反撃のとき
私たちが王宮から帰って来てから、一週間ほどがたった。
ダール島の木々は黄色に染まりつつあった。
時折朝夕に冷たい風が吹くようになり、季節の変わり目であることを感じさせる。
秋らしい快晴が続く。
水が冷たくなり、家事が少し辛くなってきたね、などとオリビアと話していると、ノランとリカルドが帰宅した。
二人は朝から馬に乗り出かけていたのだ。
彼らは帰宅すると、なぜか周囲を警戒する様子を見せ、オリビアに家中の鎧戸を閉めるよう命じた。
よほど雨や風が強い時以外は、この屋敷では鎧戸を閉めていなかったので、私は不思議に思った。
「どうした? 何があった」
同じく心配するマルコにリカルドは硬い表情で答えた。
「何者かに、ずっと後をつけられているような気がした」
リカルドがそこまで言うと、ノランはマルコに何やら目配せをした。弾かれたようにマルコが玄関へ走り、屋敷を飛び出して行く。
外を警戒しに行ったのだろうか。
事態がのみこめず、私はノランの顔を問うように見た。
「何者かって……。今日はリカルドさんとお二人で、どこに行かれてたんです?」
私が細かな説明を求めると、ノランの代わりにリカルドが言った。
「ある女の行方を……、財政大臣の屋敷で働いていた侍女を捜していました」
「財政大臣の侍女、ですか?」
リカルドは屋敷の廊下の窓を開け、左右に注意深く視線を動かし、外の様子を確認してから鎧戸を閉めた。更に窓を閉じると、かんぬきを掛ける。
「奥様。以前申しました通り、私とノラン様は王宮を離れた後、自由になった身の上と時間を使って、財政大臣の死について独自に調べているのです。財政大臣はいつも胸の病気の為に薬を飲んでいました。状況から考えると、恐らく薬と毒がすり替えられていたのでしょう。屋敷にごく最近雇われたのは、縁故採用の侍女でした。ですが彼女はジャンの死後、僅かで辞職していました」
ノランは、王宮に住まう王子としての生活を捨ててダール島にやって来た後、一人、事件の調査をしていたのだ。ジャンの為、というよりはきっとアーロン王子のために。
「シュゼット・リムリーという名のその侍女は、ドートレック侯爵の愛人の一人でもあったのです」
ーー愛人?!
しかもそのうちの一人ってことは、愛人は何人もいるのか。とんでもない男だ。
目を見張る私の前で、リカルドは説明を続ける。
「今日はシュゼットの行方を捜して、彼女の実家に行ったのです」
その帰りに、自分が尾行されているような気がしたらしい。
でも一体誰がリカルドの後をつけたのだろう?
リカルドの話をそこまで聞くと、ノランは私に屋敷にいるようきつく言ってきた。屋敷を出ないと私が誓うと、彼は安堵の表情を見せた後、屋敷を出て行った。
私にはここにいろと言うくせに、自分はどこかへ行こうとしている。
……マルコを追ったのだろうか。
たまらず後を追って屋敷を飛び出すと、家畜小屋へ入っていく後ろ姿が視界に入った。それに私も続く。
ノランを追って家畜小屋に入るなり、私は声を上げた。
「ノラン様! 何が起きているんです? どうして……」
「なぜついてきた!?」
私が最後まで言うのを待たずにノランは烈火の如き剣幕で私の両肩を掴んた。凄んだ水色の瞳が少し怖い。
「少しは言うことをきけ!」
「じゃ、少しは説明して下さいっ!」
必死に抵抗すると、ノランは私を放して家畜を繋ぐ綱を外し始めた。
その作業を終えると、彼は私の二の腕をつかみ、屋敷へ帰り始めた。
「ノラン様?」
「シュゼットを調べられて困るのは、ドートレック侯爵だ。彼の手の者に、私たちの行動がバレたかもしれない」
冷たい夜風のせいか、恐怖のせいか、身体がぶるりと震えた。するとそれに気づいたのか、ノランは強く掴んでいた手の力を少し緩めた。
「心配いらない。叔父上にお願いして剣術に長けた者を借りることになっている。それに先ほど叔父上に王宮へ発って貰った」
「ピーターのお父さんに?」
「第一兄上への伝言をお願いした。ただ、夜中の移動と往復時間を考えれば、応援が来るにはどんなに急いでも丸一日はかかる。それまでは持ちこたえなければ。マルコも私も、全力で貴方を守る」
ダール島に入るには三つの方法があった。
橋で繋がる正門から入る方法と干潮時のみにできる島の南の浜辺との道、そして船で南の浜辺に上陸する方法だ。ノランはその全ての手段をいつも通り開いたままにさせた。敢えて屋敷で迎え、返り討ちにして生け捕らえるつもりだ。これはおそらくドートレック侯爵にノランが万端の準備で反撃できる唯一のチャンスだ。
夕方になるとノランはオリビアを自宅に帰らせた。
「リーズ、貴方もオリビアの家に……」
「行きませんよ。ここに一緒にいます」
「そう言うと思っていた。でもここは安全ではない」
「連れてきたり、追い出したり、ノラン様は勝手過ぎます。私、柱にしがみ付いてでもお側にいますから」
ノランは困ったように眉をひそめたが、それ以上私に無理強いはしなかった。言っても無駄だと悟ってくれたのかも知れない。
「それなら私から離れないでくれ」
オリビアが屋敷を出るのと前後して、ノランの叔父が寄越した助っ人の剣士たちが到着した。ノランは彼らの一部を南の浜辺に配置した。
オリビアは急に暇を出されたこの事態に困惑していたが、ノランは多くを説明しなかった。
彼はオリビアの安全を優先させたのだ。
屋敷の中は、見えない緊張感でいっぱいになった。
私とリカルドは屋敷中の窓や扉の施錠を、念には念を入れて確認して回った。
陽が沈むと、夜の闇がいつもよりずっと恐ろしく感じられる。
夜になるとその暗さと静寂に、一層不安が増した。
いつもの就寝時間をとうに過ぎても、ノランは寝間着に着替えることなく、寝台の隣に椅子を引っ張ってきて、そこに腰掛けていた。
寝たら危ないとの判断だろう。
その足元には、大小二つの剣が置かれている。それがまた、私の怖さを誘う。ノランは今夜、剣が必要になると考えているのだ。
私にはやる事も出来る事もなく、寝具に潜り込むと、ノランが寝台の端に座り、寝ている私の頭を抱き寄せた。私たちは無言で視線を合わせ、ノランは私の顔を確かめるように、輪郭をなぞった。
自分たちが置かれた状況はとても不安定なものだ。
何がこれから起こるのか、分からない。私たちは大破寸前の筏に乗り、大海原に投げ出されているーーそんな心境だった。
今の私には、ノランだけが頼りだった。お互いがそこに確かにいる事を確かめるように、私たちはじっと見つめ合っていた。
寝具から腕を出して、ノランの手に触れる。
ノランの手が動き、私の手を優しく握り返してくれた。
こうして手を繋いでいれば、この不安定な夜に、僅かでも安心することができた。
こんな状況ではとても寝ることなどできない、と思っていたがいつの間にか寝ていたらしい。
階下から上がった叫び声で、私は突然目を覚ました。目を開けても部屋は真っ暗で、何も見えない。事態が分からず、全身が強張る。そのままじっとしていると僅かな間、不気味な静けさが続いた。だが階下から、怒鳴り声とともに何か重たい家具が倒れるような、大きな物音が響いた。
怖い。怖すぎる……!!
「ノラン様、どこ!?」
ベッドから飛び出して私は足で床を探り、どうにか靴を履きながら彼を捜す。
扉からは廊下の明かりが溢れていた。明かりのある所へ行きたくて扉の方へ向かうと突然腕を掴まれ、心臓が口から飛び出るかと思った。
「リーズ、静かに!」
ノランは私を引き寄せると、そのまま私を背後に庇うようにして、彼が先に立ち廊下へと続く扉に向かって歩いた。
やにわに扉が開いた。それとほぼ同時に、銀光りする細いものが視界に入り、避ける間も無くそれは私たちに向かって振り下ろされた。
金属がぶつかり合う音が聞こえ、私の手首を握るノランの手から、剣を剣で受け止めた衝撃が伝わる。ノランの手が私から離され、彼は侵入者と二人で部屋の入り口で剣をぶつけ合い始めた。私は部屋の扉の陰に身を隠すようにして、息をひそめた。
侵入者は徐々に部屋の中へ入り始めた。
ガシャン、という音と共に、ノランが相手の剣を床に払いおとす。彼は素早くそれを蹴り、部屋の隅へやった。だが侵入者は背中に背負っていたナタをすぐさま手に取り、ノランに振り下ろす。
ーー見てる場合じゃ無い。何か、私もしなければ……!
壁伝いに横に歩くと、手に硬い物が当たった。慌ててまさぐると、それはいつか私がトロフィーにみたてて、部屋に持って来たままになっていた、毛の生えたそら豆の彫刻だった。豆の頭から上に向かって生える三本の太く固い毛は、まさに手頃な武器に思えた。
ーーこれだ!
私は豆の腹を掴んだ。そのまま逆さにして、背後から侵入者に駆け寄り、目を瞑って力いっぱい振り下ろした。
激しい衝撃が彫刻から伝わり、怯えながらも目を開けると、目の前に立っていた侵入者の動きが止まっていた。
その身体がぐらりとよろめき、大きな人形のように床に崩れ落ちる。
ーーやった……!?
侵入者の安否を確かめようと顔の方へ近づくと、ノランに引き止められ、部屋の外へと引きずり出された。
だが廊下へ出たところで、今度は二人の男に踊りかかられた。
「お前たちの相手は俺だ!」
マルコの野太い声が聞こえ、一人の男があっという間に横に吹っ飛ぶ。残る一人も剣を動かす間も無くマルコの腕が伸び、片手で廊下の壁に放り投げられた。
飾り棚に衝突した男の体は妙な方向に曲がり、そのまま呻いて起き上がらない。
ノランが床に伸びた男の剣を拾い上げた。彼は剣を目の高さまで掲げたまま、廊下の明かりに照らし、じっくり観察していた。
「その剣がどうかしたんですか?」
「これは安物だ。たいした剣ではない。この者たちは使い捨ての駒でしかないのだろう。上に報告する見張りがどこかにいるはずだ」
その時、微かなきな臭さが鼻腔を掠めた。
「……火事だ! 火をつけられたぞ」
ノランはそう言うなり私を引き寄せ、階段に駆け出した。だが階段にたどり着くと、階下から武装した男たちが駆け上がってきた。
マルコが雄叫びを上げながら、廊下にあった棚を持ち上げて階段の上から男たちに投げつける。ギャー、という悲鳴と一緒に数人の男たちが棚を道連れにして階段を転がり落ちていった。
更にその下からは、リカルドと剣士たちが剣を振り回しながら登ってきた。
「居間に火をつけられました! 早く降りて下さい!」
だがリカルドに続いて次々に敵が現われ、彼らの一人がランプを倒して階段にも火をつけた。それに対してリカルドたちは剣で、マルコは棍棒を振り回して応戦した。階段の火を消す暇もない。
ーー早く居間の火を消す手伝いもしないと……!
一階に通じる階段は、男たちの向こうだ。
敵を倒したばかりのノランが私の腕を掴み、廊下を逆走する。屋敷の反対側にある使用人用の狭い階段までやってくると、ノランは言った。
「リーズ、先に下りていてくれ」
「ノラン様は?」
驚いてノランの顔を見るが、彼は至極真剣だった。ノランは私の背に手を回し、階段の方を向かせた。
そこへ別の男が踊りかかってきたため、ノランは私から離れて男の相手を余儀なくされた。
冷たい金属製の手すりに手を掛け、一段だけ足を下におろす。
思わずギュッと手すりを握り、足を止める。
私一人で今ここから逃げて良いのだろうか?
震える手で手すりに捕まり、月明かりに照らされた薄暗い踊り場を見下ろしながら、私は少しの間躊躇して固まっていた。
もう一度屋敷の中を振り返ると、目に見えて漂い始めた煙の中、リカルドとノランが必死に戦っている姿が目に入る。ノランの叔父が寄越した剣士たちも叫びながら剣を繰り出している。その奥で、マルコが雄叫びを上げながら敵を二体、振り回している。
皆、死にものぐるいだった。
ノランは敵を追い詰めながら、廊下の奥へ、奥へと進んでいき、私から次第に離れていく。
その時、不意に私の脳裏に、朝靄の中にかすんで行った馬車の後ろ姿が蘇った。
一人、呆然と立ち尽くしていたあの朝。私を母が永遠に置いて行った、あの朝。
階段の手すりを掴む手が、みるみる冷たくなった。
私はまたあれを繰り返すかもしれない。あの時、違う行動を取っていれば……。
ーーあんな思いをするのは、絶対に嫌だ……!!
その時、複数の男相手に剣で戦うノランが叫んだ。
「リカルド! 鐘を鳴らせ!」
鐘ーー?
瞬時にあの灰色の鐘だと分かった。
この屋敷に私がきた日に、ノランとオリビアが鳴らし方を教えてくれた、あの鐘だ。ダール島の入り口を塞がせる為の、あの鐘。
あれを鳴らして門が閉まれば、誰もこの島の正面玄関から逃げ出すことは出来なくなる。
ノランは屋敷を襲っている者たちと、それを命じた者を一人たりとも逃さないつもりなのだ。
だがリカルドは応戦中であり、すぐには動けそうにない。それはマルコもノランも同じだ。
それを認識すると、私は下り掛けていた一段を上がった。
ーー鐘は私が鳴らすんだ!
戦う男たちの間を縫うようにして、私は廊下を駆けた。
背後からノランが私の名を呼び、引き止めようとするが構わず進む。建物の中央部辺りまでいくと、そこから上へ向かう狭い階段を上り出す。鐘に続く階段はかなり急な作りをしていて、上りにくい。
明かりがないので両手も使い、這い上がるようにして進む。何度もスネをその急な階段に打ち付けたが、痛がる暇などない。どうにかその螺旋を描く階段を上りきると、狭い空間に出た。
両腕を振り回して、鐘に繋がる紐を探す。
冷たく固い紐に手の甲が触れ、私は両手でそれをしっかりと掴んだ。そして思いっきり下に引く。
ガラン……ゴロン……!!
予想を超えた大音響に、身体がビクリと震えた。
「……やった!!」
思わず口から歓喜の声が漏れる。綱をしっかりと握り直し、ひたすら上下に動かし続ける。
この鐘の音が遠い島の入り口の門番の耳に届きますように。
そして、門番があの格子の門をおろしてくれますように。
しつこいくらいに長々と鐘を鳴らし終わると、階下へ降りた。狭い階段の途中で、駆け上がってくるところのノランと鉢合わせた。
「鐘を鳴らしてくれたんだな」
ありがとう、と礼を添えながらノランが私の手を取り、二階へと降りる。
二階の廊下には争う姿はもう見えず、十名近い男たちが床に伸びたまま並べられ、剣士たちが彼らを縛り上げていた。
一階ではリカルドが駆けつけた島民たちと一緒に消火活動に勤しんでいた。
ノランはリカルドを見つけるなり、簡潔に言った。
「山狩りをするぞ。関係者を一人残らず捕まえてやろう」
ダール島に山はない、とは誰も言わなかった。




