苦い真相
「こ、ころした?」
自分の夫が言っていることが理解できず、震える声で問い直す。
ノランは直ぐには答えず、場違いなほど耳に心地よい小川の涼しいせせらぎの音だけが、辺りを満たしている。
目を皿のようにして私が見つめていると、ノランは静かに語りだした。
「あの日ーーアーロンはあのオペラの後、王宮に戻ったら私を訪ねる約束をしていた」
「オペラ……」
「弟のアーロンが亡くなったあの日に、観たオペラだ」
私ははっと息を飲んだ。
ノランはなおも小川に視線を投げていた。
ノランは第五王子が殺害されたその日のことを、話し出そうとしている。
今まで私たちの会話の中で第五王子の話が出てきても、彼の死についての話は禁忌のように避けてきたつもりだった。それなのに今その話題に触れたので、私は物凄く緊張をした。
「あのオペラは、当時とても人気で、あの日は開幕も遅れ、鳴り止まぬ拍手に幕がなかなか下りなかった」
「ええ……。去年一躍有名になった作曲家のオペラでしたよね……」
第五王子が亡くなった当日に観に行っていたというオペラは、新進気鋭の若手作曲家による新作で、異例の長期公演が行われるほどの、大人気作だった。
連日多くの王侯貴族を歌劇場に集めている作品として、非常に有名なものたった。
私の義兄夫妻も何度も観に行っていた。とりわけ義姉が夢中で、観にいくたびに物凄く張り切っていたのを覚えている。
もっとも、私は一度も観たことはないけれど……。
横から見上げていると、ノランの顔は未だかつてないほど白く見えた。まるでその肌の下の血が透けそうなほどだ。彼は少しの沈黙の後、口を開くと一気に話し出した。
「天性の明るさから友人の多かったアーロンは、帰りに歌劇場で遭遇した友人たちに話しかけられ、更に出発が遅れた。私に急いで会うためにアーロンは、行きに使った馬車ではなく、馬に乗って帰路についたのだ」
そう、第五王子は夜の路上で、騎乗しているところを襲われたと聞いている……。
「約束した時間に現れないアーロンを心配し、私は王宮の入り口まで出て行って弟を待っていた。あまりに遅いので、私が近衛を連れて歌劇場まで様子を見に行こうと馬を走らせて間も無く、血相を変えた弟の従者と鉢合わせたのだ」
身体中を異様な緊張感が走る。
まさか、その後……?
ノランは間違いなく、第五王子惨殺のまさにその時の事を語っている。
「助けを求めて駆けてきた従者に近衛たちとついていくと、もう遅かった。警護の騎士と一緒に、弟は血まみれで呻きながら夜の道路に倒れていた」
私は無意識に、自分の口元に手を当てていた。
ノランは目の前で弟の無残な姿を見たのだ。
そんなこと、全然知らなかった、
ノランは目の前を穏やかに流れていく小川と、その向こうにある小さな村の景色に目を向けてはいたが、きっと今その眼には残酷過ぎる過去の記憶しか映っていない。
ノランはただ淡々と語った。だが、その声が微かに震えているのを私は聞き逃さながった。
「してやれることは何もなかった。失血は多量すぎた。間も無く訪れるであろう死が、弟を痛みから解き放ってくれるのを、ただ名を呼んで待つしかなかった」
夜のとばりの中で、血を流す弟を抱き上げ、両膝を地面につき、慟哭するノランの姿が目に浮かぶようだった。
ノランは一度その目を閉じ、震える呼吸と共に続きを吐き出した。
「弟が壮絶な苦しみをくぐり抜けて、ようやく静かになった時、私は安堵すら感じた。私はあの時の自分の汚さと弱さを、死ぬまで呪うだろう」
つまりノランは、一番仲が良かった弟の死を、看取ったのだ。
第五王子亡き後、ノランはその墓前に一晩立ちつくして肺炎になっていた。その噂を聞いたとき、私はかつてなんて思ったかーー人騒がせな王子、だ。
こんな、心に見えない深い傷を負った人間に対して、そんな風にしか思えなかったことが、申し訳ない。
今苦しんでいるノランに、なんと声を掛けてあげるべきなのか、分からない。何かしてあげたいのに。
ーー手を……せめて手を握りたい。
私は勇気を出して、そろそろと両手を伸ばした。
そのままノランの手に触れ、両手で包んだ。
ノランの手は大きかった。それでも、今は私の彼のそれより小さな手が、慰めようとしていた。
「溢れる鮮血の温かさと、苦悶に歪む弟の顔を私は生涯忘れないだろう」
私はただノランの手を優しく握り続けた。
貴方は一人じゃないよ、とどうにかして伝えたかった。私がいるよと。
「母上は私が弟と会う約束をしていた事を知ると、大いに取り乱して泣きながら私に言ったのだ。『お前がもっと早くに迎えに行っていれば……なぜよりによってわたくしの可愛いアーロンなの』と」
それは、もしノランが一緒にいたら、襲われなかったかもしれないから?
解釈に少し困っていると、ノランは吐き捨てるように呟いた。
「あれはどういう意味だったのだろう、と今でも戸惑うことがある」
答えようがなく、私は黙って彼の話を聞くしかなかった。
「アーロンは私のせいで騎乗したのだ。そして恐らく近道をするために治安の悪い地区を通った。ーーあの時、渋るアーロンに私が無理やり約束をねじ込まなければ、と繰り返し考えている。忙しかった弟の帰路を更に急がせたのは私だ。……私は弟を助けられなかったのではない。私が弟を殺したようなものなのだ」
殺しただなんて。
それは違う、と言いたかった。だがノランの顔があまりに辛そうで、掛ける言葉すら思いつかなかった。
どんな言葉も陳腐な慰めになってしまいそうで。
「あの日アーロンが暗殺されたのは、私の責任なのだ」
「それは、……」
ちょっと待って。
ーー暗殺?
第五王子の事件に関しては、物盗りが犯人だと言われていたが、犯人が捕まらなかったので、色々な噂があった。
だがノランは暗殺だとなぜ断言するのだろう。
「暗殺ってどういうことですか?」
ノランの薄青色の瞳に、一瞬冷たい感情が走った。
見つめられると、背筋が微かにひやりとした。
「……我が国の歴代の王子たちは、王位を巡って兄弟で争いを繰り広げてきた」
「は、はぁ……」
「第三兄上は若い頃の失策と父の不興があり、もう芽が無い。王位争いからは完全に脱落している」
「き、厳しい世界なのですね……」
「私はもともと継ぐ気がないと表明していたし、見ての通り、もう王位からは程遠い」
見ただけでは到底分からないが、それは私を妻にするために殿下の称号を棄てたせいだろうか。
「だが当時アーロンには、セベスタ王国の王女との縁談が持ち上がっていた。王女は良くティーガロの王宮に遊びに来ていて、アーロンと恋仲になっていた」
「……確かアーロン殿下の葬儀にも、いらしてたと聞きました。ずっと泣いていらしたとか」
「もし二人が結婚していたら、父上は間違いなくアーロンを後継として選んでいただろう」
それはつまり王女との結婚を機に、王位争いで第五王子が有利に立ちそうに思えた。だから、それを良しとしない何者かが、彼を殺そうとしたーーということ?
私は信じられない思いでその話を聞いた。
「誰がそんな、恐ろしいことを……?」
「まだ確信があるわけではない」
「まだ……?」
そう語るノランの鋭い目つきを見て、私は考えた。
もしや、ノランは犯人の心当たりがもうあるのだろうか?
そしてその件について、密かに調べているのではないか。
彼やリカルドがたまに何も告げずにどこかへ出かけるのは、そのためなのではないだろうか。
聞くのは怖かったが、取り合った手から勇気を得て、もう一度彼に問うことにした。ーー結婚当初からずっと疑問に思っていたことを。
「ねえ、ノラン様。教えて下さい。貴方はアーロン殿下の死に責任を感じて殿下の称号の返上を? そのために……私に求婚を……?」
どうにか声が震えずに話せた。
心持ちか、私の手の中のノランの指先が、冷たくなっていく気がする。私はぎゅっとその手を握り返す。
私の手は、今震えているかもしれない。
小川を見ていたノランの水色の瞳が、ゆっくりと景色から離れ、私に向けられる。彼は一度目を閉じてから、まっすぐに私の瞳を捉えて言った。
「それだけではない……。アーロンの葬儀が終わると、セベスタの王女と私の縁談が水面下で取り沙汰されるようになった。私の兄たちは皆既婚者だからだ。……セベスタ王は、戦争の援助を末長く我が国から引き出すために、何としても縁を作りたかったのだろう。父上も両国のために乗り気なようだったが、私は何より弟の恋人を自分で奪いたくなかった」
私を見つめるノランの明るい水色の瞳の奥に、仄暗い感情が見えた。
「だから、ーーセベスタ王女との縁談を進ませないために……慌てて結婚されたんですね」
「そうだ。……その通りだ。貴方については、貴族の間では色々と以前から噂になっていた。子爵は貴方の話を王宮で良くしていたのだ」
だからノランは私に白羽の矢を立てたのか。
私の血筋であれば、殿下の称号を捨てなければ結婚が認められないだろうから。
それでも末端とはいえ、貴族の端くれの私を選んだのは、国王の大反対に合わない為だろうか。もしくはノランの王子としての僅かな矜持だろうか。
「一番下の弟は結婚には若すぎるし、王位を継ぐには性格的に幼な過ぎる。結果的にセベスタ王女と我が国の王子の縁談は、流れた」
私とノランの結婚騒動が他国の王女の嫁ぎ先を揺るがしていたとは、思いもしなかった。
先日王宮で私と初めて会った時の国王の顔を思い出す。あの時、国王はどんな気持ちで私を見ていたのだろう。私は彼の計画を台無しにした、とんでもない疫病神か何かに思えたに違いない。
自分の意思とは全く関係なく、我が身が与えてしまった影響の大きさにゾッとしていると、ノランは硬い声色で言った。
「私は貴方との結婚を利用したのだ。……私はあの日、テーディ邸の前で馬車を降りて、初めて貴方を見た」
ーー分かっていた。薄々疑うどころか、ほとんど確信していた。その筈だった。
私にこの第四王子が求婚してきたのは私とは無関係の、全く異なる目的を果たすための、単なる手段でしかなかった。それが例え私の人生設計を根底からひっくり返すのだとしても。
当然そこにはひとかけらの愛情も有りはしなかった。
愛情どころか、ひと目たりともこの王子は私を見たことがなかった。
「初めから、疑っていました。だから、あの頃何回もノラン様に一目惚れのことを聞いたんです」
一目惚れなんて嘘だと、知っていた。
でも今私は、はっきりと傷ついていた。なぜか今更、心を乱暴に踏みつけられたみたいに痛む。
どうしてもノランを見ていられなくて、俯いてしまう。
覚悟していた事実だったはず。
ずきんと痛みを訴える胸に、どうにか蓋をして感じないように努める。
私は自分を納得させようと、出会ってからの私たち二人のダール島での毎日を急いで振り返った。
例え一目惚れが嘘だったとしても、屋敷で一緒に過ごした日々が消えるわけじゃない。きっかけはどうあれ、今ノランは私の一番近くにいるのが自然な人になっていた。
いつもはクールで凄く美形なのに、元殿下のくせにケチだし、私に対して妙に夫気取りで偉そうなくせに……それでもこうして時折弱さを見せてくれるノランは、すっかり私の心の中に入り込み、重要な場所に居座っていた。
王子様のくせに、おかしなノラン。
そんな彼が、私はもうとっくに好きだ。
だからきっかけはどうあれ、今は彼の役に立ちたい。そう思う。
複雑な心境を整理して長々と項垂れる私に対し、ノランが口を開いた。
「……リーズ。すまなかった」
気まずい雰囲気になってしまった。
それを払拭するために、慌てて情けない笑顔を浮かべて、顔を上げる。
「知っていましたから。いいんです。ーーだって、……ノラン様みたいなカッコいい男性が、しかも王子様が、私に一目で心奪われるわけないじゃないですか」
ーー大丈夫。私はほんのちょっと傷ついただけ。
「なぜそんなことを言う。貴方は自分を卑下し過ぎだ」
「ノラン様こそ……、第五王子様を殺したなんて。そんな考え方はおかしいです」
私にも似た経験があった。
ノランの目から自分の目を逸らさず、私は彼に話し出した。私が十歳の時から抱え続けてきた悲しい思い出を。
「私の母は私が子供の頃に、旅の途中で馬車の事故にあい、亡くなりました。その朝出発する母を止められたのは、今振り返ると多分私だけでした」
母が旅に出ようと馬車に乗ったあの早朝。
私はあの時、一人でテーディ邸に置いていって欲しくなくて、母に旅をやめさせるか、もしくは馬車に共に乗り込み一緒に行ってしまいたかったのだ。だがそれは叶わず、私は母に置いていかれた。
私がもっと馬車に縋り付き、渾身の力で訴えていれば。そうして母があの時、旅を延期してくれていれば。
「ノラン様。私はーー母を殺したと思いますか?」
「……もちろん、思わない。貴方は何も悪くない」
「ではノラン様と第五王子様の不幸な事件も、それと同じはずです」
ノランは掠れた声で、ありがとう、と呟いた。その後で彼は私を見つめながら自嘲気味に言った。
「だが私の犯した過ちは本当に罪深いのだ。ーー私は、どうしてもアーロンがあの日、急がなければならない原因を作った」
それは具体的にどういうことか、と問う機会は失われた。私たちは背後から突然声をかけられたのだ。
振り返ると後ろにリカルドが立っていた。彼が音もなく唐突にすぐ後ろにいたので、私は一瞬とても驚いた。
いつから私たちの側にいたんだろう……?
リカルドはお得意の当たり障りのない笑顔を口元に浮かべ、ノランを見つめた。
「ノラン様、休憩はこの辺で終わりにしましょう」
ノランとリカルドはしばし無言で見つめ合っていた。
物言いたげな視線を絡ませあってからしばらくして、ノランはリカルドに言った。
「分かった。すぐに行くから、先に馬車まで戻っていてくれ」
リカルドが丁寧に頭を下げてから橋を下り、道を戻って行く。その姿がだいぶ先の方まで進んでから、ノランは私の方を改めて振り返った。
「貴方を妻に選んだ理由を、貴方には決して話すつもりがなかったのに、話してしまった。……これ以上貴方に嘘をつきたくなかった」
「いいんです。話してくれて、ほっとしました」
だって第五王子の話も含めて、私を信用してくれたから、話してくれたのだろうから。
私たちはどちらからともなく、身体を寄せ合った。
そうして互いに互いの身体に寄りかかった。こうしていると、ノランの体温が伝わり、互いの心にも寄り添っているような気分になった。
「すまなかった。私はこの結婚を、利用していた」
「……いいえ。お辛い話を、ちゃんと私に話してくれて……、そして私を選んでくれて、ありがとうございます」
礼を言わねばならないのは私だ、とノランが囁く。そして彼は少しの不安を乗せて私に尋ねた。
「私が嫌いになったか?」
いいえ、と反射的に即答した後で、私は本心をのろのろと言い直した。
「……やっぱり……ちょっと……」
「愚問だったな。そもそも初めから私を貴方が好きなはずがないな」
それはそうかもしれない。でも私は寄り添おうと努めたつもりだ。多分ノランもそれは同じだ。
私たちはお互いを傷つけ合いながらも、ぴったりと身体を寄せ合ってしばらくの間離れようとはしなかった。
少しの沈黙の後、彼は口を開いた。
「さあ、馬車に戻ろう」
気持ちを切り替えるように穏やかにそう言うと、ノランは私の背に腕を回し、共に橋を降り始めた。
顔を上げると、道の先でリカルドぎ腰に両手を当て、仁王立ちで私たち二人が歩いてくるのを待ち構えている。その更に向こうには、道端に止めた馬車の扉を開けて私たちを乗せる準備をしているマルコがいた。
歩きながらノランは言った。
「……本当はリョルカ王国のように、我が国も誕生時より王太子を決めておくべきなのだ」
王子であるノランが、私たちの国と長年敵対している国の制度を讃えたので、私はギクリとした。
王位は生まれた順ではなく、より優秀な王子が継ぐべきだーーその考えにのっとり、ティーガロ王位は王位争奪戦に勝ち抜いた王子が継承してきた。
争奪戦の過程で、より人心を集める、より優秀な王子だけが王位にたどりつき、その資格のないものは淘汰されるのだ。
国王の座は寝ていれば転がり込んでくる生温いものではない。
リョルカは、生まれた順で王位が決まる。だが時としてそれでは、不適格な者が王位に就く可能性がある。
ティーガロのやり方は、合理的に思えた。内紛を生む事を除けば。
でも、ノランはそうは思わないのだ。




