新ファイル1 訳あり不動産 千堂企画 開業
看板は小さかった。
雑居ビルの二階、エレベーターも止まらない階段の踊り場に、
黒地に白文字でこう書かれている。
訳あり不動産 千堂企画
千堂千草、四十代後半。
かつては業界最大手の不動産会社で、
「事故対応専門チーム」に長く在籍していた女だ。
表向きは、
クレーム処理、告知文作成、遺族対応。
裏では、
誰も近づきたがらない部屋に入り、
誰も聞きたがらない話を聞き、
誰も書きたがらない一文を、契約書に残す仕事をしていた。
三十年前。
ある“案件”を境に、彼女は会社を辞めた。
理由は、
履歴書にも、退職理由欄にも、
書いていない。
そして今、
彼女は自分の会社を立ち上げた。
訳あり専門。
それ以外は扱わない。
「普通の物件は、普通の人に任せればいいのよ」
初日に来たのは、新卒社員だった。
青山信二、二十三歳。
不動産学部卒。
宅建はまだ、これから。
緊張した面持ちで事務所に入ってきた彼に、
千堂はコーヒーを差し出しながら言った。
「うちはね、“何も起きない部屋”は来ないから」
「……はい?」
「あとで分かるわ」
その日の初仕事は、
AI査定が弾いた物件だった。
理由欄には、
機械的な文字が並んでいる。
《告知事項が多すぎて評価不能》
《履歴の整合性が取れません》
《過去の入居者数:不明》
青山は思わず声を上げた。
「これ……事故物件、ですよね?」
「ええ。
しかも“数えきれないタイプ”」
現地は、都心から少し外れた古いマンション。
外観は整っているが、
エントランスに入った瞬間、空気が一段重くなる。
青山は無意識に、息を止めていた。
「社長……なんか、ここ……」
「大丈夫。ここは“まだ静か”」
千堂はそう言って、
鍵を開けた。
部屋の中は、
生活感がないのに、片付いていない。
カーテンは閉まり、
床にはうっすらと、
人が立ち止まった跡が残っている。
青山がメモを取りながら尋ねた。
「告知事項、どこまで書くんですか?」
千堂は少し考えてから答えた。
「“説明できるところまで”」
「説明できないところは?」
「……残すだけ」
帰社後、
二人は契約書の雛形を作成した。
告知事項欄は、
ページをまたいで埋まった。
青山は最後に、
フッターを確認して、首を傾げる。
「社長、
この契約書……」
「なに?」
「担当者名、 もう一人分、印字されてます」
千堂は、
キーボードから手を離し、
静かに画面を見た。
そこには、
確かに記載されていた。
旧担当者:小林 治
千堂は、
何も言わずにその行を残したまま、
ファイルを保存した。
「青山くん」
「はい」
「この仕事ね」
彼女はモニターを閉じて、
淡々と言った。
「人より先に、部屋のほうが“名刺を見る”の」
夜、事務所の電気が落ちたあと。
プリンターが、
誰も操作していないのに一枚だけ紙を吐き出した。
そこにも、
同じフッターが印字されていた。
訳あり不動産 千堂企画
旧担当者:小林 治
開業初日。
会社は、
すでに“引き継がれて”いた。




