エピローグ
今年の冬は特別に気温が低く、一月から二月にかけて朝晩は随分と肌寒かった。
午前の遅くに起きた私はシャワーを浴び、左肩と右脚の古傷を確かめた。当時はそこそこの重傷だったが、今は後遺症も残らず、もう痛むことも無くなっていた。朝のルーチンを済ませ、いつもの装いに身を包んだ私は、自宅近くの通りでタクシーを捕まえた。
岱輿城市の政府主流派。それに敵対する香港派。香港派を支援する華南軍閥。彼らの台頭を阻止したいグウィディオン、アメリカ。それぞれの思惑が渦巻くシティの政治的混乱が収束してから、半年が経った。
夏大偉は死亡。その支援者は内乱の罪で拘束され、軒並み失脚。香港派はシティからほぼ一掃された。一時は華南軍閥との間で緊張が高まったが、雷市長の政治手腕により、現在は小康状態にある。
車に乗り込んだ私は、運転手に空港へと向かってもらうよう頼んだ。十分後、そこで陽花を拾う予定になっている。
窓枠に肘を当て、私はぼんやりと外の景色を眺めた。混乱を過ぎてみれば、市民の生活はほとんど変わっていなかった。いや、むしろ変わらなかったことを喜ぶべきなのだろう。
私の身辺も、一年前に比べてそれほど大きな変化があった訳ではない。しかしあの時の修羅場を想えば、それもおそらく幸運なのだ。
平日昼の道路は空いていて、空港へはすぐに到着した。ビル正面のバスターミナルでは、黄色いキャリーバッグを引いた陽花が私に気付き、手を振っていた。私はタクシーを待たせ、彼女のもとへ歩いていく。
「よう」
「月島さん、元気そうだね」
陽花は以前に比べ髪を伸ばし、服装も少々女性らしくなっていた。ただしハッキングがライフワークなのは、まったく変わっていないようだった。
彼女とタクシーに乗り、私は居住区を目指した。
「ジュリアさんは相変わらず忙しいって」
「だろうな」
それから陽花は細々とした近況を語った。相変わらずシンガポールに住んでいるが、アメリカやヨーロッパへ何度か行ったらしい。携帯端末で次々と私に画像を見せる。
「兼城さんと喬さんはどうしてる?」
「兼城は少し偉くなったらしい。だが最近管理職は向いてないと悟りつつある」
海虎一家が利権を握る貧民街の再開発計画は、現在徐々にではあるが進んでいる。暴力と度胸より政治と金がモノを言う局面に移りつつあり、兼城にとっては退屈な時期になっているようだ。
「喬は店を開いた」
「店?」
「ハンバーガーショップ」
警察組織に戻れるという話も出ていたらしいが、喬はそれを辞退した。その後何を思ったのか、再開発地区の一角を押さえ、ファストフードの店を始めたのだった。目指す所は良く分からない。今の所楽しそうではある。
タクシーは程なく居住区に到着した。私はシティで数少ない生花店の場所を思い出し、その前で降りる。
我々はこれから、陽花の父親が死んだ現場まで行くつもりだった。ちょうど一年前、瀬田英司はその場所で公安に殺された。事件の関係者全員に責任を取らせることはできない。しかし陽花は自分なりの意志と復讐心で、自らの魂が路頭に迷うことを防いだのだった。
店で淡いピンクのスイートピーを買い求めた陽花は、キャリーバッグを私に押しつけ、早歩きで道を行く。我々は小さな横路に入り、ビルで陰った曲がり角いくつか通過する。そして車が辛うじて通れる程度の、薄暗い路地に出た。
私がこの場所に来るのは半年振りだった。陽花は一連の事件が終わった後に一度訪れたらしいが、期間としては私と似たようなものだ。
陽花は父親が倒れていた辺りに花を供え、手を合わせた。私もそれに倣ったが、陽花は随分と長くそうしていた。
「私、春から大学に行くことにした」
顔を上げた陽花が出し抜けに言った。
「へえ、そりゃ知らなかった」
陽花は昨年の夏に高校を卒業している。その当時は進学を迷っていたが、父親にまつわる事件に対して気持ちの整理がついた後、自分の進路をゆっくり考えることができたのだろう。
「仲間を集めてゲーム作ろうと思って。あんまり慣れない分野だけど」
陽花の興味が遊びに向いたのは良いことだ。彼女の保護者であるレベッカ・リー女史も安心するだろう。
「よし」
陽花は立ち上がった。
「喬さんのハンバーガー食べに行こう」
「ここからはちょっと離れてるな」
「いいよ。歩いて行きたい」
キャリーバッグを引いていくと少々大変だが、一時間は掛からないだろう。
「兼城も呼ぶか。あの辺に居るだろ」
そして私と陽花は事件の始まった薄暗い路地を離れ、表通りを南下し始めた。時刻は午前十一時。少なくとも今日一杯は晴天が続きそうだ。
これからはまた、平和で退屈な日々が続くだろう。しかしそれは以前に比べ、ほんの少し愛すべきものになるような気がした。
最後までお読みいただきありがとうございました。
感想等いただけると嬉しく思います。




