断片 -8-
リー女史のアパートを辞去した私は、一旦自分の事務所に戻ることにした。昼食を摂りながら情報を整理し、必要があれば端末で資料を漁るつもりでいた。トラムに乗って事務所の近くに着いたとき、時刻は正午を大きく回っていた。
私はあまり空腹ではなかったが、一応何か腹に入れておいたほうがいいだろうと思い、事務所近くのパン屋に寄った。赤と黄色の看板を掲げ、その下にある壁は商品がよく見えるようガラス張りになっている。かなり頻繁に利用する店なので、店員は私の顔と職業まで覚えていた。
焼けた小麦粉と油脂の香りがする店内に入り、適当なパンを二つ選んでレジに向かう。会計の際いつもの女性店員が、商品をビニールに入れながら話しかけてきた。
「さっき、お客さんが来てましたよ。『月島探偵事務所は向かいで合ってますか』って人が。十分前ぐらいかな」
迷った依頼人がこの店で事務所の在処を尋ねるのは、これまでもよくあることだったが、タイミングがタイミングだけに、私は少々身構えた。
「どんな人?」
「三十代ぐらいの、男の人」
「マフィアっぽい?」
「いやいや、普通にビジネスマン風で。感じのいい人でしたよ」
とりあえず、黑色女人の報復ではなさそうだった。もし依頼人ならば、ダブルブッキングになってしまうので断らなければならない。私は店員に礼を言い、商品を受け取って店を出た。
ビルのエレベーターで四階まで上がり、事務所の前まで来た。客が敵意のある人間だったとしても、ドアを開けた途端に不意打ちはないだろうが、私は一応の警戒をしつつ中へと入った。
男は待合室のソファに座っていた。私を認めると立ち上がり、慇懃に一礼した。パン屋の店員が言う通り、私と同じか少し年上ぐらいで、髪を後ろに撫でつけた、有能なビジネスマンといった感じの男だった。
「月島さんですか」
男は流暢な英語を話した。
「ええそうです。仕事の依頼でしょうか」
「いえ、そういう訳ではありません」
長袖のワイシャツとネクタイを身に付けた男は、財布から紺色のカードを取り出して私に提示した。それは私にも十分馴染みのある、警察職員であることを示すIDカードだった。表面に朱 道明という名前と番号が印字されているが、所属を示す表記はなく、またID番号からも部署は推測できないようになっていた。
しかしもし彼が刑事部門の所属ならば、突然訪問する理由などない。私は英治の死体があると通報した者なのだから、普通に連絡を取って出頭させればいいのだ。
つまりこの男は刑事警察とは別系統。まず間違いなく、公安の人間だった。私がそれを看破することを、きっとこの男も想定しているだろう。
「仕事中なので、あまり長い時間は取れませんが、それでもよければ」
そう言って私は彼に着席を勧め、私自身もソファの端に座った。この男を奥の部屋に入れるつもりはなかった。
「月島さん。あなた、瀬田英治さんが殺害された事件について調べていますね」
朱は脚を組み、余裕のある態度でこちらの懐を探ってきたが、今更動揺するほどのものではない。
「仕事の内容について明かすことはできません。依頼人の利益を損なう場合が多いので」
私が事件を調べているかどうかについて、彼ははもう確信を持っているに違いない。言葉で否定しようと肯定しようと同じことだ。私の答えも予想していたようで、朱は穏やかな表情を崩さなかった。
「そう構えないでください月島さん。私達は真実を明らかにしようとしているだけですから」
多少なりとも公安の実情について知っている私からすれば、それはなんとも空虚な言葉だった。私が何も答えないでいると、朱は焦れたように言葉を継いだ。
「まあいいでしょう。殺された瀬田英治が、何をしていたか知っていますか?」
「コンピューターエンジニアだそうですね」
「それはもちろん知っているでしょう。私が言っているのは、彼が何を研究していたかということですよ」
「さあ」
私は話を早く切り上げたい、という態度を前面に押し出したが、彼は全く意に介していない様子だった。
「私達の調べによれば、彼が研究していたのは危険なサイバー兵器です。ネットワーク上の治安を脅かすようなね」
朱はどこからこの情報を知ったのだろうか。そして、英治の研究内容を私に知らせる意図はなんだろうか。態度がどうも不可解で、私はむしろ不信を募らせた。
「だから殺されたんでしょうか?」
「どうでしょうね。あなたはどう思います?」
私が話に乗ってきたことを喜ぶように、男は薄笑いを浮かべた。
「私なら殺さずに身柄を確保しますね」
無感情な私の言葉に同意するような調子で、朱は頷いた。しかし次の瞬間、彼の表情は当初の平穏なものから、およそ初対面の人間に向けるものとは思えない、冷淡で酷薄ものに変わった。それはまるで、顔面の表と裏を急に入れ替えたかのような変化だった。朱は組んでいた脚を開き、身を乗り出して私に顔を近付けた。
「あなたは優秀で、実績もある。でも今回は、一介の探偵が嗅ぎまわっていい規模の話じゃない」
皮下に染み透るような低い声だった。普通の人間ならば神経ごと身が竦んでしまうような、迫力ある態度だった。普通の人間ならば。
「ご忠告痛み入ります」
しかし生憎、私はこういった種類のやりとりをうんざりするほど経験していた。しかしそれは、張り詰めた空気を緩和する能力を持っているということを意味しない。場が孕む緊張は増大し始め、話し合いは根比べの様相を呈してきた。
「もしかすると、雷富城氏の機嫌を損ねるかもしれませんよ」
元々楽しい会話になるとは思っていなかったが、朱はシティの支配者である市長の名前を出して、私を脅しさえした。しかし相手が公安である時点で、市長の権力が背景にあることなど解っている。私は何も言わず、彼の目をじっと見たまま動かなかった。じりじりとした睨み合いがしばらく続いたあとで、朱は私にプレッシャーを与えることに飽きたのか、ソファを立って玄関に向かった。
私は幾分ほっとしたが、このまま帰らせるのも気に食わなかったので、去り行く男の背中に声を掛けた。
「瀬田英治が死んでよかったですか?」
朱は一瞬首だけで振り返り、私を見た。彼は何も言わなかったが、その目には殺伐とした世界に首まで浸かった者特有の、虚ろな昏さが宿っていた。
口の中が渇いていた。私は朱がドアから出るのを見届けたあと、水を一杯飲んでから奥の部屋に入った。随分長く話しているような気がしたが、時刻を確認すると、部屋に戻ってきてから十分も経っていなかった。どっと疲労を感じた私は、応接用のソファに寝転がり、しばらくそのままでいた。食事をする意欲はまだ湧きそうになかった。
陽花の話と先ほどの話を併せて考えれば、フラガラッハが英治殺害の原因となったのは間違いなさそうだった。絡んでくる勢力は黑色女人と、その背後にいるであろう華南軍閥。そして公安を含めたシティ警察。
黑色女人が英治を襲撃したのなら、捕まえずに殺してしまった理由はなんだろうか。例えばフラガラッハがそのまま手に入ったとしても、開発者なしで安全に使用できるとは思えない。協力しないならば殺してしまえ、ということだったのだろうか。
私はおもむろに起き上り、中型端末に向かった。すぐに外出すると、公安の尾行が付く可能性がある。せっかくだから少し事務所に籠もり、できることをしておこうと思った。
まず私は、監視カメラの録画データを呼び出した。公安の男が部屋に何かしていないか確かめるつもりだった。公安の男は部屋に入ってきてから、奥の部屋へのドアを確かめてみたり、監視カメラを発見して覗きこんだりしていた。盗聴器を仕掛けたり、物を盗んだりした様子はなかった。私は念のため、録画データを保存しておくことにした。
その後三時間ほど、私は仕事のメールを処理してから、サイバー兵器に関連して起こった事件、東アジアの軍事情勢、シティの外交関係といった膨大な資料を漁り、いくつかについてはかなりじっくりと読んでみた。中には興味深いものもあったが、現在の状況に直接役立ちそうな情報は見つからず、私は午後一杯を浪費し、日暮れ前に自宅への帰途に就いた。
結局その日はそれ以上何もする気が起きず、昼に食べ損ねたパンを夕飯として、早めに寝てしまうことにした。




