第36話「静寂の階層と残された日記」
ゴブリンとの小競り合いの後、俺たちは再びダンジョンの奥深くへと進んでいった。
俺の成長を目の当たりにしたことで、パーティー内の雰囲気は以前よりもずっと良くなっていた。先頭を歩くグレイの背中もどこか頼もしく見える。
「それにしても、やっぱりモンスターが少ないな」
俺は、周囲を警戒しながら呟いた。
「ああ。普通なら、この辺りの階層はゴブリンやコボルトの巣窟のはずだ。それがこうも静かだと、逆に不気味だな」
グレイも、眉間に皺を寄せて答える。
「何か、大きな変化が起きてるってことなのかな?」
「おそらくはな。俺たちが、あの『監視者』の領域に足を踏み入れたことが、何かの引き金になったのかもしれん」
「ねえ、二人とも、見て」
後方を歩いていたリリアが、通路の脇にある小さな横穴を指さした。
「なんだ? ただの洞穴か?」
「ううん。中に、何か光るものが……」
俺たちは、リリアに促されてその横穴を覗き込んだ。
そこは、人が一人ようやく入れるくらいの狭い空間で、どうやら以前、誰かが野営地として使っていた痕跡があった。
そして、その一番奥に、一冊の古びた手帳が落ちていた。リリアが見た光は、その手帳の革の表紙についた小さな留め金がランプの光を反射したものだったようだ。
「手帳……? 冒険者の日記、とかか?」
「不用意に触るな。罠かもしれん」
グレイはそう言って、剣の先で慎重に手帳をつつき、何の反応もないことを確認してから、それを拾い上げた。
パラパラとページをめくるグレイの横から、俺もその内容を覗き込む。インクが滲み、所々が擦り切れて読めなくなっているが、かろうじて文字を追うことはできた。
なぜか日付が黒く塗られていて、読むことができない。
『――月×日。また一体、化け物にやられた。もう、残りは俺とリーダーだけだ』
『――月△日。リーダーの様子がおかしい。あの日以来、ずっと何かに怯えている。俺たちを助けてくれた、あの「銀髪の天使」に、もう一度会いたいと、そればかりを繰り返している』
「銀髪の天使……?」
俺は、思わずリリアの方を見た。
彼女は、息を呑んで、その日記の文字を食い入るように見つめている。
グレイは、何も言わずにページをさらにめくった。
『――月◇日。ダメだ。リーダーは、もう正気じゃない。天使に会うんだと、一人で深層に向かってしまった。俺はもう、ここを動けない。食料も尽きた。この日記が、誰かの目に留まることを祈る』
『――最後に、これを記す。あの天使に、会ってはいけない。彼女は、希望じゃない。彼女は――』
そこで、日記の記述は途切れていた。最後のページは、何か黒いもので塗りつぶされたように、ぐちゃぐちゃになっていて読むことができない。
「……なんだよ、これ」
俺は、背筋に冷たい汗が伝うのを感じた。 この日記を書いた冒険者は、明らかにリリアと思われる人物に助けられている。
だが、彼は最後に、彼女を「希望じゃない」と記している。
「ただの、錯乱した冒険者の戯言だ」
グレイは、吐き捨てるように言うと、その日記を乱暴に閉じた。
「グレイさん……」
「こんなものに、惑わされるな。行くぞ」
グレイは、俺たちの返事も待たず、さっさと通路の先へと歩き始めてしまった。その背中は、何かから逃げているようにも見えた。
俺は、俯いたまま動かないリリアの肩に、何と声をかければいいのかわからなかった。彼女が「希望じゃない」なら、一体何だというのか。
ダンジョンの静寂が、まるで嘲笑うかのように、俺たちの周りに重くのしかかっていた。




