新ファイル8 社長が内見される
その物件は、千堂企画のデータベースには存在しなかった。
住所は正しい。築年数も合う。
鍵も管理表に登録されている。
それでも、「案件」ではない。
青山信二が異変に気づいたのは、
千堂が一人で現地に向かった日だった。
「今日は…… 僕は同行しなくていいんですか?」
千堂は、いつも通りの声で答えた。
「今日はね、私が見られる側だから」
意味が分からないまま、青山は止めなかった。
止められなかった。
室内は、不自然なほど整っていた。
生活感がないのに、誰かの好みが反映されている。
照明の明るさ。
床の軋み。
空気の温度。
千堂は、玄関で靴を脱いだ瞬間、
理解していた。
来ている。
誰かが、部屋の奥から
彼女を“見ている”。
足音はない。
気配もない。
だが、視線だけが移動する。
リビング。
キッチン。
洗面所。
歩くたびに、沈黙が評価のようについてくる。
「……間取りは、悪くないわね」
声に出すと、一瞬、
空気が緩んだ。
減点されていない。
千堂は、笑いそうになる。
「日当たりは…… まあ、普通」
沈黙。
長い。
評価が、保留されている。
「……音も、静か」
その瞬間、壁の奥で
小さく、満足そうな軋みがした。
千堂は、内見を続けた。
収納。水回り。
最後に、和室。
畳の中央だけ、微妙に色が違う。
そこに立つと、視線が止まった。
ここだ。
千堂は、
ゆっくりと座った。
正座。
「……私で、問題ない?」
返事はない。
だが、部屋全体が
受け入れるように静まった。
夜。
千堂企画に、
一通の契約書データが
自動生成されていた。
作成者:不明
物件名:記載なし
青山は、震える手で
画面を見る。
借主欄:______
貸主欄:千堂 千草
「……社長……?」
署名欄には、
まだ何も書かれていない。
だが、カーソルだけが
借主欄で点滅している。
その頃。
千堂は、例の物件の和室で
一人、座っていた。
誰もいないはずの部屋で、
確かに聞こえる。
紙をめくる音。
判を押す前の、ためらい。
千堂は、静かに言った。
「内見、どうだった?」
返事はない。
ただ、畳の色が
もう一段、濃くなった。
契約は、まだ終わっていない。
次は、誰が住むかを決める番だった。




