりますか」
「…えぇ。リディ、身支度を手伝って」
「はい」
水分を多めに軽食を取ってから身を清め、衣服と化粧を整える。
ジェラルド様と別れた夜で止まっている日誌に気付き、頭を整理するためにもとペンをとったけれど……上手く言葉が出てこなかった。
ピンブローチが戻って来た事だけ書き加える。
私の支度が整ったと聞いて、少しは落ち着いた頃と思ったのだろう。クレマンが今朝の新聞を持ってきてくれたので、ありがたく受け取って目を通した。
国の歴史上、もっとも王都に近い場所でのドラゴンの出現。
遠くで燃え盛る炎に怯える民が見たのは、眩く輝く魔法陣の光であった――…私が納品した魔法陣は、届くごとにすぐ発動されていたらしい。ヴァイオレットの名が大きく掲載されているが、それはどうでもいい。
第一師団長、第三王子ラファエル殿下がドラゴンを討伐。
共闘した第二師団長ファビウス侯爵、消息不明で生存は絶望的か。騎士団の死者は二千を超え、負傷者は一万近い……そう書かれている。
ラファエル殿下は今日凱旋パレードらしい。時計を見るにもう終えた頃だろう。
――…パレード?ジェラルド様が、見つかってないのに。
どうしてもそう思ってしまう。
わかっている、国民に「もう大丈夫だ」と示す事は、「安心していい」と教える事は、とても大事なんだと。わかっているけれど。
「奥様」
「……大丈夫よ、クレマン。ジェラルド様は大丈夫」
「…はい。」
神妙な顔で頷き、クレマンは一瞬躊躇ってから口を開いた。
「昨日クラーセン男爵がお見えでしたが、お倒れになったと伝えて帰って頂いております。」
「ラウが?――っ…」
つい本名を口走ってしまい目が泳ぐけれど、クレマンは深く聞かなかった。
「目覚めたら自分が来た事を伝えてほしいと。どうなさいますか」
「……今夜来るよう連絡を。騎士団の方と面談した直後が望ましいわ」
「鉢合わせぬよう調整致します。」
「ありがとう。それと夕方までに地図を用意できる?現場の……ベルガの森付近の地図。詳細なものを」
「旦那様の執務室にあったかと。探しておきます」
心臓が重く脈を打っている。
ジェラルド様が最後に確認されたのはいつだろう。私は眠り過ぎた。魔力欠乏になどならなければ、もっと何か…何か、できていたかもしれないのに。
「切り替えなきゃ…」
あの時こうしていたら、を考えても仕方が無い。
私にできること?そんなのより良い魔法陣の研究に決まっている。
自分専用の資料室に飛び込んで、私は夕方までずっと資料を漁っていた。
夕方、応接室で待っていた私のもとに上等な制服を着た騎士が現れる。
色素の薄い金髪に水色の瞳をした男性で、後ろからついてきた部下二人には廊下での待機を命じていた。テーブル越しに向かい合い、私は淑女の礼をする。
「初めてお目にかかります。ファビウス侯爵ジェラルドの妻、エステルでございます。」
「話すのは初めまして、夫人。第三王子ラファエルだ」
そんな挨拶に唖然として彼を凝視した。
ラファエル殿下は気さくに笑い、「こっちの方がわかるかな」と後ろ手に隠していた物を顔の前にかざす。
クローカラスの仮面。
夜会の主催さんが、ジェラルド様が「あいつ」と呼んでいた知人が、第三王子殿下だったのだ。
息を呑む私に頷いてみせ、殿下は「さて」と仮面を取って座った。私も静かに腰を下ろす。
「状況はどこまで知ってるかな。」
「今朝の新聞は拝見しました。」
「そっか。最新の情報で言えば騎士団の死者は二千三百八十四人、負傷者一万飛んで百三十七人、行方不明者は君の夫一人だけだ。」
膝の上で拳を握り締めた。
行方不明者に数えられているという事は、死体が見つかっていないのだ。なら、絶望するには早すぎる。
私の考えが読めたのか、殿下は長い睫毛を伏せた。
「先に言うよ。生きている可能性は低い」
「……なぜでしょう。」
「追い詰められて恐慌状態に陥ったドラゴンが、空中にいたジェラルドを尾で薙ぎ払った。私はその隙を突いてトドメを刺したわけだが……守護と思われる魔法陣が浮かんで砕け散るのを、複数の騎士が目撃している。」
ドラゴンが恐ろしい勢いで尾を振った後、そこにジェラルド様の姿は無かったという。
一瞬の発光、それが散ったのは魔法陣が砕けた証。
「…でもまだ、見つかっていないのですよね。」
死体という単語を言いたくなくて、そう聞いた。ラファエル殿下は膝の上で組んだ手を軽く擦る。
「そうだけど、ブローチは見ただろう?騎士服に着替えたあいつが大事そうに胸元に入れるのを、私は見ていたよ。叩かれた衝撃で折れ、同時に零れ落ちたものだと思われる。」
「……森の地図を、用意しました。場所はどのあたりですか」
書き込まれた文字が殿下から読みやすいように地図を広げた。
殿下は目を細め、「ここから移動し…」と小さく呟きながら指先で辿る。それは大渓谷の近くで止まった。
近いと言っても地図上だから、実際は一キロ以上はあるだろうか。
ドラゴンの尾で弾かれたら、人はどこまで飛ぶのだろう。
そんな一撃を受けたなら、その命は――…
「私が戦っていたのはこの位置、ドラゴンの大きさはこれくらい……ジェラルドはこのあたりだな。」
「飛ばされた方角はわかりますか?」
「誰も飛んでいく姿は見ていないので不明だが、おおよそ北東から北…しかし、重点的に探してはいるんだ。それで見つかってないんだよ。もし谷に落ちていた場合は捜索に一ヶ月以上はかかるだろう。あそこはかなり深い上に急流だからね。」
「……探してみます」
「心配なのだろうが、それは絶対にやめてくれ。」
殿下が厳しい目できっぱりと言った。
大渓谷は凶暴な魚の魔物もおり、熟練の騎士でも苦労する場所で、下手に人をやっても行方不明者が増えるだけだという。
「一つだけ……貴女も新聞を読んだなら、ヴァイオレット・バラデュールは知っているかな。それとも夜会で会えた?ジェラルドから聞いた事くらいあると思うが」
「……どういう事ですか?私に彼女への取り次ぎを頼んだのは、騎士団ですが…」
「うん?あの特級結界は貴女が取り次いでくれたものだったのか。それは失礼した。第二師団が動くという事で、私はそこまで把握していなくてね。」
「いえ、それはいいのですが…彼女が何か?」
手にじっとりと汗をかいている。
殿下の話には私が忘れていた何かが、気付いていない何かがある気がした。
「尾の一撃はほとんど予備動作がなく、予測は無理だったと思う。つまりジェラルドがやられた時に破壊された守護の魔法陣は、自動発動が組まれたもの。あいつが肌身離さず持っていた【ヴァイオレットの懐中時計】のはずなんだ。」
「っ!!」
思わず目を見開く。
そうだ、なぜ気付かなかったんだろう。
街に出かける時さえあれを持っていたジェラルド様が、ヴァイオレット本人と会える日に持っていないわけがなかった。
顔色が変わっただろう私に気付かず、ラファエル殿下は顎に手をあてて考え込んでいる。
「幾度か自慢…見せてもらった事があるんだが、あれは相当な代物でね。私は攻撃系特化だから専門ではないが、かなり色々な効果がついていたはずだ。彼女に聞けばもしかすると…」
「転移」
「え?」
胸元で手を握り締める。
あのチャリティーオークションが開催された理由は、魔物の大量発生で壊滅した地方都市の復興と避難民の救済のためだった。
依頼の指定は「守護」のみ。
そのため研究者によって、提出された魔法陣の機能に多大な差が生まれてしまったと聞く。
私はやり過ぎた側の研究者だ。
「あれは――…【守護】が破壊された時、緊急避難措置として【転移】が即時発動します。」
「……何だって?」
「魔物の大量発生は、逃げようとしても逃げ切れない人が大勢いたと聞きました。だから…だから私、【興奮状態の魔物から、一キロメートル以上離れた広い空間】へ……【接地状態】で転移するように、組んだんです。だってそうしないと空に飛んじゃうし、ただ悪い人相手の場合は、逃げた先に敵の仲間がいないとも限らないのですが…」
「待ってくれ、夫人。貴女はもしかして」
「ヴァイオレット本人です。」
殿下が愕然と私を見ているけれど、それどころではない。
魔法陣に何をどこまで組み込んだのか必死に思い出していく。接地を条件にした以上、渓流に呑み込まれたという事はないはずだ。
でも地上では未だジェラルド様が見つかってない。
なら、彼はどこにいる?
「……殿下、この森に地下……洞窟はございますか?」
「!そういう事か…参ったな。一応王家の秘密なんだけど」
どうやら地下迷宮が存在しているらしい。
天然洞窟を利用した王家の緊急避難路ではあるが、殿下が知っているのは王城地下の入り口と、森の出口までのルートだけ。もちろん道順は私に教えるわけにいかないし、迷宮全体の構造は国王陛下が地図を持っているかどうかすら怪しいようだ。
…あったとして、果たして貸してくださるかしら。
リスクを考えれば殿下一人を探しに行かせる選択も、捜索隊と共に行かせる選択も、陛下はなさらないのでは?
だって、ジェラルド様がいるかもしれないと言っているのは私だけだ。
生存の可能性ごと捨てられるのではないかと思ってしまう。
扉がノックされ、急いで入って来た騎士が慌てた様子で殿下に耳打ちする。
ラファエル殿下は眉を顰めて頷き、立ち上がった。
「すまない、陛下の呼び出しだ。」
「っ殿下、行かせてください!魔力を辿る事ができれば、あるいは――」
「夫人」
諫めるような声を飛ばし、殿下は腰を浮かせた私の肩を軽く押さえて座り直させる。
テーブルに広げていた地図をくしゃりと膝の上へ乗せられ、私はやるせない気持ちでそれが落ちないよう片手を置いた。
幼い子供に言い聞かせるように視線を合わせ、ラファエル殿下が私の手に自分の手を重ねる。
「ジェラルドは私の親友だ。心配なのは同じだが、貴女が一人で飛び出しては私があいつに叱られてしまう。そんな事はしないでくれ。黒い狼に攫われたらどうする?」
「……待てと言うのですか。探してくださいますか?」
「騎士団から今以上に人を出すという確約はできない。だが彼の女神ほどの力があれば、きっと見つかるだろう。では失礼する。」
見送りに立ち上がる事もできない私の代わりに、クレマンやイレーヌ達が殿下について行った。
扉がぱたんと閉まり、私はこくりと喉を鳴らして目を落とす。
殿下に動かされた私の人差し指は、森のある一点を示していた。
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この後、ラウに会う。
私にできる事をしよう。
ジェラルド様はきっと、ご無事だから。




