その1
洗い桶にたっぷりの水を用意してまつこと数分、放置で数十分――
その桶の中でのんきに鼻歌を謡っている白カピバラに遭遇するのは思っていたより簡単なことだった。
「よぉ」
しかも、悪びれる様子もなく前足をあげてみせる。
ひょいっと犬がお手をするかのようにあがった前足に、風香は口元をひくつかせた。
「指輪壊さねぇのなー」
「騙されていると判っていて、だーれが壊すか」
「壊したら面白かったのによぉ。アレはあっちとこっちの媒体だからさ。破壊したらお前、ちょっとやそっとじゃ帰れないわなぁ」
ひゃひゃひゃっと笑う白カピバラ――サングラス付きは楽しげに肩を揺らした。
性格はオコジョのように狡猾そうだが、生憎と風香は女郎雲やアイアイ並に執念深い自覚がある。
口元をにんまりと歪め、見下ろした。
「クリストファーは野良精霊とか言っていたけど」
「またまたー。俺はクリストファーの精霊だって」
「精霊はうそつきらしいね」
「精霊は嘘つきかもしれんけど、おーれーは、嘘つかんよー」
何を言うかこの大嘘つきめが。
「ま、冗談はさておき。
俺にも一応主人はいるさ。ものすっごい性格も根性も悪い主がな」
カピバラは言いながらふーっと息をついてみせた。
しかも言ってる内容は酷い。嘘を冗談と流しているが、嘘いがいのなにものでもないだろう。
白カピバラはまるで温泉にでもつかっているようにさえ見えるが、入っているのはあくまでも洗濯用の洗い桶。しかも今回は悪意を込めて中身は川の水にしておいた。飲み水などカピバラにはもったいない。
「可愛げのないやつでさ。本当に参るよ」
「それとあたしの指輪を破壊するのとどういう意味があるのよ」
「意味? 意味なんざあんまねぇよ? 別にソイツ、その指輪に封じられているヤツに恩義がある訳でもねぇしよ? むしろ恨みならあるかな? 封印がとけてヤツが実体化した暁には、一発殴る程度の恨みくくらいはあるけど、そんなもんだし?
やっぱ、封印がとけようとどうしようとあんま関係ねぇかな。
ただ、お前困るだろ? 言葉が通じなくなったり、日本に戻るのに時間が掛かったりしたら困るだろ?
だからちょっと言ってみただけさ。それに言わせてもらうが、その指輪はヴィストの指輪であっててめぇのじゃねぇよ?」
かかかかかと笑うカピバラに、風香は更に眼差しをきつくした。
「主持ちなら主持ちらしく、主人のトコに行け!
こんなとこで通りすがりに善良な一市民に嫌がらせしてんな」
びしりと指を突きつけて言えば、カピバラは「ふんっ」と鼻を鳴らした。
「だから主のとこにいるんだろうが。
糞生意気であったま悪くて性悪なオマエのところにっ」
シンっと静まり返った部屋で、風香は瞳をゆっくりと二度瞬いた。
「いや、ナイナイ」
風香はじっくりと洗濯桶の下半身デブな巨大ネズミ族を見て、顔の前でゆっくりと手を振って見せた。
「それはナイでしょ。
あたしが精霊の主人?
はぁっ? 何がどうして突然主って話になるのよ? だってあたしはまだ魔法使いじゃないし……カピバラが契約精霊? 嘘をつくにしたってもうちょっとマシな嘘を」
「俺だって好きでカピバラやってるんじやねぇよ!
お前がカピバラにしたんだろ。
風ちゃんカピバラが好きーって、茶色より白いのがいいーってふざけたこと言いやがって。俺を勝手にカピバラにした挙句、カピバラになった俺を見て、イヤーでかいっ。怖いっ。可愛くない。こんなのカピバラじゃないっとかほざいた糞ガキがぁっ」
――カピバラ……イヤー、でかいっ。
その言葉に、ふと風香は眉を潜めた。
確かに、それは確かに大昔――祖父ちゃんと一緒にいる時に、祖父ちゃんがつれて行ってくれたどこかの動物公園?っぽいところで初カピバラに遭遇し、そのでかさにビビッてしまった時の発言だ。
挙句、好きだと思っていたのはキャラクターデザイン化された可愛らしいカピバラで、どでかいネズミの姿はどちらかといえばコワイ部類であった。何より白というイロがまた頂けない。はじめましてなカピバラは風香にとってはあまり可愛らしいものでは無かったのだ。
大人になった今であれば、でかいネズミであろうとある程度許容できるのだが。その当時は突然目の前に突きつけられた生き物にたいそう怯えてしまったものだ。
キャラクターナイズされた可愛い熊とツキノワグマではギャップ萌えすらおきないのと一緒である。もしくはぬめっとしたカエルは嫌いだけれど、カエルグッズは別物と一緒。
「……いや、でも……だから、あたしは魔法使いじゃ、ないし」
「そうだよな。俺は魔法使いでもないガキに無理やり手篭めにされた可愛そうな精霊っつうわけだ」
「て、手篭めっ?」
なんだその表現は。
風香がギョッとしていると、カピバラはふっと遠くを見るようなしぐさをし、ついでせつなそうに視線を逸らしてうつむいた。
「生まれ立ての純真無垢な俺様を」
「まてまてまてっ。その頃って、五つとか六つの子供でしょ? 子供のあたしが何をしたってぇのっ」
あまり詳しくは覚えていないが、おそらくきっとその程度の年齢であった筈だ。初カピバラに遭遇したのは。
ただし記憶の中でカピバラは決して精霊ではないが。
「まだ形もおぼつかない精霊の俺様を踏みつけて、とっ捕まえて【これ風ちゃんのーっ】て、無理やり自分のモノにしやがった癖にっ。
挙句勝手にカピバラの姿にしたのに、白いカピバラにした途端にイヤーって放り出したくせにっ。
何年も何年も俺を放置した癖にっ。このっ、このっ、性悪女っ」
すき放題騒いだカピバラは、その小さな前足をびしりと風香へと突きつけた。
「挙句、ヴィストの精霊を身につけているなんてっ
このっっっ、浮気ものぉぉぉぉ」
――確実に涙声で捨て台詞を吐いたカピバラを呆気にとられて見送り、風香は相手を止めるように宙に浮かした手をわきわきと動かした。
「いや、えっと……それも嘘、だよね?」
嘘なのか真実であるのか。
果たして魔法使いではない風香にはどうしてもその判別はつかないのだった。
「嘘って言ってよっ」
というか、浮気ものっていう言葉はどうなのであろうか。




