(終)菊乃の決意
彦左衛門が片手をあげると、銀次が弥勒に縄を打った。引っ立てられつつも、弥勒は名残惜しげに菊乃を見た。
「本当に馬鹿なんだから」
菊乃は呟き、よろよろと小春に抱きついた。
「姐さん――怖かった……」
「本当に無事で良かった。お菊ちゃん、大変だったわね。身体は大丈夫?」
その二人を彦左衛門は引き剥がした。
「――まだ話は終わっておらん」
菊乃は彦左衛門を睨み返した。とても十六の娘とは思えない強い瞳だ。
「月岡が死ぬとは思わなかっただろう?」
「はい。あの御方はあちきにたくさんのことを教えてくれた恩人でした。それを弥勒は・・・・・・」
菊乃は下唇を噛んで涙した。
「ではなぜ月岡に待宵草の話をした?」
「それは恋が成就するおまじないです」
「その噂はどこから来たものか。俺が聞いたのは藤乃屋の中、しかも数人だ。弥勒が待宵草の意味を取り違えていなかったら、同情しなかった」
「?」
「いかに絵心があっても、たった一回、俺が分からぬと言っただけで弥勒がスラスラと絵にした。あの時のことが気にかかる。そういうのは何回か書いた経験があるからできること。
すなわち弥勒が菊乃に教えたか、またはその逆。字を勘違いしている以上、教えたのは菊乃、お前ではないのか?」
「あちきは花をみたことがございません。無理です」
「当然、大国屋にもそう言っただろう。どうなのだ。聞けば分かることだぞ」
菊乃は拗ねた。
「言いましたよ。可哀想にと同情してくれますから。我儘を言って甘えるのも手の内です」
「そうだよな。雑草で喜ぶなら、誰だっていくらでも取ってくる。でもそれは仕事のためだけではない。弥勒に待酔草だと教えるためだった」
彦左衛門の勘繰りに菊乃は苛立つ。
「同情したから何だというんです? 同情したとしても弥勒が何かするとは限りません。お爺さんが言っていることは、あてずっぽうでしょう! 男を惚れさせるのはあちきの仕事でありんす」
菊乃は睨みつけ、彦左衛門は黙ってしまった。言い含められたというより、お爺さん呼びがショックらしい。
「もともとは月岡が大国屋と裏取引を始めたのが始まりだ。お前は面白くなかっただろ。どうせ部屋の端に座らされて、子供だからと話にも加わらせてもらえなかった」
「大国屋さんがそう言ったの?」
「月岡が廻船問屋ではないことにも気づいていたな?」
菊乃は我慢が効かず、思い切りそっぽを向いた。
「あの時はがっかりしたわ。月岡はお金持ちだと思っていたのに船宿の主だなんて。うちの店の方がまだお金持ちよ。
あの人は丁寧に教えてくれるけれど、いつまでも子供扱いで女として見てくださらなかった。だから殿方の求めるままに、幼い新造を装ってあげていたの!」
小春は菊乃の態度が変わっていくので言葉も出ない。
「大国屋は食べたり飲んだりするのは派手で小遣いも貰えたけれど、月岡はあれがダメ、これもできないのかと、金払いも悪いのに文句ばっかり、顔は良いけどいらいらさせられたわ」
「だから種をまいたわけか。弥勒が大国屋の存在を知った時が始まりだろう。
弥勒は大国屋に会えば殺されると思っている。だが月岡が死ねば、大国屋は二度と藤乃屋に現れない。
借金をしていたことは、心を許した相手でなければ知らないようなことだ。好いた女に心配されたら、うっかり話してしまうことは考えられる。
“よい待ちの花も涙の朝露に願いとどけと今日も祈らん“ 月岡に披露する前に、弥勒に贈った歌だ。“客が酔うのを待ち、悲しむ女郎。その涙と共に男が朝露のように消えてしまうことを今日も願っている。好きな女にそう言われて、動かない男が何人いるか」
一番の原因が大国屋との縁切りのために月岡を殺したとしても、大国屋と弥勒が接触したのは偶然だろうか。この広い吉原で偶然出会うより、二つを繋ぎ合わせようとしていた方が納得いくのだ。
「菊乃よ、お前の本当の狙いは、弥勒を動かし、月岡や大国屋という客を手放すことだったのだろう。もっと違う客が欲しいと言っていたよな?」
菊乃は笑った。
「お客がいなくなったら、女郎として食べていけないじゃないですか!」
「そうだな。だが悪い客は必要ない。
月岡との色恋は金になるが持ち金が少ない。妓夫は金にならん上に終始、傍にいて迷惑千万。どちらもできれば振っておきたいところだ。そのために大国屋と弥勒を利用した!」
「あちきは何も知りません!」
「紅を塗って、弥勒を待っていただろう」
「あの……彦さま。女に紅は欠かせないものですわ」
小春が口をはさんだ。
「そうだが、稽古の最中まで持っていくほどのものではないだろう。とにかく足抜けさせてやるから隠れていろと言われたのだろう。逃げる準備ができないのだから、多くは持っていけない。けれど紅だけは諦められずに持ち出した。
それは弥勒に見捨てられないためだ。足逃げがばれたら菊乃には酷い仕打ちが待っている。男に嫌われたら終わりという、女としての本能がそうさせたのだろう。
紅を使い、色香を使って弥勒を誘う。物置小屋とはいえ、寝るにはちょうど良い薄暗さだ」
「お菊ちゃんと弥勒さんが?」
「同じ体験をしてきた者同士。菊乃は同情してもらい、その上で弥勒が惚れていたとなれば親密になろう。しかも月岡は二人にとって邪魔な存在だ」
「勘違いも甚だしいことにございます!」
菊乃は大部屋へ戻ろうとするが、彦左衛門に腕を掴まれた。
「もう、しつこいっ」
菊乃はうろたえたものの、彦左衛門の睨みを受け流し、一瞬で顔が女になった。
「あちきは月岡さまを愛しておりました。待宵草を取ってきれくれと頼んだのをきっかけに、弥勒が勝手にやったこと。
足抜けなんてとんでもない。立派な花魁になって、吉原で華を咲かせるのがあちきの夢でございます。それは小春姐さんもよくご存知のことかと!」
菊乃は小春と彦左衛門の仲を察したようだ。それが彦左衛門弱点だと見込んでのことである。
「お役人さん、あちきはただの攫われた新造。証拠も無しに適当なことをおっしゃらないでください。あちきは女郎ですからどんな男でも寝ます。客でも、咎人でも。お役人さん、あんたでもいい。
……ただし高くつきますよ?」
菊乃は彦左衛門の手を取って誘う。挑戦的な瞳で小春を見た。
「お菊ちゃん?」
心配そうな小春の顔に、菊乃は彦左衛門を鼻で笑う。そしてピンと胸を張って歩き出した。
「女将さん、今から客取ります。たくさん廻してちょうだい!」
彦左衛門と銀次は菊乃の背中を見送って、しばらく何も言えなかった。
「女は怖いなぁ。好きな男でも利用するのか?」
「それが女郎ってやつでしょうねぇ……」
銀次がしみじみと語っている。小春はゆっくりと首を横に振った。
「月岡さまも弥勒さんも、どちらも愛していたと思うの。月岡さまを口説いたのも本心。だけど弥勒さんと結ばれたいのも本心。でも結局どちらの道も閉ざされてしまった。だから花魁にならなきゃと思ったのでしょう」
小春の言葉を彦左衛門は理解できなかった。
二人を同時に愛することなど、彦左衛門にはできない。菊乃は月岡を愛していながら、弥勒を愛した。ならば、それを理解できる小春も同様なのだろうか。
小春は彦左衛門を心底愛しているといいながら、源次郎を拒みきれなかったではないか。
彦左衛門は残った仕事を片付けるべく、先に藤乃屋を出た。
小春は見送ったが、広い背中が侘しげであった。座敷での仕事があったが、どちらも失ってしまった菊乃を考えると答えは早かった。彦左衛門の後ろを追い、腕を掴んで抱きしめた。
「小春、仕事は?」
驚いた彦左衛門だが、嬉しそうだ。
「置いていかないでください。いつでもお傍にというお約束でしたよね」
「――それなら」
一生分面倒みてやると言いたくなった。赤面して声が出ない。いつも三歩下がってついてくる小春が、娘のようにはしゃいでいる。
「でもお座敷を疎かにしては、置屋の女将に怒られてしまいます。遅くなりますが、それでも、もし良かったら・・・・・・」
小春が恐る恐る彦左衛門を見上げた。彦左衛門は快活に微笑んでいた。
「待宵草が俺にも当て嵌まるか。それも楽しみのひとつかもしれん。番所で待っているぞ」
「はい」
彦左衛門と別れても、小春は頬を染めた。
待っている間も楽しみなのだから、次に会う時はさらに楽しく過ごせるに違いない。




