(3)当日の夜ー彦左衛門参るー
夏を迎えるにはまだ早い。
その夜、藤乃屋に捕り手が現れた。
白髪まじりで温和そうな性格だが、顔には傷があり迫力がある。黒い紋付を風にたなびかせていたが、突然呼ばれたせいで、少々薄着が身に染みる。
「おお寒ッ」
店先は大変な騒ぎで、女郎以外の出入りが激しい。藤乃屋の主人が走って泣きついてきた。
「小久保さま、ご面倒をおかけしまして……申し訳ございません」
「気にするな。これが仕事だからよ」
「参りました。せっかく花魁が大金はたいて、お披露目してやったのに。早いうちに見つかると良いのですが、いったいどこへ逃げたのか」
店の小部屋に通されると、銀次が報告に来て、耳打ちしてくる。彦左衛門は渋い顔のままであった。
妓夫や目付役の銀次など、総出で探し回っているが、どうも手がかりがない。
藤乃屋の主は愚痴を漏らしている。
「菊乃め。見つけたらタダでは済まさないからな!」
彦左衛門は鼻で笑った。
「足抜けといっても、まだ小娘で吉原から一歩も出たことが無いのだろう? 親も吉原にいるし、どこにも行くところなどない。やってしまった罪は重いが、事の重大さをよく分かっておらぬかもしれん。あまり痛めつけないでくれよ?」
「あの娘の借金は親から取り立てないといけません。すこし調子に乗せ過ぎました」
「すぐに戻ってくれば良いのだが。まだ新造だろ。店だけでどうにかならなかったのか?」
「菊乃は新造でもかなり真面目で、やる気がございました。油断しておりました。吉原神社で客と待ち合わせていると言っておりました。待宵草どうのとか言っておりましたが、それが口実だったとは……」
「客とは?」
「廻船問屋の月岡尚五郎さまでございます」
「なんだ。あいつかよ」
銀次は文句と言い、つまらない男だと説明した。吉原での実力は金次第である。新造狙いの中店通いの客など小物扱いだ。
「だが怪しい話ですぜ。旦那、月岡はいつも大引け前に帰ります。大して金も落とさず、ちょろっと顔を出して、若い女郎を誑かすだけ。そいつが神社で待ち合わせするってことは、よほど本気の相手なのかもしれません」
銀次の言葉に藤乃屋の主人も頷いた。
「前から計画していたということでしょうか」
「月岡も一枚かんでいると? 単に衝動的に抜け出したのではなく、外の者が手引きしたのだとしたら、事は大きくなるな。誰か月岡を見た者はいるか?」
「弥勒が神社の近くで月岡を見たとのことです」
銀次は頷いた。
「やはり月岡が手引きしたのでしょう。いくら探しても見つからないはずです。もう外に出ちまったかもしれませんぜ?」
彦左衛門はものすごく嫌な顔をした。
「その弥勒ってヤツはどこにいる?」
「はい。――ただいま呼んで参ります」
銀次は少し喜んでいるのが不思議だ。
「何がおかしい?」
「いや、地獄に仏っていうじゃないですか。弥勒の通り名がぴったりの男でして、まぁ見て下さい。男にしておくのはもったいないですよ」
弥勒の姿を見て彦左衛門も納得した。
若くて少し顔がいい。控えめで真面目なところも、弥勒菩薩を想像させる。地獄に仏とはこういうことか。
「月岡を見たそうだな」
「はい。菊乃が逃げ出して、探し回っている時です。朝の話では吉原神社で落ち合うと話していたので、平七と一緒にその辺を行き来していました。あそこは少し茂みがあって、人も隠れられるので」
「神社に月岡はいたのか」
「いませんでした。でも、平七が菊乃の姿を見つけて、追いかける途中で月岡を見ました。二人で廻りこんで、挟みうちにしようという話になりました。結局二人とも取り逃がしてしまいましたが」
「最期に菊乃を見たのは平七だな」
「もともとは私がうっかり取り逃がしたのが原因で申し訳ございません」
彦左衛門はかなり伸びてきた顎鬚をさすりながらしばらく考えていた。
「うっかりねぇ。菊乃の様子に変わったところはなかったか?」
「夕方まで稽古が入っていまして、帰ってきたところでした。菊乃はえらく落ち込んでいました。『雨が降る。これでは花は無理だ』と」
「花?」
「流行りのまじないで、待宵草を持って来れば結ばれるとか結ばれないとか。月岡尚五郎が取ってきてくれる約束だそうです。吉原神社で待ち合わせをしていたのは、遊ぶ金が無いことを悟っていたのでしょう。花魁の話も出ていますので、これきりになると言っていました」
「金の切れ目が縁の切れ目か」
「それから待つのは嫌だと呟いて逃げました。追いかけたのですが、人に紛れて見失ってしまって、一旦店に戻って人を呼びました」
彦左衛門はその話には納得がいかなかった。いかにも菊乃が耐えられなくなり、逃げたような話ではないか。月岡と吉野神社で待ち合わせしていたことは事実だろうが、そこから逃げた手段も、逃げた原因も掴めない。
菊乃は仕事のできる娘だ。やる気もあった。将来の夢である花魁は目の前だ。月岡が新造だけを狙っている男であることも承知していたのに、咄嗟の思いつきで足抜けまでするのだろうか。そして月岡も同意して、手伝ったというのか。
「待宵草がどんな花か知っているか? 俺は花には詳しくないんだ」
彦左衛門は筆と懐紙を取り出し、弥勒に渡した。花の絵と名前を書き出させた。
「なかなか絵心があるな。ほう、こんな花ならば見たことがある。ここに勤める前は絵師でもしていたのか?」
「前に歌舞伎絵師にコツを教えてもらったことがありましてね」
「ここに勤めてどれくらいだ?」
「三年になります」
「三年もやっていれば咄嗟でも女郎を逃がしたりしないだろう?」
彦左衛門は弥勒がどうも気になる。
動きのひとつひとつが不自然に思えてきた。どうにも胡散臭い。
「お前とはどこかで会った気がする。前は何の仕事をしていた?」
「色々な職につきました。でも悪事に手を出したことはありませんよ」
「悪事には手を出さなくても訳ありか」
弥勒は頷いた。
「そうでなきゃ、吉原で仕事してねぇよなぁ。内緒にするから話してくれんか?」
「過去は捨てました。そっとしておいてください」
その時銀次が伝言を受け、彦左衛門に耳打ちした。
「そうか」
彦左衛門は銀次を連れて、藤乃屋を出た。道すがらぼやきが出る。
「銀次よぉ、菊乃は月岡が来るかどうかは、確信が無かったわけだ。完全に相手をものにできていないと分かっていて、足抜けできるか?」
「小娘の浅はかな考えを爺い同士で考えますか? そういうのはせめて小春さんに聞いてくださいよ」
「小春なぁ。会いてぇなぁ」
「最近お忙しいですからね」
「あの蒲郡の野郎、面倒な仕事、圧しつけやがって。独り身だから暇だろうとか。女と戯れる暇があるなら手を貸せとか。丸投げされたこっちの身になってみろ。倍の仕事で寿命が縮まるわ」
「花の命も短いですよ。若い娘だから、夢中になって自分を抑えきれなかったんでしょう」
「何も知らずに女郎になった訳ではないぞ。吉原で生まれた娘は、生まれついての女郎だ。
別れありきの付き合いだと理解していて当然だろ。女郎の子供はおおよその自分の父親が誰なのか分からん。男がそういう生き物だと分からなかったのか?」
「旦那、怒っているんですか?」
彦左衛門はしばらく黙っていたが、当たり前だと呟いた。
大門を出てすぐに曲がり、側道のあぜ道を大股で進んでいく。ゴロゴロと雷が遠くでなりだした。湿っぽい風が吹き出し、稲光が夜を一瞬だけ明るくする。
「嫌な感じですね」
銀次は一旦止まると、田んぼの中を提灯で照らした。そこには櫛や濡れた着物や帯が田んぼに散らばっていた。
彦左衛門は非常に難しい顔をした。
「よく見つけたな。夜中だぞ?」
「帯を引きずったようにあぜ道にあったんです。脱ぎながら走ったんでしょう」
彦左衛門は納得できない。
「町娘の恰好に着替えたのなら、誰が用意したんだ?」
「月岡の野郎、うまくやりやがったなぁ」
銀次が呟くと、まだ青い田んぼにずぶずぶと入って、散らかった上掛けの着物や櫛を拾い出した。
「これが菊乃の物か、藤乃屋に確認しろ」
彦左衛門は不審を抱く。
緩い土手の足跡はひとつしか見つからない。提灯で照らすにも、あまりに暗すぎる。
「男の足跡はあるな。菊乃の足跡があるか確認しろ!」
集められた衣服を眺めているところで、一粒、二粒。肩や頭に雫が落ちた。
「畜生」
ものすごい雨が降り出した。田んぼに水が溜まり、何もかもが分からなくなる。彦左衛門は大きなくしゃみを三回も繰り返したあと言った。
「仕方ねぇ、中止だ」




