(8)夜が更けて待つ宵に
格子越しにぼんやりとゆれる蝋燭の火。燃えるような紅の化繊の上で、女郎がかん高い声で客を誘っている。
今夜の吉原。彦左衛門にはこれが火炎地獄に見えた。
格子の隙間から伸びる白い手は地獄の業火から逃れようとする女の手に見えた。菊乃は本当にこの地獄から抜け出せたのだろうか?
彦左衛門が歩いていると、桔梗楼の客引きがやってきて、無理矢理店の中に押しこまれた。
「なんだよ」
「おテツさんが」
「おテツ? ――あいつに用はねぇ」
その時、小皺の増えた手が彦左衛門の肩をぐいと掴んだ。
「いいんだよ。人の親切を無駄にする奴は、不幸になるだけだからねェ」
この女は彦左衛門が捕り手だということを理解しているのだろうか。一度平伏させてみないと分からないのかもしれない。ニヤニヤ笑いのおテツには本当にムカつく。
「おテツ、何が言いたい?」
「タダってわけにはいかないよ」
「事件のことなら別に」
「事件? そんなのはうちの儲けにはならないよ。でも、小春のことは知りたいだろ? はい、ニ朱!」
おテツが掌を差し出すので、仕方なく財布を開く。
「背に腹は代えられぬ。仕方ねぇなぁ」
「そうそう。付き合いも大事だよ!」
おテツの耳打ちに彦左衛門は眉間に皺を寄せる。怒りのあまり、飛び出していくところをおテツは見たかったのだが、しばらくは動かない。
「それは本当なんだろうな?」
「ニ朱ももらって嘘はつかないよ。乗りこんでみなよ、真相が知りたくないかい?」
「今は――忙しい」
「小春がどうなっても構わないのかい? 梶原源次郎だよ?」
おテツは拍子抜けした。
「何だい、男らしくないねぇ。駆けつけないなら一両にしておけばよかった」
「野暮なことはしない。俺は役人。相手は侍。小春は芸子だ」
紫の暖簾をくぐり、藤乃屋の主を訪ねた。菊乃と月岡のことを報告したあと、彦左衛門は問う。
「この店に妓夫は何人いるんだ?」
「妓夫といいましても、うちの規模では客引きだけが仕事ではないのです」
「でも弥勒はいつも店の入り口にいるだろう?」
「あれは優しい面がまえと愛想が良いですから。女郎にも受けが良いので、無理難題でも波風立たないで押し通せる。いざこざがあって客と揉めても、腕っ節も強いんですよ。場慣れしているというか、妓夫としては便利です」
「弥勒はどういうきっかけでここに来たんだ?」
「三年ほど前に、店で働かせてくれと突然現れました。勿論、うちも雇う余裕がないですから断ったのですが、行くあても無いようでうちに留まっているうちに、花魁たちを味方につけまして、あれよあれよといううちに働くことになりました」
「俺はどこかで見た記憶があるが、どうも思い出せないのだ。それが気にかかってなぁ。
弥勒は菊乃が月岡と別れるのが嫌で吉原を飛び出したようなことを言っていたが、俺はそうは思わん。藤乃屋の意見を聞きたい」
彦左衛門は弥勒が書いた待宵草の絵を懐から出した。藤乃屋の主は絵の上手さに驚いている。
「弥勒は何をやっても上手い。人をよく見て、真似るのが上手いんですよ」
「花の絵は上手だが、字が間違っている」
「待酔草?」
「歌舞伎絵師から習ったそうだが、字までは習わなかったようだな。歌舞伎絵師と付き合うからには芸事にも通じているかもしれん」
「そうですね、弥勒は唄と踊りもできるようですし、おそらく旅芸人でもやっていたのではないでしょうか」
「ほう」
「弥勒は菊乃と特別な関係だったということは?」
「それは無いと思いますよ。うちもそのあたりは目を光らせております」
「弥勒はどうであれ、菊乃の気持ちは揺れていなかったか?」
「菊乃は野心が強い。そのためには何でも利用する気概があります。月岡を客とさせたのもいろいろと勉強させるためです。月岡は新造狙いで、儲けになりませんがお互いさまということがあったので新造狙いでも許してきたんです」
「儲けにならない客と付き合う菊乃に不満が溜まっていなかったのか?」
「それはあったと思います。もっと質の良い客を回せとよく訴えてきました。でも我慢も必要ですし、今は修行する身ですので月岡から学んでいけばよいと思っていたのですが……心中とは」
「いや、まだ可能性はあるかもしれん」
彦左衛門は早々に藤乃屋を後にしたのは、小春のことが気になって仕事にならないためである。
その夜、番所の灯が消えることはなかった。
彦左衛門は家には戻らず、訪ねてくるであろう小春を待っていた。どんなに遅くても、吉原から帰る時は番所の前を通る。灯が付いていれば、立ち寄ってくれるはずだ。
彦左衛門はそういう期待をしている。
おテツに男らしくないと言われたが、実にその通りである。本来の気持ちを優先させるならば、小春を奪いにいくべきだったろう。けれど彦左衛門は自分の性分からして、どういう行動にでるかはわかりきっている。
「月岡殺しを追っている人間が、人殺しをするわけにはいかねぇんだよ……」
彦左衛門がぶつぶつと文句を漏らしながら筆を走らせる。
夜中遅くに銀次が戻ってきた。
「旦那、大国屋の件当たりです。証拠は掴みました。月岡尚五郎、身内に内緒で大国屋と抜け荷をしていました。廻船問屋はまっとうな商売が売りで、大国屋の誘いに乗らなかったが、尚五郎が遊ぶ金欲しさに口利きをして裏商売になっています」
「事件への関与は?」
「宵待草を取りに行くのではなくて、抜け荷の手数料を受け取りに行ったようです。その日に金を受け取り、その足で吉原近くの河原まで行ったようです」
彦左衛門は頭を抱えた。
「そうか。大国屋に月岡を殺す原因はなかったか」
「心中でなければ、大国屋以外に月岡を恨む人間がいるってことですね。そいつは吉原に関係がある人物だ。やっぱり菊乃なんでしょうか。吉原から逃げさせてもらって……月岡を」
「無いな。殺すほどの恨みもない。唯一の味方を殺して、その後どうやって生きていく」
「じゃあ、誰です? 妖しいヤツなんていないですよ」
「いるだろ。明日一番で吉野神社を調べよう。月岡を最後に見た場所をよく聞いておけ。あとは弥勒の生まれ育ちが知りたいところだが」
銀次は彦左衛門が書いているものを見て、突然吹き出して笑った。
「事件帳書いていると思ったら、落書きですか!?」
「馬鹿! 人相書きだ! 人を探すならあったほうがいいだろう。筆づかいなら俺のほうが上手いぞ」
「それは字でしょう。こりゃ……(酷い)」
「人の顔は覚えられるが描くのは難しいな。弥勒があまり上手なものだから、俺でもできるかと思ったよ」
銀次は筆と紙を借りるとサラサラと上手に書き上げたので、彦左衛門は機嫌を損ねた。
「とりあえず、三年前ほど前に引退した役者を調べろ。芝居好きなババアどもなら覚えているかもしれん」
彦左衛門はふたたび待宵草の絵と自作の人相書きを見比べた。
「俺のだって上手いだろ」
そうして今宵は小春を待つ。
番所の灯は消えぬまま、やがて朝を迎えた。




