17.あくまで妻の許可を得たい(ジェラルド視点)
大事件が起きた。
もう何度読み返したかわからない手紙にもう一度、目を落とす。
アレクサンドル・ラコスト様
初めまして、ヴァイオレット・バラデュールと申します。
魔法陣の研究に励む一人でございます。
突然の手紙で驚かせてしまったでしょうか。
実は以前からラコスト様の研究に強く感銘を受けており、
いつかはこの感謝と尊敬をお伝えしたいと願っていた次第です。
「これは夢か?」
いや、夢ではない。既に幾度か頬を叩いたり目を擦ったりしている。現実だ。
それでも中々信じられない、ヴァイオレット女史から俺に手紙が来た!
彼女は具体的に本の題名を挙げつつ、自分には無い発想にどれだけ驚いたか、良い刺激となったか、知れば知るほどに貴方は凄いのだと、嬉しいを越えて俺の顔が熱くなるほど書き連ねていた。
俺を、アレクサンドルをここまで褒める人などエステルしか知らないので、自然と彼女の声で脳内再生される。緑色の瞳をきらきらさせて、嬉しそうに笑って。
だが、これを書いているのはヴァイオレット女史だ。
俺がずっと憧れ尊敬している、あの途方もない芸術作品を生み出す女神。
前世でどれだけの徳を積んだらこんな手紙を貰えるのだろう。いっそ偽物かと一瞬頭をよぎるが、差出人のサインは魔力筆で書かれている。研究者が絶対の本人証明に使う手だ。疑う余地はない。
お忙しい事と存じますので、ご返信には及びません。
これからも応援しております。
ヴァイオレット・バラデュール
「俺は今日死ぬのかもしれない」
幸福が過ぎる。
エステルに「聞いてくれ!!」と叫んで話を聞いてもらいたかったが、俺がアレクサンドルだと言うわけにもいかない。参った。ヴァイオレット女史は返事はいいと言うが、そんなわけにいくか。
魔法陣界の女神に捧げる手紙なんて何時間あれば書けるんだ?わからない。
ふらつきそうなのを堪えて夕食の席についた俺は、シチューのじゃがいもを頬いっぱいに詰めて幸せそうに微笑むエステル(可愛い)に今日は先に寝るよう伝えた。
風呂を済ませて机に向かい、レターセットが揃っている事を今更ながらにチェックし、クレマンが淹れたブラックコーヒーの位置も確認してから頷く。
よし、書こう。
貴女が作る魔法陣が大好きです。
………俺の語彙力はどこへ行った?
こんな五歳児が書いたような物出せるか。便箋をぐしゃりと握り潰してゴミ箱に投げ入れた。
エステルと同レベルの誉め言葉を寄越されたんだぞ。彼女みたいに俺を「心優しい紳士」だと思っていたらどうする?アホみたいな手紙送ったら幻滅されるだろ。うっ、耐えられん。
俺は夜が更ける頃まで悩みぬいて返事を書き上げ、エステルを起こさないよう気を付けてベッドに入った。
即座に意識が落ち、ふと気付いたら寝たまま彼女を抱きしめている。やばい、と思った瞬間に飛び退いて謝ったが、エステルは「嫌じゃないから大丈夫」と笑った。
着々と懐に入り込んでいる(物理的にも)。ただ夜に関してはこれまで通りベッドに入る前のハグとした。俺の理性にも限界があるのだ。
エステルは仕事に行く俺の見送りをしてくれるようになったし、イレーヌ達から少しずつ侯爵夫人としてのマナーを学んでいるらしい。
本人の負担になるようなら止めさせるつもりだが、今のところ受け入れてくれているようだ。つくづく良い妻に巡り合ったと思う。
少しずつ距離を縮めていたある日、突然そいつはやって来た。
「アレット・オブランと申しますわ、ファビウス侯爵閣下。突然訪問する無礼、どうかお許しくださいませ。」
エステルの妹――本物の【稀代の悪女】、アレット・オブラン。
意外にもまともな化粧とドレスで身を整え、彼女は美しいカーテシーを披露した。
「俺達の結婚について、君はどこまで知ってるんだ?」
「経緯ならばおおよそ全て、でございます。手紙を読んでお姉様が懐かしくなりましたし、閣下もそろそろ私の話が聞きたい頃かと思い、諸々の調整をつけて参った次第ですわ。」
「…私の名を使っていた、理由?」
その件で合ってますかとばかり、エステルが俺とアレットを見やって聞く。
扇を広げて笑う悪女は、エステルが「結婚したくない」と言うからだと語った。
「閣下。義兄となった貴方に嫌われる事を承知で申し上げますが、私は幼少の頃より男遊びが大好きですわ。手のひらで転がす優越感も、肌を合わせる一時の快楽も、下手を踏めば痛い目に遭うスリルも、まとめて楽しんでおりますの。結婚で束縛されるなんて御免です」
「そ、そうか……」
個人的にはあまり好ましくない話だが、そういった思考の者同士で付き合うなら好きにすればいい。
「当家の事情をどこまでご存知か知りませんけれど、お父様は駄目です。いずれゴミのような縁談を持ち込まれてお姉様に押し付けたでしょう。」
「まぁ、そうね。」
「ですから、遊ぶついでにお姉様の名を落としました。一応確認したんですよ?結婚できない方がいいのよね?って。研究中に聞いたから、お姉様は覚えてないでしょうけど。」
「だが悪評だけでは、まともじゃない縁談こそ持ち込まれたんじゃないか?」
「そこは私に同情的なお父様のこと、お姉様がいなければ困ると私が撥ねました。お姉様が稼ぎを家に入れてくれていた事も大きかったでしょうね。」
第一、悪女エステル・オブランは手を出そうと思えば出せる相手。
結婚相手ではなく火遊び相手なのだとアレットは語った。
「【稀代の悪女】の醜聞が消えたのは君の仕業か?」
「だって、もう要らないでしょう?お姉様は名を使われただけの被害者だと、既に広く周知されています。後は大きな夜会でもあれば、閣下がお姉様を見せびらかすだけでよろしいのではないかしら。」
「アレットにかかれば、人の噂も手のひらの上ね。」
「当然だわ。悪女に感謝している人はとても多いのだから」
ほう?
やはり【稀代の悪女】は裏で思惑が動いていたか。
「ちなみに、今日はどうしてあのべとべとではないの?」
「お姉様、せめて派手な化粧と言って?あれは派手顔が好きな男性用。今日の私は閣下にお会いするのだから、清楚系で少しでも印象を良くするに決まっているでしょう。喋る内容が男好きで見た目も派手では、閣下のような男性の信用は得られないのよ。」
軽く咳払いした。
見た目に惑わされる男かのように言われるのは心外だが、外見を印象操作に使うのは当然の事だ。
「では、俺との結婚は君が撥ねなかった結果だと?」
「端的に言えばそうですわ。お姉様は結婚を嫌がりましたが、私は男を漁りながら良い物件…失礼、将来お姉様の面倒を見てくれそうな殿方を探していたのです。」
父親はアレットの夫に子爵家を継がせる気だが、本人は結婚したくない。
最悪家出するしかないが、エステルは「資料が」と言って家出についてこなさそう(その通りだろうな)。ならば結婚相手が見つかれば一番良いだろうと考えたようだ。
「正直、駄目元でしたけれどね。お姉様って、口を開けば魔法陣、ちょっと歩けば魔法陣、食事をとっては魔法陣だから。」
「そんなに言っているかしら?」
「間違いではない。」
まぁ、そんな所も可愛い。
俺の心の声が聞こえたわけはないが、アレットは「身内なら可愛いけれど」と続けた。
「貴族の社交には向かないし、婚約したからと言ってマメに愛の言葉なんて綴らないでしょうし、男女の機微はわからないし、結婚後は冷遇されようがどうなろうが、魔法陣の研究はやめないでしょう。女主人としての仕事より優先するに決まっています」
「向いていないのよ、結婚。」
「最悪、お姉様の大好きな【アレク様】に会えるわよと騙して、貯めたお金で引っ越しさせるつもりだったのですわ。」
「な、なんて惨い事を!」
エステルが真っ青になって震えている。もう会ってる上に結婚しているがな。
俺がヴァイオレット女史について同じ事をされたら、騙した相手をまず許さない。
「世話役さえ手配すれば、お姉様も生きていられるでしょうから。そんな中、閣下のお噂を耳にしました。周囲から結婚を勧められてだいぶ辟易していると。……第二師団長と言えば、強力な魔法によるご活躍は耳にタコ。少なくともお姉様の価値はご理解頂けると思い、手持ちの男を通じて情報を集めたのです。」
「アレットは元からジェラルド様を知っていたのね。」
「というより、これは……まさか」
「えぇ。閣下に【冷遇前提で悪女を娶ってはどうか】と勧めた者、ほぼ全て私のお友達ですのよ?」
深くため息をついた。
この女に仕組まれていたというわけだ、全て。少々腹立たしいが、エステルと引き合わせてくれた事は感謝している。
「俺が本当に冷遇したらどうするつもりだったんだ。」
「お優しい閣下の仰る【冷遇】なんて、お姉様にとってまったく冷遇じゃありませんもの。使用人の反応はわかりませんでしたが、お姉様、最悪この屋敷なんて吹っ飛ばせるでしょう?」
「まぁ、できなくはないわね。」
「ご要望は驚くほどお姉様向き。私はお父様を言いくるめて、閣下が参加するパーティーに出席して頂きましたわ。あの男、アッサリ頷きましたでしょう?最初から「きちんと愛するつもりだ」なんて言ったらそうはいきませんでした。」
「……君は父親を嫌っているのか?愛されていたと聞くが」
「愛。まぁ、彼にとってはそうだったのでしょうけど。私は嫌いですわ」
扇を顔の前に広げ、アレットは芝居がかった仕草でエステルを見やった。
「ねぇお姉様、母を亡くした私って可哀想かしら。」
「いいえ?」
「お父様が私にばかり構って、幼い頃のお姉様は可哀想?」
「別に。」
エステルが首を横に振る。事実を飄々と答えるような、特段何の感情もない顔だった。
アレットが鷹揚に頷いて扇を閉じる。
「そう――可哀想だという言葉を押し付けられる筋合いなど、ありませんわ。自分の意思でいらないと言ったものを我慢と決めつけられ、人といるのが好きだと言えば幼い頃に母を亡くした寂しさだと言われる。私はそういった煩わしさの中で生きて参りました。」
「なるほどな。調査では、エステルには侍女も装飾品も与えられなかったとあったが…」
「いりませんでしたからね、私は。」
「お姉様は、私が男好きだと明かしても引いたりせず受け入れてくれましたわ。そうなのね、と。成功も失敗も私の自由意思に任せ、助けを求めれば手を差し伸べてくれる。――…私もそうでありたいとは思いますけれど、お姉様は放っておけば研究を優先して死にますもの。」
「確かに。」
深く頷いてエステルの頭を撫でた。
手放す気はないからそんな事にはさせないが、施錠魔法で閉じこもった前科もあるからな。
「私とお姉様の関係については以上ですわ。その様子では心配なさそうですが、これからもお姉様をよろしくお願い致します。」
「ああ、任せてほしい。大事にする」
丁寧に頭を下げた義妹にそう返す。
エステルが顔を上げたアレットの隣へ移動した。
「お姉様?」
「最近知ったのだけど、こうするとだいぶ落ち着くのよ」
驚かれるのも構わずにエステルが妹を抱きしめる。…落ち着くと思ってくれていたか。そうか。
アレットは一瞬だけ固まったが、すぐ照れくさそうに笑って手を回した。
「もう…私がどれだけ手玉に取ってると思うの?ハグなんて日常茶飯事よ。」
でもお姉様が一番だと、そう呟いた声にやっとアレット・オブランの素が見えた気がした。
調子に乗って「閣下が悦ぶ技を教えてあげる」などと言い出し、エステルが俺の役に立つならと乗り気だったのですぐ止めに入った。やめろ。
帰り際、エステルは「持たせたい菓子がある」と慌てて自室へ向かった。
玄関ホールに残った俺は、目の前に立つアレットにだけ聞こえるよう問いかける。
「クラーセン男爵を知っているか。銀髪の男だ」
「ふふ、ここへ来たそうですね。ご安心ください、閣下。彼は私達にとって絶対の味方――…保護者のようなものですわ。いずれお姉様が話してくださるでしょう」
「……君の上司では無いんだな。」
「悪女にどんな想像を膨らませようと、殿方の自由でしてよ。ただそちらは、お姉様にはご内密に。」
意味深な笑みを浮かべ、十五歳の悪女は唇に人差し指を添えて片目を閉じる。
エステルの足音が聞こえてきた。
「団長のそれ、浮気じゃないっすか?」
仕事で使う魔法陣について部下と話すうち、自然とヴァイオレット女史の名が出てそう言われた。俺が彼女を敬愛し過ぎだという。
尊敬の念を浮気呼ばわりとは何をと思ったが、「団長がどういうつもりでも、奥さんが浮気だと思ったら浮気」と続けられて口を閉じる。
エステルなら大丈夫のはずだ。
理解しているに決まって…いや、そういう決めつけはよくないか。
夜、いつも通り寝室にやって来たエステルを抱きしめる。
普段より離れがたそうにするので、危うくベッドに放り込んで襲い掛かるところだった。
彼女が甘えるのは疲れからくるものだと気付き、すぐソファにエスコートする。身体が疲れているわけではなさそうだ。精神的な疲れか?まさか本当に浮気と思って気を揉んでるわけじゃないよな。
「エステル」
「はい。」
「君は浮気についてどう考える?」
「えっ?」
万一にも「お前が言うのか」という目で見られたらと思い、つい目を合わせずに話し始めてしまった。素っ頓狂な声を出されたので密かに安堵して緑色の瞳を見やる。
「部下に……俺がヴァイオレット女史を尊敬し過ぎて、もはや浮気だと言われた。」
「ふくっ」
「笑ったか?」
「まさか」
いや笑っただろう。可愛いから許すが。
「俺が抱いているのは純粋な尊敬で、浮気などと言われるのはあまりに心外だが…君に誤解された時点で駄目だろう、と。だから君の意見が聞きたい。」
「浮気とは思わないですね。」
即答だ。よし。
「理解ある妻で良かった。俺も、君のアレクサンドル殿への…あれが」
「尊敬ですね。敬愛とも言います」
「それが浮気だとは思わない。」
エステルが深く頷いた。
俺がアレクサンドルだとも知らずに……。
今度打ち明けようと思うが、それより先に伝えておくべき事がある。
緊張を胸の内に押し込め、余裕のある男の振りをしてエステルの肩を抱いた。
手の甲にキスすると彼女は恥じらうように視線を泳がせ、困ったような期待するような目で俺を見る。後半は幻想かもしれないが。
「俺が愛してるのは君だけだ。エステル」
視線に熱を込めて囁けば、目を見開いた彼女はみるみるうちに赤くなった。
しどろもどろに「初めて聞いたような」と声を震わせる姿がまた、愛らしい。
「初めて言った。だがこれまで、少しも伝わっていなかったか?俺はそれなりに愛情表現をしてきたつもりだし、自惚れでなければ愛を返されていたと思っている。」
「う…」
「顔が赤いな」
あんなに俺を意識しなかったエステルが、こんなに俺を意識している。
つい口元が緩んだ。もっと意識すればいいと頬に手をあてれば、彼女は肩をぴくりと揺らして音の無い吐息を吐き出す。無意識なのだろうがひどい煽りだ。危うく先走って唇を奪うところだった。
まだ一歩早い、落ち着け。
彼女に聞こえないよう祈りながら唾を飲み込む。
「わ、私……」
「良きパートナーも悪くないが、名実共に俺の妻になってくれないか。子供の事は無理をしなくてもいい。ただ俺は、許されるならもっと君に触れたい。」
過去最高に密着しているが、当然、これ以上だ。エステルの脳が確実にキャパオーバーした。
君は気付いているだろうか、その手が縋るように俺の袖を掴んだ事に。頬から離した手で彼女の手を握ると、指先は自然に絡まった。
言葉以外の全てで君は、俺を受け入れてくれている。
なら早く、これ以上に触れることを。
「許してくれるか?」
そろそろお預けも限界だ。
エステルは瞳を潤ませてほんの僅かに頷くが、瞬いてどこか遠い目をした。
ああ、羞恥のあまり別の事を考え出したか。それは駄目だ。
「エステル」
名を呼べば彼女はすぐ俺を見た。
見つめると頬を染め、無垢だった瞳に確かな熱が宿る。
君がそのように焦れた目で俺を見るなら、待った甲斐もあるというものだ。
エステルが繋いだ手の指先でそっと俺を撫でた。そんな煽り方どこで覚えてきたんだ。
ぞくりとしてつい吐息を漏らし、甘やかな息を吐いた彼女の唇が閉じる前に塞ぐ。
時間をかけて柔らかい感触を楽しんだ。
潤んだ瞳や余裕なく俺を呼ぶ声に理性が焼き切れそうになりながら、可愛い妻をベッドへ運ぶ。
彼女の死角でそれとなくぬいぐるみどもを端に寄せ、重ねた唇に舌を割り入れた。




