その2
風香はむっつりとしたまま庭先に置かれた木製の簡易椅子に座り、質のよろしくないざらりとした紙に木炭を詰め込んだようなペンでげしげしと何やら書き込みをしていた。
屋敷の庭には綺麗に芝生が植えられ、端のほうでは庭師が丁寧に芝生の手入れをしている。
ひょっこりと顔を出した雑草を鎌のようなものでつついては抜き去り、ちょっとづつ移動するという涙ぐましい程に果てない作業だ。
風香はその作業を時折眺めては、なんとなく暢気な気持ちを味わい、そして手元を見ては溜息をついた。
手元の紙に、ざっと絵を描いては、それに細かく注釈をつけていく。
自分の知識の乏しさを呪いつつ、必死になって考えているのは勿論目下の悩みの種――魔法についてでも、この世界の文字のことでもなく、トイレのことだった。
阿呆かと言われたところでここはどうにも譲れない。
百歩譲って壷も我慢してもいい。
――だが、せめて、せーめて他人に迷惑をかけずに処理ができるようなシステムを構築できないものか。
川の上に小屋を作って、川に流すとか……
悪くはないが、果たして匂いはどうだろう。
そもそも、その川が生活用水だと色々と面倒くさい。そういえばこの家の水はいったいどこから引かれているのだろうか――土木課にでも進めばよかった。というか、どうしてそういう知識がまったく無いのだろう。
トイレなんて座って用をたせば終わりなどと思っていた自分が恨めしい。
まったく何が魔法のある世界だ。
そんな世界ならトイレ事情だってもっと発達させてくれていたっていいじゃないか。魔法でぱぁっと綺麗にすっきりクリーンに――なんて話をドーンにしたら、あっさりと却下された。
「精霊は不浄を嫌う」
そう、この世界の魔法は精霊魔法。
精霊はイヤなのだそうだ――うん、気持ちは判る。
ぐりぐりとトイレの絵を描いてはぐりぐりと消していく二十一歳――お年頃の乙女。
このままでは目指せトイレ技師になってしまいそうだ。
「戻ったら絶対にトレイ製造業者の嫁になろう」
一生尊敬し続けることができそうだ。
そして生涯ウォシュレットと離れないと誓う。
富めるときも病む時も。
こうなったら指輪の裏文字がWCでも構わない。
ぼそりと呟いた言葉に、突然背後からぐいっと首を絞められる勢いでホールドされ、風香は後ろ手にのけぞった。
「ヴィストがお嫁さんなんて駄目ですわ!
わたくしがヴィストのお嫁さんですものっ」
奇怪な声をあげた相手は、力まかせに風香の顎に手を掛け――ごきりと音がするのも構うことなく無理やり唇を奪った。
妙な角度で――
……舌……舌、し……
***
「聞いて、ヴィスト。
お父様がヴィストとの結婚に反対だと言うのっ」
――……ふぅっと何かが抜けたような気持ちで風香は呆然としていた。ありていにいえば、おそらく抜けているのは魂だ。
勢いのままに座っていた椅子は破壊され、その衝撃で打ち付けた尻が――尾てい骨がじんじんと風香をさいなむ。
首には背後から抱きつく謎の生命体。
風香はぼんやりとしながら心の内で呪文を唱えた「ジジイ死ね、ジジイ死ね、ジジイ死ね」三回唱えると願いは適うが、相手は死して尚他人様に迷惑を振りまき続ける大天才だった。
――更にいえば風香は他人では無い。他人どころか迷惑の掛けやすい身内。
直系の孫である。
たいへん残念なことに。
「性別がかわってしまうことなんて良くあることよ。けれど、精霊に性別をかえられてしまうような不甲斐ない男は婿にはできないというの」
「いや、へぇ……そうですなぁ」
その通りですよ、おぜうさん。
あっしもそう思いやすぜ。
風香は何故か江戸っ子な気持ちになった。
本当の江戸っ子が聞いたら怒るかもしれないエセ江戸っ子だが。
「ああ、だからヴィスト。お願いよ。わたくしの為に男に戻ってちょうだい。
悪戯ものの精霊を下して、そして性別を戻させるのよ」
「そうおっしゃられましても、もともと女なんで、へぇ、すんません」
下すもなにも、そんな精霊は存在しやせんぜ。
「もぉっ、ヴィストってば! どうしたというの?
ああ、突然わたくしが来たから喜んでいるのね?」
かってにそう解釈したくそったれ祖父ちゃんの元婚約者――名前は確かエリーエール……ではなくてエリスは、ぐるりと体勢をかえて風香の前側に来るとうるうると瞳を潤ませた。
「そんな泣きそうな顔しないでちょうだい。わたくしまで泣きたくなってしまうわ」
などと殊勝な台詞を吐く癖して、エリスは風香の上にしなだれかかり、むにゅりと風香の胸の上に手を置いた。
それまでふよふよとその辺りを浮遊していた魂が、慌てて風香の中へと舞い戻る。
カッと目を見開いた風香におかまいなしで、エリスはさわさわと風香の――多少心もとない胸をなで上げた。
「良かった、わたくしの胸よりは小さいのね」
ボディスで押し上げられた胸を自慢げに押し付けてくる女性に恐怖を感じ、風香は意味不明なあわあわという悲鳴をあげ、なんとかその手を逃れようと前かがみになったが、そもそも自分の上には変質者のような女が圧し掛かっている。
「おじ、おおっ、おおおおぅっ」
半泣きの風香はエリスの両肩をむんずと掴みその身を突っぱねるように押しているというのに、相手はにこにこと機嫌よく――だからこそ不気味に「いやだ、ヴィストってば照れているのね? 想いあっている二人が一緒にいるのよ、ちょっとくらいのスキンシップはあることよ」
ないないないないない、あるか、ぼけぇっ。
そもそも誰と誰が想いあっている。
ヴィスト。クソジジィっ、とにかくちょっと顔を出せ。
そのすがすがしいまでにシャアシャアとした面ぁ貸せ、このあほんだらっ。
おまえはこの女とどんな付き合いをしていたんだ、責任とれっ。
タエ祖母ちゃんにちくるから。
絶対に、何がなんでも、墓前で言ってやる。
覚えていろっ。
――祖母ちゃん祖父ちゃんはふしだらですっ。
って、ンなことは祖母ちゃんが一番知ってるよ、くそったれ。




