その2
ばふりと頭に落ちてきたものの意味がつかめずに、風香は完全に思考能力を停止させた。
さして痛む訳でもないが――苛々としながら意味不明な自称風香の精霊であるカピバラの入っていた洗い桶を片付ける段階で突然鈍い痛みが頭に直撃したのだ。
――そして回答はすぐにでた。
籠だ。
あの、どう考えても祖父ちゃんよりも性質の悪そうなカピバラを捕らえる為に作られたインスタントよりも遥かに即席お手軽な罠は、完全に動転してしまった風香により綺麗さっぱり忘れ去られ――そして目的のカピバラを捕らえることもなく風香の頭に直撃したのだった。
風香は頭に籠を載せつつ「ふ……ふふふ」と唇をゆがませ「金盥にしなくて本当に良かった。あたしって偉いな。賢いよ」とポジティブな思考で何とかその場を乗り切った。
だがそんなポジティブ思考が持続したのはその夜限りのこと。
草木も眠る丑三つ刻――江戸時代のこの時間表記は、夏と冬では時間じたいがかわってしまう。それでも現代の刻限で言うと深夜一時から二時程度。更に言えば丑三つ刻の丑と牛は違う。
そんなどうでもいい知識は更にどうでもいいくらいに、小峰風香は寝台の中でひとりもんもんとしていた。
もちろん、なんだかいやらしい感じのもんもんではもちろんない。
苛立ちと腹立たしさを足して二で割った感じのもんもんだ。もしくは苛立ちと腹立たしさとをかけて更に鬱憤で割っても可。
「……うーわーきーもーのぉぉぉぉ」
水をたっぷりと張った洗い桶すら用意していないというのに、何故このカピバラは丑三つ刻などという随分とマニアックな時間に出現しているのだろうか。
しかも部屋の片隅に、思い切り幽霊まがいにたたずみながら恨み言をつぶやき続けてすでに五日夜。
「俺様というものがありなからぁ」
と、睡眠学習も真っ青の意味のなさで。
風香は枕で頭を抱えるようにしてうつぶせになっていたが、さすがに無視し続けられずにがばりと体を起こして思い切り枕を相手のいると思わしき暗闇にたたきつけた。
「うるさいわっ、この馬鹿カピバラっ。水も用意してないのに出てくるなっ」
「ばーかばーか。風呂は好きなだけだよーん。水なんて水差しの水さえあればどこでも出れるんだよーん、騙されてやんのーっ」
ケケケという謎の笑い声を残し、闇の中に消えてしまう物体に、風香はこのところすっかり睡眠不足に陥っていた。
ぐったりと居間のソファで延びている風香の様子に、ドーンはくっきりと眉間に皺を刻みつけて片眉を跳ね上げた。
「眠りたいのであれば自分の部屋で寝なさい」
「一人で寝ているとデルんです」
タチの悪いのが。
イライラとしながら言えば、一応精霊の件を了承しているドーンは嘆息一つで理解は示す。その顔があまりにもシャクに触るのは、ただの寝不足の八つ当たりだろう。
風香はヘレン曾祖母ちゃんお手製のレースカバーの掛けられたクッションを抱きしめながら、あてつけのようにあふりとあくびをした。
こういう時には楽しいことを考えるのが一番である。
風香はでろりとした謎の物体になりながら、脳裏に必死に楽しいことを夢想した。
楽しいこと楽しいこと楽しいこと。
気持ちがぱぁっと明るくなって、人生って素晴らしいと思えるような――
……水洗トイレしか浮かばなかった。
まぁいい。
水洗トイレはどう考えても素晴らしいのだ。風香的には楽しいに該当するということにしておく。
トイレトイレトイレ。
そう、今なら毎日綺麗に磨く。古の人は良いことを言った。
トイレには神様がいる。
名前はきっとウォシュレット様だ。
トイレの表面に色を付けてしまう洗浄剤などもってのほか、毎日綺麗にぴかぴかに磨き上げ、感謝の祈りをささげよう。
夫であるトイレ技師よりも愛することを誓ったいい……
「って、もしかしてウォシュレット作ってる会社とトイレを作っている会社って違う?」
考えてみればトイレは――水洗トイレ用便器は陶器のような気がする。
そしてウォシュレットは考えるまでもなく精密機械である。陶器と機械はどう考えても違う。
風香はクッションを抱きしめたままがばりと体をあげ、信じられないと顔を振った。
「便器とウォシュレット、あたしはどっちの嫁になるべき?」
寝不足五日目……
崩壊は結構単純に訪れるのだった。




