その3
完全に地面に押し倒され、いそいそと襟首のタイを引き抜かれた。
首が絞まるような気がして、そのタイを緩く巻いていたことも、さらには第一ボタンを止めていなかったことすらも災いし、相手のレースの手袋に包まれたざらざらとした指先が首筋に触れてくる。
ぞくりよりもぞわりとしたイヤな感覚。
まさに蛇に睨まれたカエルのように脅えが体内を駆け巡り、同性に襲われているというのに体がその現実を拒絶するようにチカラが入らない。
どう考えても、ひ弱そうな令嬢よりも現代っ子風香のほうが数倍も力がありそうだというのに、肉食獣の前で草食獣はなすすべもなし。
あわやこのまま怪しい世界の扉を開いてしまうのかと涙ぐんだその視界には猛禽類の眼差しをした嬉しそうなエリス、そしてその遥か上にドーンがいらだたしい程の青空をバックに腕を組んで覗き込んでいるのを見つけ、風香は一気に勢いを取り戻した。
「ドーン叔祖父さん、どうにかしろぉっ!」
っつか、何を悠長に眺めているんだ。
かわいい兄祖父ちゃんの孫娘が襲われているんだぞ。
と、こんな時だけ「かわいい」などという単語をつけてしまう風香だ。
「何よ、ドーン。ちょっとは気を使いなさいよ」
ドーンが無遠慮にじっと見下ろしていることに気づいたエリスが唇を尖らせて軽く体を起こすと、ドーンは相変わらず涼しい表情で腕を組んだまま「心外な。気を使って眺めているだけだ、気にすることはない」などと正気とは思えないことを言う。
やっと上の重しが軽く退いたことに、風香はぜいぜいと肩で息をしながら抜け出そうとずりずりといざりつつ、酸欠状態で思考回路が危うい脳の為に瀕死の金魚のようにぱくぱくと口を動かして酸素を求めた。
フルマラソンの選手のように今現在切実に酸素用のスプレーが欲しい。
「もぅっ。興がそがれたわ」
エリスは唇を尖らせて言うと立ち上がり、乱れた髪をふぁさりとかきあげた。
「とにかく、ヴィスト。
一刻も早く男に戻ってもらわないと困るのよ。
その辺りをきちんと理解してちょうだいね。
わたくしは女でも構わないけれど、お父様はそれでは駄目だというのですもの」
一方的に言い切ると、エリスはばさりと音をさせてドレスの裾をさばくと、ふんっと鼻を鳴らしてドーンを見返した。
「あなたがお兄ちゃん子だとは知らなかったわ。
一年も留守にしていたからヴィストに張り付いているのかもしれないけれど、そういうのって気持ち悪い」
「私がお兄ちゃん子だとは私も知らなかった。
どうでもいいが、勝手に人の敷地内に入るな。今は婚約破棄も立派にすんでいる当家とは無関係のエリス」
「あなたって本当に生意気なのよ」
「奇遇だな。私も貴女に対してずっとそのように思っている」
すでに風香のことなど完全無視でばちばちと火花を散らしまくる二人だったが、やがてエリスが「ふんっ」と鼻息も荒く身を翻し、だかだかと足音高く颯爽と庭を抜けていったが、ふいにばしっと足を止めて振り返り、へたれている風香ににっこりと微笑んだ。
「ヴィスト、男に戻る前に一度楽しみましょうね!」
……何を?
さぁっと血の気が引いていくのを感じつつ、相手の言葉に突っ込むことはできなかった。
聞いたらもう二度と自分の部屋から出たくない気がする。
相手の言葉の真意をただした時、風香は女性恐怖症になるような気がする。
まさに台風一過。
真っ青になりながらそれを見送っていた風香は、はたりとドーンの存在を思い出し――唇を尖らせた。
そもそも、何が悪いといえばドーンが悪い。
もっと早い段階で救いの手を差し伸べることはいくらでもできたことだろう。
なんと言っても、相手はいつだって屋敷内をうろついているニートだ。
風香が襲われていたのは、屋敷のどの部屋からでも見ることのできる中庭だったのだから。
風香はじとりとした眼差しでドーンを睨み上げ、辛辣な口調でぼそりと言った。
「……覗きですか、いい趣味ですね。ドーン叔祖父さん」
「自分より年上を救助要請もなく勝手に救うのは大変おこがましいと思いましてね、風香オネエサン」
ばちばちっと二人の間で火花が散り、二人は同時に同じ言葉を吐き捨てた。
「大人気ない!」




