その2
トイレ壷は却下されました――
仕方なく洗濯用の洗い桶をえっちらおっちらと運ぶ羽目になった風香は、当然のように白磁の美々しい問題の壷から水を入れ替えようとして――「ひねるぞっ」とサングラスのカピバラに低く威嚇されてしまった。
更に「はーやーくーしろーぉぉぉ」と騒ぐカピバラに、このままたたき出してやろうかという感想を抱いたが、相手は魔法使いクリストファーの使いだ。無碍にして借金を増やされてはたまらない。何といってもあの借用書は風香にとって読めない謎の契約書だ。
いや、まて。
増やされたところで祖父ちゃんの借金は祖父ちゃんの借金であって風香のものではない。ここは無視して良いのではあるまいか。日本では確か相続放棄という手続きがあって、マイナスの遺産といえども放棄できる筈なのだ。
相続放棄の手続きは相続が発生してから三ヶ月以内――ということは、祖父ちゃんが死んで祖父ちゃんの遺産相続権が現在お母さんに移動していて、お母さんがそれを相続してしまえば借金も自動的にお母さん……と、果たしてクリストファーが納得してくれるであろうか。
風香はますます眉間に皺を刻み付けつつ、口やかましいカピバラの為に洗濯桶に新しい水をたっぷりとたくわえた。
カピバラ・イン・洗濯桶――なんともシュール。
「で、話って何さ?」
どっかりと椅子にすわり、ババ臭くもとんとんっと風香は自分の腰を二度叩いた。なんといっても水は重いのだ。侍女さんに手伝ってもらえばよいのだろうが、夕食も終わった時刻に侍女さんを呼び出せる程豪胆ではない。
風香は生粋の日本人だ。
宇宙人の血が思いっきり入っているが。
「さっきも言ったけど、借金返せって言われても無理ですからね」
「んなこたぁどーでもいいんだよ」
水を堪能しているカピバラはサングラスを外し、きゅっきゅっと水の中でソレを洗い出す。
……くりっとしたまんまるの眼がとってもキュート。
あやうくぶほりとおかしな音を噴出しかけた風香は、笑いを堪える為にそっぽを向いた。
先ほどまでおっさん面のカピバラであったものが、いまやなんとも愛らしいイキモノだ。
「そんなことより、今度の満月のときに」
「満月――月?」
風香はあわてて顔をあげ、ついでカーテンがおろされている窓から外を眺めた。
月……そうか、ここにも一応月があるのか。今まで夜に外を見ることもなく、そんなことを考えたことも無かった風香は、ある意味大きく銀色に輝く月をみて感動した。
「そう、丁度明日、満月になる。
その時におまえの指輪を壊せば――お前は地球に戻れる」
乾いたフキンでサングラスをふきあげ、ちゃっと目に装着したカピバラはふんぞり返ってそう口にした。
途端、風香は外を眺めていた顔を戻し、喜色もあらわな声を張り上げた。
「嘘っ」
「精霊は嘘は言わんよ。
お前ぇ、地球に帰りたいんだろ? 月には不思議の力が満ちている。満月ともなればそれも最高潮。その力も使って地球にぶんっとひとっとびっつう寸法さっ」
ふふんっと得意げに言うカピバラを無視し、風香は「やったーっ」と叫んで部屋を飛び出していた。
***
弾丸の速さで二階の居間へとおりたち、一人で優雅に新聞を眺めていたドーンを見つけた風香は「ドーン大叔父さんっ」と声を張り上げた。
「聞いて聞いて、聞いてっ」
「風香、うるさい」
「聞けよっ」
けむたがるようなしぐさをする相手に腹をたて、読んでいる新聞をばさりと叩く。ドーンはますます顔をしかめ、ぎろりと風香を睨み返した。
風香はそんな相手を無視し、その膝ににじり寄るどころか乗っかった。
まさに新聞を読むのを邪魔する猫の如く。
「あたし地球に帰れるっ」
「――夢を見るには早すぎる時間だな」
「夢じゃないったら! クリストファーの精霊が教えてくれたんですよ。
明日の満月の夜に指輪を壊したら地球に帰れるって」
超絶ハイテンションな風香は、ばしばしとドーンの腕を叩いてにこにこと口にした。
「クリストファーが?」
「そうっ。曾祖母ちゃんが言っていた通り、クリストファーって本当は親切なんですね。あたし失礼してしまったし、明日の昼間にはぜひお礼を言いに行かないと」
明日の夜には帰ってしまうし。
にこにこと語る風香を眺め回し、ドーンは眉を潜めた。
「クリストファーが実は親切なのは知っている。
だが風香」
「はい?」
「――あいつはいつお前が風香だと納得したんだ?」
はたり……
風香は笑顔でぴたりと固まった。
「ヴィストだと思われていなかったか?
いつそんなに親しく会話を交わしたんだ? 私の目を盗んで夜中にでも抜け出したのではないだろうな」
家長としての憤慨を示す相手の前で、風香はぐぐぐっと更に眉を潜めた。
「あれ……そういえば、あたし自分の名前もクリストファーに言った覚えが、ない」
確かにヴィストの孫だと言った覚えはあるが、風香などと名乗った覚えなどない。
指輪や地球のことについては勢いに任せて言ったような気はするが、風香と名乗った覚えはなかった。
ドーンの膝の上で考え事をはじめた風香に、ドーンは冷ややかな眼差しを向けて唇をへの字に曲げた。
「で、でもっ。
今確かに精霊が――あれ、あれって本当に精霊、なの?」
色々混乱した風香が困惑にまみれた不安な眼差しでドーンを見ると、ドーンは深々と嘆息を落とした。
「私は魔法使いではないから確たることは言えないが――
ソレは指輪を壊せば地球に戻れると言ったのか?」
風香は淡々としたドーンの言葉にますます眉を寄せながら、先ほどまでカピバラとしていた会話を思い出すように口にした。
「明日の満月の夜に……指輪を壊せばって」
「満月の夜に精霊を封じ込めたアイテムを破壊すると封じられていた精霊が開放されるそうだ」
風香はじぃっとドーンの顔を見つめた。
それこそ、穴があくのではないかというくらいに。
ドーンはハシビロコウもかくやという程にじっとしていた。
「あんのカピバラーぁぁぁぁぁぁっ」
弾丸の如くやってきた風香は、大陸弾道弾の勢いで元の自室へと立ち戻り、いまだ洗い桶の水の中でぬほーっとしていたカピバラを思い切り足蹴にしていた。
「おまえっ、祖父ちゃんの精霊だろぉぉぉぉぉぉっ」




