ファイル15 精神異常者の部屋
「夜中になると、あの人の叫び声が何時間も続いていたんですよ。意味のわからない言葉で…」
そう語るのは、近隣住民の一人だった。
中年女性がひとりで暮らしていたワンルーム。
あまりにも異常な言動が続き、ついには役所の職員が精神科病院に措置入院させ、退去となった。
後日、小林と千堂は、役所の依頼で部屋の様子を確認しに訪れた。
「部屋にあるものはすべて処分して構いません、と言われてます」
玄関で担当者から鍵を受け取り、彼らは中へ入った。
中はひどい有様だった。
壁紙は何ヵ所も爪で引き裂かれ、床には謎の液体の跡が染み付いている。
部屋中に、カビと腐敗した匂いが充満していた。
「これは……部屋がずいぶん荒れてますね」
千堂が顔をしかめる。
小林はふと、壁の一角に目を留めた。
「おい……血のようなもので、何か書いてあるぞ」
「えっ? どこです?」
「……読めないな。文字が逆さになってる」
「逆さ文字じゃないですか? ほら……上下が逆」
二人がしゃがみ込み、懐中電灯を向けて読み上げる。
「……『ナスペース ぐいゃ ウアオガ』?」
「なんだそれ……意味がまるでわからん」
小林はつぶやいた。
「統合失調症が進行すると、現実と幻想の境界が曖昧になるらしい。文章が完全に支離滅裂になって……」
千堂が口を挟む。
「それでも、感情だけは伝わってくるときもありますよね。“怒ってる”とか、“怖がってる”とか……」
部屋のあちこちに散らばる紙切れには、こんな言葉も見つかった。
【うしろのむこうでひとがさかさに歩いてる】
【サラダ油をかけると、声が出なくなるの】
【しあわせは右耳にしか入らない】
【わたしは昨日のわたしじゃなかったのに】
そして、もう一度、壁の“血文字”を見つめる。
「ナスペース ぐいゃ ウアオガ」
それは、彼女の中で組み上げられた、もう一つの“世界の言葉”だったのかもしれない。
小林がぽつりとつぶやく。
「……頭がいかれたんだな。だが、宮沢賢治さんや芥川龍之介さん、太宰治さんも、心を病んでいた。紙一重なんだよ、天才と狂気ってやつは」
千堂は無言でうなずき、窓の外を見た。
その日はなぜか、異様に静かな夕暮れだった。
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