33 君にカフェオレを淹れる(嬉しすぎて、幸せすぎて)
制服を手に取る。急がなくちゃ。
(失念していた――)
離れる時間が生まれるなんて、全然考えていなかったのだ。急いで戻らないと。雪姫の笑顔が見たいとずっと頑張ってきたのに、彼女を不安にさせたらほんまつてんとうじゃないか。
袖に手を通して。ホワイトタイを締める。燕尾服をイメージした制服から、お客さんからは「執事さん」と揶揄われることが多い。ちなみに女性アルバイトさんは、大正時代の女給さんをイメージした制服で。翠色を少しだけ淡くした色合い。白のエプロンが店の雰囲気にマッチしている。今日、マスターも美樹さんも制服に身を包んでいて。
俺はささっと整えて、雪姫が待つフロアへと戻った。
「あ――」
雪姫が体を震わしているのが分かった。呼吸が浅い。雪姫がすがるように、スマートフォンを。繋がれていたストラップを握りしめていた。最近、不安な時に見せる姿。でも雪姫は、お守りがわりのように、ストラップを握りしめて。
プレゼントした身としては、嬉しさ半分。でもやっぱり雪姫を不安にさせた焦りがそれ以上を占めて。
俺は雪姫のもとに一直線で駆け寄り、その手をとった。
「ふ、冬君?」
「うん、お待たせ。ごめん、大丈夫だった?」
見るからに息が落ち着いてくるのが分かる。と、今度は一気に雪姫の両頬が朱色に染まる。雪姫に目を逸らされて、首を傾げた。
(あれ? 何か怒らせるようなことをしちゃった?)
俺が勝手に焦っていると、雪姫がもう一度、顔を上げる。視線がふらふら彷徨いながら。今度は、耳まで赤くなるのが分かる。
「大丈夫? 体調がつらい?」
「だ、大丈夫。ただ、いつもの冬君と違う姿だから、戸惑っているだけで――」
「そっか」
雪姫を怒らせたワケじゃないと分かり、俺はほっと胸を撫で下ろした。そっと雪姫の耳元に囁く。
「カフェオレ淹れるから、少し離れるよ。大丈夫?」
雪姫はコクンコクン頷く。
「ち、近くにいるの分かるから。多分、大丈夫」
「うん、ちゃんと傍にいるからね」
雪姫にしっかりと自分の想いを伝える。と、雪姫が蝶ネクタイ――ホワイトタイに手をのばした。
「え?」
「ネクタイがちょっと曲がっていたから」
「じ、自分で直せるよ」
俺が悪いのだが、至近距離で雪姫にネクタイを直されるのは、妙に照れくさいものがあった。見るとマスターと美樹さんが微笑ましそうにこちらを見やっている。美樹さんにいたっては、手を口に当て「あらあら」と言いた気で。
そういう目で見るのヤメてくれませんか? 思わず声に出しそうになったが、思い留まる。今は目の前の雪姫にだけ目を向けたい。そう思った。
「カフェオレ、淹れるね」
「うん。お願いします。すごく楽しみ」
心の底から楽しみにしてます、そう言わんばかりに表情が物語っていた。そんな雪姫を、俺は思わず見惚れてしまった。
■■■
(よしっ!)
心のなかで気合いをいれる。イメージをする。大丈夫。このイメージ通りに描けば良い。雪姫の視線を受け止めながら、俺はカウンターのなかで作業を――。
「上川君」
とマスターに声をかけられて俺は目をパチクリさせる。段取りも準備も、間違っていなかったと思うんだけれど?
「お客様へのご挨拶がまだだよ」
「あぁ……そういうことですか」
納得して頷く。【cafe Hasegawa】では記念日やパーティーで店舗を貸し切ってくれた客に足して、マスターがお礼を述べるのが、恒例だ。俺は作業しようとした手を止めて、マスターの行動を見守っていると、いつまでたっても動かない。むしろ、マスターと美樹さんに、にっこり微笑まれた。
「へ?」
「今日のバリスタは君だよ?」
マスターはニッコリ笑って言う。バリスタとは言わばコーヒーを淹れるプロである。当然、高校生の俺が認定資格を持っているわけが無い。マスターの言わんとする意味が理解できず、俺は目を何度もパチクリさせてしまった。
「下河さんをおもてなしするのは上川君だよね? 君のお客様なわけでしょ? いつまでお客様をお待たせするのかな?」
ニコニコ笑って、そう言う。マスター、貴方は鬼かよ。
「ほら、早く行った行った。下河さんが待ってるよー♪」
鼻歌交じりで美樹さんが言う。あんたら、夫婦そろって鬼かよ。
きょとんとした顔で、雪姫が俺を見ている。
俺は観念して、ため息をついた。
ゆっくりと、雪姫の元へ歩む。
「冬君?」
「改めまして、ご挨拶申し上げます」
いつもマスターが言う言葉を思い出しながら、俺は深々と一礼をした。
「本日は当店を選んでいただき、本当にありがとうございました。お店は数あれど、今日という日に、私どもを選んでいただけたこと、本当に感謝しています。これからの貴女が過ごす時間を考えれば、今夜はほんの刹那に過ぎません。しかし、その刹那が一生の記念となるよう、誠心誠意おもてなしをさせていただきたいと考えています。今宵が貴女にとって、宝石のような時間となりますように」
顔を上げて、もう一度礼をする。は、恥ずかしい。マスターはいつもこんな言葉を、自然と紡ぐから、むしろスゴイと思う。
来てくれた人が最高の時間となるように。それが口癖で。でも、これは覚悟なんだと思った。
言って理解した。これは宣言なのだ、最高の時間を過ごしたいと選んでくれた人に向けて。最高のおもてなしをしますよ、と。
だから俺も宣言をすることを決めた。小さく深呼吸をする。
「最高の一杯を、雪姫にいれさせてください」
「……はい。楽しみにしています」
雪姫もコクリと頷いて。にっこりと笑ってくれたから――きっと、最高の一杯を淹れることができる。根拠も保証もないけれど、俺は何となくそう思えた。
■■■
作業そのものは染み付いている。ブレンドした豆をミルで挽き、そしてゆっくりとサイフォンで抽出していく。俺はこの瞬間が好きだ。まるで理科の実験のように、コーヒーが硝子瓶の世界で抽出されていく。
コーヒーの芳醇な香りが、店の中をほんのりと満たしていく。
そしてミルクフォーマーで柔らかく、きめ細かいミルクを作ったら――。
(ここからが本番だ)
コーヒーとミルクを1:1の割合でブレンド。ゆっくりと撹拌させていきながら、スプーンでコーヒーの世界に彩りを与えていく。
掻きませながら、線を時に引きながら。時に色を散らしていきながら。
(できた――)
コーヒーカップをソーサーに乗せて。崩さないように、壊さないように気をつけながら。
トレーに乗せて、雪姫の前に差し出した。
雪姫がまるで呆けたような表情で、俺とカフェオレを見比べる。
「ふ、冬君?」
「飲んでみて欲しいかな。一生懸命、雪姫のために淹れてみたんだよ。ちょっと頑張ってみたんだけど、どうかな――」
コーヒーカップのなかでは、白猫が微笑んでいる。いわゆるコーヒーアートだ。雪姫にプレゼントした白猫のストラップをイメージして描いてみた。
雪姫が立ち上がり、俺の言葉は塞がれた。
その目に涙をたたえて、カフェオレをそっちのけで俺に抱きついてきたのだ。
「雪姫?」
「う、嬉しい……」
「雪姫?」
「本当に嬉しい。嬉しいよ、冬君――」
あとは言葉にならなくて。俺は雪姫を抱きしめてあげることしかできなかった。泣かせたかったわけじゃないのに、と罪悪感が芽生える。雪姫がキャパオーバーになるまで追い込んでしまったのかと、滲んでくるのは後悔で――と、見ると、雪姫の表情は涙を零しながらも、これでもかというくらい幸せそうな笑顔を浮かべていた。
「雪姫?」
「嬉しいの。本当に嬉しかったの。冬君は私をいつも喜ばせてくれてくれるんだもん。こんなに幸せで良いのかな、って思っちゃって。本当に嬉しいよ。幸せすぎて、何度、私は冬君に幸せ過ぎて泣かされちゃうんだろう。嬉しい。本当に嬉しいの。冬君、冬君、冬君――」
雪姫は何度も俺の名前を呼ぶ。その度に、小さく返事を囁くことしか俺にはできなかった。
ぎゅーっと背中に、雪姫は手を回してきた。まるで今感じている幸せを丸ごと抱きしめようとするかのように。
唖然とそんな彼女を見つめながら。雪姫の髪をこの手で梳きながら。
(喜んでもらえた、ってことでいいのかな?)
雪姫の顔をもう一度見やる。
向日葵のように、俺の好きな笑顔を咲かせてくれる。
これでもかというくらい、幸せそうな笑顔を浮かべて。
恥ずかしさも、建前も雪姫の笑顔の前では吹き飛んでしまって――気付けば俺は、全力で雪姫を抱き締めていた。
■■■
「嬉しくないわけないよねぇ。まるでプロポーズでしょ、コレ」
「美樹、静かに。ふたりとも無自覚なんだから、今はそっとしておくの」
「分かってるけどね。でも、上川君、あんな風に笑うんだね。あれは瑛真ちゃん、ちょっと入り込む余地ないんじゃないかな?」
「美樹――」
「分かってるよー、マコちゃん。顔が怖い」
「でもあれだね。上川君のこの笑顔を見たら、放っておかない子増えるかもね」
「その時には、もう遅いと。でも、上川君、自己評価が低いから。そこは問題よね」
カウンターの奥で囁かれていた長谷川夫婦の会話。雪姫のことしか考えられなかった俺には、一切聞こえていなかった。




